第三十話 心休まる時間
ティアムーン帝国、帝都ルナティアの周辺には中央貴族領が広がっている。その南、辺土領域と呼ばれる地域との境界にベルマン子爵領はあった。
あの日以来……ベルマン子爵領の様子は様変わりしていた。あの日……そう、ミーア・ルーナ・ティアムーンがやって来た、あの日から少しずつ。
聖ミーア学園が広める新種の小麦『ミーア二号』はベルマン子爵領の各地の畑で実りをつけつつあった。
それは、徐々に子爵領を富ませつつあった。
当初こそ、味に難ありと敬遠されてもいたが、それも昔の話。料理長ムスタ・ワッグマンによって開発された調理法が広まるにつれて、その評価は一変する。
先んじて寒さに強い小麦を作っていたベルマン子爵領では、例年と変わらぬ実りをつけ、いくばくかを他領にも売るほどまでになった。
法外な値段で売るような真似はしなかったが、それでも、それなりの金が流れこむことになったのだ。
そのことがわかった時、ベルマン子爵は思わずひとりごちた。
愚かなことであった……、と。
そう、それは、よくよく考えれば、わかることだった。
目の前には土地がある。肥沃なる三日月地帯がある。それを、なにに使う? なにに使えばいい?
かつて、ベルマンは静海の森を切り開こうとした。領地を増やすために、多くの者たちの血を流させようとした。
だが……そうまでして、切り開いてどうするのか、そのヴィジョンが彼にはなかった。
新たな土地を得て……それで、なにに使うというのか?
町を建てるのか? 殖産業でもするか? 牧場として、牛や羊でも飼うか?
否、最も簡単な土地の使い方は、そうではない。土地を使い、領地を富ませるには、どうすればいいのか、言うまでもないことである。畑にするのだ。
土に種を蒔き、収穫を得るのだ。
ここは肥沃なる三日月地帯、合理的に考えれば、農作地にするのが、最も効率的だ。
そう……効率的なのだ、そのはずなのに……。
――我ら帝国貴族は農民を見下した。畑仕事を下賤な仕事だと軽視した。それは愚かなことであった。
ベルマンは、生まれながらに、ギリギリの中央貴族、中央貴族未満などと言われ続けた男だった。だからこそ、中央貴族たることに、余計に囚われたのだ。
けれど、そこから解放された彼は、極めて素直に物事を見ることができていた。
「あれは、呪いのようなものであったな……」
中央貴族たちを今なお捉える常識、慣習、呪い……そこから解放してくれた者、そして、ベルマンの栄誉を約束してくれる者、それこそが……。
「ミーア姫殿下……」
自らの館の前で、ベルマン子爵は待ちかねていた。
皇女ミーアを。さらには、皇帝マティアス・ルーナ・ティアムーンを。
「まさか、陛下までいらっしゃることになるとは……」
身に余る栄誉と誇りを胸に、彼は、今か今かと、その到来を待ちかねていた。
そんな彼の目に……馬車の一団が入って来た。
随伴の者たちに続いて、馬車を降りた恩人、ミーアは……なぜか、ニコニコ上機嫌な顔をしていた!
「ご機嫌よう、ベルマン子爵」
ミーアは、鼻歌混じりにスカートをちょこん、と持ち上げ、ベルマン子爵に挨拶する。
そうなのだ、ミーアは大変……大変に! 機嫌がいいのだ。理由はとてもシンプルで……。
――ああ、この、実に適切な規模のお出迎え、素晴らしいですわ!
ミーアはベルマン子爵のお出迎えに、心から感心していた。
なにしろ、子爵家の者たちが出迎えているのは、ミーアではない。皇帝、マティアス・ルーナ・ティアムーンなのだ!
それに、振られている旗はティアムーンの国旗だ。ミーアの顔が付いた珍妙な旗ではない! それに、ヘンテコな像が出迎えることもなければ、ミーアを賛美するおかしな歌が聞こえてきたりもしない。
極めて普通。常識的! ああ、素晴らしきかな常識人、である。
ミーアは、ベルマン子爵のことを見直した!
さて、ミーアに続き、皇帝マティアスが馬車を降りた。それを見て、ベルマン子爵が感動のため息を漏らす。
「おお、ベルマンよ。短い滞在だが、よろしく頼むぞ」
片手を挙げ、威厳たっぷりに言うマティアスに、ベルマンは膝をつき、深々と頭を下げる。
「ははー! 皇帝陛下が、我が屋敷に御玉体をお運びあそばせられましたこと、誠に光栄至極にございます。このベルマン、全身全霊を持ちまして……」
それを見て、マティアスは首を振った。
「ベルマン子爵よ、そうかしこまらずとも良い。私は、休暇に来ているのだ。それより、こたびは、ヴェールガからの客人も同行している。くれぐれも無礼のないよう注意せよ」
「ははー。臣の心に深く刻ませていただきます!」
――ああ、そう。これですわ。熱烈な忠誠がこちらに向かってこない、この気楽さ……素晴らしいですわ。
これから向かう聖ミーア学園前の、ひと時の心休まる時間。
それをじんわり噛みしめるミーアである。そう、心の平安を保つためには、適度な休息が必要なのだ。
そうして徐々に徐々に、恐ろしい場所に足を踏み入れる、心の準備をするミーアなのであった。




