番外編 ユバータ司教の顔なじみ
――ふむ、これは、思わぬ機会が訪れたものだ……。
その日、ユバータ司教は、帝都ルナティアの新月地区を訪れていた。
旧知の友を訪ねるためである。
「ここが噂に聞く新月地区ですか……。なるほど、かつて貧民街だったとは思えないほどの盛況ぶりですね」
同行してくれた皇女専属近衛隊の兵士に話しかけると、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「はじめてミーア姫殿下をお連れした時には、それはもう、酷い環境でした。そこらの路上で貧民が倒れ、それが放置されているような、そんな場所でした。けれど、ミーアさまは、この町の者たちを憐れんで、手を差し伸べられたのです」
「なるほど……あなたは、それを目撃された、と……」
問いかけに深々と頷き、兵士、オイゲンは言った。
「倒れていた孤児に駆け寄られたあの方は、その子を連れ、教会へと向かわれました。そして、神父さまから必要を聞き、この地に病院を建てた。さらに、忠臣たるルードヴィッヒ殿に権限を与え、この町を蘇らせたのです」
「そうでしたか……」
その辺りの事情は、手紙で知っていた。
彼の旧知の友も、まさに、その現場に立ち会った目撃者の一人であったから。
――モレス神父……新月地区の教会で働くと聞いた時には心配したものだったが……よかった。
ちなみに……新月地区の孤児院のモレス神父に会いに行くと聞いた時、ミーアは一も二もなく賛成した。
「ああ、それは実に良いことですわ。神父さまもきっと喜びますわ。ぜひ、お会いになってくるとよろしいですわ」
なぁんて、ニコニコしつつ、信頼のおける皇女専属近衛兵オイゲンほか数名を護衛に付けてくれたのだ。
その理由はもちろん、新月地区における自らの人気を加味し、ユバータ司教に好印象を与える算段を付けたから……などではもちろんない。
重要だったのは、モレス神父が非常にまともなことだ。
そう……彼は未だに、聖女ラフィーナの熱烈なファンなのだ!
帝都において、大部分の民衆が「聖女ラフィーナは帝国の叡智ミーアの友人である」という認識なのに対し、彼だけが「帝国皇女ミーアは、聖女ラフィーナの友人である」という認識なのである。
どちらが主でどちらが従か、それを間違えない、非常に信用できる男なのである。
彼ならば、まかり間違っても、黄金のミーア像とか言い出さないだろう、という確信がミーアにはあったのだ。黄金のラフィーナ像と言い出さないかは定かではないが……。
まぁ、それはともかく……。
ほどなくして、一行の前に教会と、それに併設された孤児院が姿を現した。
そして、その建物の前には、懐かしい男が立っていた。
「やぁ、来たか。ニコラス」
そう言って、モレス神父は手を差しだしてきた。その手を固く握りしめながら、ユバータ司教は言った。
「すまない。ずっと来たいとは思っていたのだが……」
眉尻を下げるユバータ司教に、モレス神父は首を振った。
「それは当たり前だ。神聖図書館の館長ともなれば、個人的な都合で国外に出るわけにもいかないだろう?」
それから、神父は孤児院の中へと誘った。
何度も補修が加えられた孤児院、ヒビだらけの壁を見て、ユバータ司教はつぶやいた。
「ここが君の仕事場か……」
「ああ、良い場所だろう? 数年前までは冬は隙間風が酷かったが、ミーア姫殿下のおかげで、それもなくなった。見栄えは少し悪いが、必要なものはすべて揃っているのさ。おっと……」
前方から走ってくる子どもに向けて、モレス神父が言った。
「こらこら、走ったら危ないよ。誰かにぶつかったら、ケガをしてしまうだろう?」
優しくも、はっきりとした言葉に、声をかけられた子どもはハッとした顔をする。
「あっ、神父さま。ごめんなさい」
すまなそうな顔で頭を下げて、それからユバータ司教のほうを見てちょっぴり緊張した様子を見せるが……。
「彼は私の友人でね、訪ねてきてくれたんだ」
「神父さまのお友だち?」
「ああ、とても大切なね。ご挨拶してくれるかな?」
それを聞くと、子どもは小さく笑みを浮かべて挨拶してから、外に向かっていった。どうやら、孤児院の庭で遊ぶつもりのようだった。
「気を付けて遊びなさい」
神父の声に、手だけ上げて行ってしまう。
モレス神父に無警戒な信頼を寄せている様子、それに、初対面の自分に緊張した態度をとったこと……人との関係が適切に取れていることに、ユバータ司教は感心する。
親を亡くし、社会に絶望した孤児というのは、不必要に他者を遠ざけるか、反対に、無警戒に馴れ馴れしく接してくるもの。
親という、自分を守ってくれる壁がないから、隠れることさえできない子どもたちは、しばしば人との距離感を見失うものなのだ。
そんな孤児たちが、ごく普通の子どものように振る舞っていることが、モレス神父がいかに心を砕いて仕事にあたっているかを証明しているかのようだった。
「子どもの相手というのは、なかなか難しいものだよ」
苦笑いを浮かべ、肩をすくめるモレス神父に、ユバータ司教は頷いた。
「そうだろうな。苦労は多いだろうが……少し、うらやましくもあるな」
その言葉に、神父は目を丸くする。
「ははは、ヴェールガの神聖図書館長がなにを言うか。君の負った重責に比べれば、私のものなど……。いや、違うな。人にはそれぞれに神に与えられた負うべき荷がある。感謝なことに、私は弱き者たちに直接手を差し伸べる機会を与えられた。君は神聖図書館の館長として、その頭を生かす機会を与えられた。ならば、互いに、自らの役割を全力で果たすのみさ。そうだろう?」
そう、それは正しいこと。
ユバータ司教は知っている。
自分の働きは、決して卑下すべきものではない。
それは、中央正教会の、そして、ヴェールガの正しさを確保するために重要な仕事だ。国がおかしな方向に押し流されていかぬようにすることは、とてもとても大切なこと。
されど……文献に囲まれ、神聖典に書かれた文字に深く、深く意識を向ける時、彼の胸には、小さな罪悪感があった。
落ち着いて、論文の構想を練っていると、どうしても、思ってしまうのだ。
――私は、こんなところで、なにをしているんだろう? と。
今、この時に倒れ、力尽きようとしている者に、助けを必要としている貧しき人たちに手を差し伸べること……これほどわかりやすい善はあるだろうか。
それは長年、ユバータ司教の胸を焼く、強い、強い熱望だった。
けれど……。
「しかし、パライナ祭とはな。また、懐かしいものが出てきたものだな」
モレス神父の言葉にハッとする。
「ああ、私もはじめに聞いた時には驚いたものだったが……」
そう、最初はただの驚きに過ぎなかった。けれど、皇女ミーアの話を聞いて、驚きはさらに大きなものになった。
――民に対する貴族の意識を変える……。孤児たちを、各国の貴族が救うよう、働きかける試みか……。
弱き者たちに手を差し伸べる機会が、彼の目の前に示されていた。直接的ではないにしても、効果的で、意義のあること……彼の熱望に対しての答えが示されたかのようだった。
失敗するよりは、成功したほうが良い。それは間違いない。けれど、彼の本音は少し違う。
なんとしても、成功させたい。
現場で働く神父ではなく、神聖図書館館長だからこそ、できることがあるのだと、その道がはっきりと、目の前に示されているかのようだった。
だからこそ、成功させたいと、強く強く思う。
「……なんとしてでも成功させなければ」
誰にも聞こえぬつぶやきをもらすユバータ司教であった。