第十四話 奇跡とはなにか?
ヴェールガ公国、神聖図書館館長には、古くから強い権限が与えられていた。
それは、彼らが「言葉」というものを重要視してきたからだ。
中央正教会、その基はなにか? と問われれば、神から与えられた「神聖典」である、ということができる。
神聖典、それは、古来より変わることのない神の言葉だ。
そこに書きつけられた文字、その一文字さえも、後の世に書き換えられることはない。歴史の流れに左右されず、その時代の習俗、人間の変化、堕落、一切に左右されず……世の始まりから終わりまで変わることのない神の言葉だ。
だからこそ問題となるのは、その解釈だった。
文章というものは、いかようにも曲解して、読むことができるもの。自分の好き勝手に読み解くことで、神聖典すら曲げてしまうことができる。そして、かつて、そのような蛮行が行われた時代が確かにあった。
そのような過ちを防ぐため、ヴェールガには、釈義院と呼ばれる、神聖典の解釈の正しさを問う組織が存在している。
「神により書かれた唯一の書物、神聖典の解釈の正しさは、ただ神聖典によってのみ保証される」という考え方を基本とし、議論の的になった箇所を、神聖典の他の箇所と照らし合わせて正誤の判断をする。そこでの議論はすべて公開され、その結果は、仮にヴェールガ公爵であっても曲げることはできない。
そして、書物と文字とのスペシャリストである神聖図書館館長の座にある者は、釈義院の一員にして、一目置かれる存在なのだ。
そんな神聖図書館の館長ユバータ司教は、セントノエル学園からの書状に目を通していた。
「パライナ祭か……懐かしい名前だな」
かけていた眼鏡を外し、目尻を揉みながら、ユバータ司教はつぶやく。
「今さら、あの古の祭りを再開しようとはな」
さて、発案者は誰だろう、と見てみれば、そこにあったのは知人の娘の名で……。
「セントノエルの生徒会長、レア・ボーカウ・ルシーナ……。マルティンの娘か……。それに、連名でラフィーナさまもか……」
先日、ルシーナ司教から届いた手紙を……そして、そこに含まれていた暗号を思い出し、ユバータ司教は眉をひそめる。
「セントバレーヌで計画していたことは、上手くいかなかったと聞いていたが……。ラフィーナさまの名があるということは、この裏には確実に、かの帝国の叡智がいるのだろうな。レア嬢もミーア姫殿下の側についたとは、マルティンにとっては手痛い結果だったな」
今度、訪ねてきたら愚痴でも聞いてやるか、とつぶやきつつ、思索を続ける。
実のところ、ユバータ司教は、ルシーナ司教ほど、ミーアのことを警戒していなかった。
蛇の巫女姫を捕らえたことはもちろん、それ以前から彼女の行いは一貫して、民のためのものだった。弱き者たちを救う公正なものであった。
それは少なくとも、皇女としての善良な行いであったし、かのサンクランド国王にさえ引けをとるものではない。称賛されこそすれ、咎められる筋のものではない。それでもなおミーア姫を警戒しなければならないとするなら、この大陸のすべての権力者を警戒しなければ、公平性と整合性を欠くことになるだろう。
――マルティンは、過去の経験ゆえに、信じた後で裏切られることを恐れたのだろうが、未来のことなど誰にもわからぬもの。将来的に裏切られるかもしれないことは、これまでの行いを否定する材料にはなり得ない。
そして、そんな善良な皇女が建てた聖ミーア学園というのも、なるほど、おそらくは良い学校なのだろうとも思う。
「パライナ祭にその学園を参加させることで、ヴェールガの信認を得ている……と、そう世に示すことが目的か……」
彼は、帝国内の教育事情についても、多少は耳にしていた。貴族主義的な学校が幅を利かせている現状、聖ミーア学園の存在は、さぞ目障りなことだろう。
そんな攻撃を避けるために、中央正教会の承認を得ることは、プラスに働くのだろう。
「あるいは、我らヴェールガと敵対する意思はないと、あえて表明しようとした、と……そのような狙いも見て取れるな」
ヴェールガからのお墨付きを重視するやり方は、ヴェールガの力を認め、友好的関係を築きたい、との意思表明と取れないこともない。
その姿勢は、覇を唱え、争いと混乱を巻き起こすような者とは程遠い、理性的で好ましい人物のようにも見える。
ただ……懸念がないではない。
「パライナ祭をそのように利用すること自体、好ましく思わない者はいるだろうが……それは問題の本質にあらず。むしろ、問題は、上手くいくとは限らないことだろうな……」
どれほど狙いが善良なものであったとしても、それで成功するとは限らない。
そして上手くいかずに一度は中止にした祭りを再開したにもかかわらず、再び失敗しては、面目は丸つぶれだ。
ヴェールガはもちろんのこと、セントノエルも、聖ミーア学園も、名を落とすことになるだろう。そして、その失敗に付け入ろうとする者たちが、この世には存在している。
「混沌の蛇……か」
どこにでもいて、誰もがその誘惑に陥る危険性を孕んでいる、恐るべき存在。
かの者たちは、古くから帝国の中に深く根差していたと聞くが……。
「そう、それも不安と言えば、不安なところだ。混沌の蛇の影響……初代皇帝の影響から、かの姫君は、完全に脱しているのだろうか……」
ミーアの行い自体は善良に見える、けれど、それでも油断できないのが蛇の警戒すべきところだ。彼らは、こちらの心に侵入するために、善行さえも利用する。
誰が見え見えの悪を口にする者に耳を傾けるだろう?
蛇の甘言とは、耳に心地よく、善良で、好ましく思えるもの。
誰が明らかな悪人を家にあげたいと思うだろう?
蛇とは、誠に友にするによい、好人物の顔をして、心の中に入ってくるものなのだ。
「蛇……地を這うモノの書、か……」
その不可思議な書物がいつ、どのようにしてこの世に現れたのか、詳しいことはわかっていない。
確かに、その大部分、混沌をもたらす方法論に関しては、書き手がはっきりしているものもある。が、その大本となった思想、人の意識の根底に絡みつく、あの感染する思想については、誰がどのようにして生み出したものなのか……明らかにはなってはいないのだ。
そして、それこそが、この世の理の外からの物のように、ユバータ司教には見えていた。
それは、邪神か悪魔か……いずれにせよ神に敵対するものが、自然の法則を超えてもたらしたもの……と、彼は考えていた。
「はたして、神は、地を這うモノの書をどのように取り扱うのか……」
ユバータ司教の興味はそこにあった。
彼は、神の無制限な奇跡というものに否定的だった。
もしも、神がこの世の理を造ったのだとして、自分で定めた理を簡単に破るのは、理屈に合わないからだ。
それは、自作のゲームで遊ばんとする子どもと同じだ。自分が勝つためにルールを勝手に変えてしまっては、ゲーム自体が破綻する。それでは面白くもなんともない。
神も、同じではないか?
奇跡を起こすことはもちろん可能だが、自分で造ったルールを、なんの縛りもなく破るのは、理性的なこととは言い難い。
ゆえに、もしも「自然の理を超えた奇跡」があるとすれば、それは必要最低限であり、なおかつ極めて厳格かつ公正に行使されるものであると、彼は考えている。
すなわち、仮に「地を這うモノの書」が本という形で、世の理の外からもたらされた悪の奇跡であれば、その反作用として行使される善の奇跡は同じく本のような形なのではないかと考えているのだが……。
「対となる書物が神聖典かとも思ったが……違うような気がする」
もしも、神聖典が、人を律するために与えられたものだとするなら――人が、神聖典を与えられる前提で造られた存在であるとするなら、それは「地を這うモノの書」に対して与えられたものではない。
もっと別の「地を這うモノの書」に対応したなにかが与えられるか……あるいは、すでに与えられているのではないか……。
ユバータ司教は、そこで小さく首を振る。
「いずれにせよ、ここにいては、判断がつかぬな……」
しばしの熟考、長い祈りの末に、ユバータ司教は一つの結論を得る。
「帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンなる人物が信用に値するかどうか。そして、パライナ祭の開催が本当に、我が神の御心かどうか見極めるためにも、どうやら、私は会わねばならぬようだ……。帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンに」
そうして、ユバータ司教は静かに部屋を後にした。




