第百五十六話 宴の夜に
それは、橋の上での決闘を終えた後のこと。
ディオン・アライアは一人で、酒杯を片手に月を眺めていた。
そこは、宴の喧騒から少し離れた場所。決闘の場にほど近い別の橋の上だった。
川の水音、夜風の駆け抜ける音、それに……遠くに聞こえる賑やかな宴の声。
このセントバレーヌの侵略のために来たというのに、まったく、勝手なものだ、などと苦笑いを浮かべつつも、彼の気持ちは晴れやかなものだった。
「まぁ、この終わり方に乾杯したくなるのはわかるがね」
悪くない……そう、悪くないどころか……これほどまでに良い気分は、ひさしぶりのことだった。
これは、帝国の叡智ミーア・ルーナ・ティアムーンが目指した結末。
ルードヴィッヒの立てた作戦や、ディオンの剣の貢献ももちろん大きかったものの、この夜を迎えることができたのは、間違いなくミーアのおかげだろう。
「強敵を打ち倒すことも、橋の上で華々しく討ち死にするのも悪くはない死に方なのだろうけど……はは、やっぱり姫さんは、美味い酒を飲ませる天才だな。勝負がつかなかったのに、こんな気持ちで酒を味わうことになろうとはね」
じわりと胸に湧く満足感に、ディオンは静かに笑う。
っと、その時だった。
「ああ、こんなところにいたの」
「これはこれは、イエロームーン公爵令嬢」
少し前から近づいてくる足音には気付いていたから、慌てることはなかったが……。
「こんな時間にお一人で外出とは、いささか不用心じゃないかな? ミラナダ王国の兵も、ポッタッキアーリ候の兵も、酒を飲んで羽目を外しているだろう?」
橋によりかかるようにして体を後ろに向ける。っと、そこには、可憐な笑みを浮かべる少女、シュトリナ・エトワ・イエロームーンが立っていた。その手が不意に動き……。
「おっと……」
直後、飛んできた瓶を、ディオンは片手で受け止める。
「これは?」
「薬よ……」
「薬……? ああ、傷薬だったら不要だよ。生憎と、あの程度でケガなんてね……」
「心配しないで。傷薬じゃない。ただの臭い消しの香水よ」
「臭い消し……?」
シュトリナは、両手を後ろ手に組んで、澄まし顔で言った。
「あれだけ動き回ったのだから、鎧の中は相当、蒸れたでしょう? かといって、後始末のもろもろで、まだお風呂に入れていないのでしょう? 汗臭いままにしていたら、ご令嬢からは嫌われるし、姫殿下の騎士としても失格なんじゃないかしら?」
シュトリナは、からかうような笑みを浮かべた。
「はは、なるほど。これは、無骨なる兵士には気付かぬご配慮、感謝しますよ。しかし……香水ねぇ……」
ディオンは、香水の瓶のふたを開けてみる。っと、鼻に届いたのは、優しい花の香りだった。
「あまりきつくないな……。少し気が休まるような香りだ」
「戦いの後の夜にはぴったりの香りでしょう? 帝国最強の騎士なら、多少、気を抜いても不意は突かれないでしょうしね」
そんなシュトリナに、ディオンは肩をすくめた。
「お気遣いはありがたいが……しかし、僕なんかに構っていないで、こういう時こそ、きちんと友だち作りに精を出したほうがいいんじゃないかね? 例の、未来から来たという姫さん以外の、ね」
「……言っておくけど、リーナ、別にお友だちがいないわけじゃないから」
シュトリナは、ちょっぴり頬を膨らませて、ムッとした顔をする。
「生徒会の仕事でいろいろな人と交流があるし、お茶会だって行くようにしてるし……それに……」
「姫さんの話がどこまで本当かは知らないが……いずれ、遠くへ送り返さなければならないんだろう? あの子は……」
その言葉に、シュトリナは一瞬、頬を強張らせる。
「だからこそ今の時間を大切にしたいってのは、まぁ、わかるが……ほかにも友だちでも作っておいたほうが良いんじゃないかな」
「偉そうなことを言うけれど……ディオン・アライア、そう言うあなたは、いるのかしら? 友だちと呼べる人が」
思わぬ反撃を受け、ディオンは二度、三度と瞬きして……。
「友……か。友ねぇ……」
静かに、空を仰いだ。
「心を許せる友と呼べるのは、僕にとっては戦友のことかな、やっぱり……。そういう意味では、かつての百人隊やバノス辺りがそうかもしれないが……ただ、たぶん君が思っているような関係ではないんじゃないかな」
不意に、ディオンの顔に影が差した。
「命のやり取りの場では、安心して背中を任せられる戦友が必須の存在になる。心から信頼して……けれど、その友がいつ、どんな死に方をしても動揺しないように、そんな関係を結ばなければならない。今日、楽しく酒を酌み交わし、明日死んだら、互いに笑って見送ってやれる関係……それが僕の考える友というやつだよ」
酒杯を口に近づけようとして、中が空になっていることに気付いた。小さく肩をすくめてから、ディオンは続ける。
「ただ、まぁ、なんというか……どうも、姫さんのそばにいると、そういう在り方がはたして正しいのか……と、思わなくもないのだけどね……」
その様子を見て、シュトリナはわずかばかり驚いた様子で……。
「帝国最強の騎士を心変わりさせるだなんて、さすがはミーアさまね」
「望むと望まざるとにかかわらず、良い方向へと変えてしまう。ミーア姫殿下はそのような方だ、とルードヴィッヒ殿が言っていたよ……ああ、そうだ」
ふと、そこで、思いついたとばかりにディオンが言った。
「ルードヴィッヒ殿は、普通に、友と呼んでも差し支えない関係かもしれないな……。ふふ、この僕に戦友以外の友ができるとはね」
かつて言われた言葉の通り、変わっていく自分を意識し……それを不快だと思っていない自分がおかしくて、ディオンは笑った。それから、
「さて……それじゃあ、ルシーナ司教の館までエスコートしようか。酒を飲んだ兵に絡まれでもしたら、面倒だろう?」
「あら、その時は助けに来てくれるんでしょう? あなたは帝国最強の騎士なんだから」
悪戯っぽい笑みを浮かべるシュトリナに、やれやれ、と首を振るディオンであった。
今週は、セントバレーヌのゴタゴタ後のそれぞれのエピローグ的なものを雑多にやっていきます。
恋と冒険の一週間にする予定です。来週には9部に入ると思います。