第百五十一話 類稀なる夜の風景
ルシーナ司教、並びに、ビアウデット伯が納得してしまったことで、ポッタッキアーリ候は追い詰められた。
本当は、港の権益に少しでも食い込みたい。けれど、それでは、自分がその目的のために軍を動かしたことがまるわかり。ここは、軍の糧食を得るぐらいで押さえるべき……だが……。
理性と欲望に揺れるポッタッキアーリ候であったが、
「残念ながらここまでだ。軍の遠征にかかった費用、それ以上を求めれば我がレムノ王国の悪評に繋がりかねん。それを見過ごすわけにはいかんな」
そうゲインに諭され、渋々ながらも兵を引くことを了承。
かくして、侵攻軍の撤退は決まった……のだが……。
「おお、さすがはラフィーナさまですわ」
住民のほうを片づけて、ミーアはラフィーナと合流した。
すでに、話はついたのか、ラフィーナは敵軍の司令官、ポッタッキアーリ候とビアウデット伯、さらにはゲイン・レムノを従えていた。
まったくもって涼やかな笑みを崩さなかったラフィーナだったが、ミーアの姿を見ると、ちょっぴり嬉しそうな顔で、小さく手を振った。
――ふぅむ……これから、兵士たちに声をかけるとのことでしたけれど……、これ、わたくしがいる必要ってあるかしら?
小さく首を傾げるミーアである。
正直なところ、ミーアとしては、別にこっちはラフィーナさまだけで片付けてくれてもいいんだけどなぁ! と思ってはいたのだが、ラフィーナの強い希望とあっては仕方ないので……。
そうして、兵士たちによく声が届くよう、近くの建物の屋上へ。
「みな、聞け! ヴェールガ公爵令嬢、ラフィーナさまから、みなに話がある」
整列した兵士たちに向かい、ビアウデット伯が声を上げる。
それで、ざわついていたミラナダ王国兵が背筋を伸ばした。ちなみに、ポッタッキアーリ候の私兵団のほうは、すでに、傾聴の姿勢を取っていた。軍の規律の差が出ているようだった。
さて、みなの視線を受けて、ラフィーナが静かに話し出した。
「ミラナダ王国軍のみなさん、それに、ポッタッキアーリ侯爵家の私兵団のみなさん、ご機嫌よう。私はラフィーナ・オルカ・ヴェールガ。ヴェールガ公爵家の娘です」
小さく頭を下げてから、ちょこん、とスカートを持ち上げるラフィーナ。
「この度は、セントバレーヌへの遠征、お疲れさまでした」
労いの言葉を口にする、その声はどこまでも澄み渡り……兵士たちは聞き入るように、口をつぐんでいた。
ラフィーナは、一人一人に微笑みかけながら、これまでの経緯を伝えていく。
ルシーナ司教の要請が誤解によるものであったこと、両軍は、すでに戦う必要は無いこと。
特に、戦う必要がない、と聞かされて、兵士たちは見るからに安堵した様子だった。
なにしろ、ラフィーナとミーアの後ろには、最恐の騎士が連れ添っている。
自分たちの側にもレムノの剣聖がいるとはいえ……、あの橋の上の戦いを見る限り、どちらにも近づきたいとは思わない。
「戦は、無事に回避されました。帝国皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーン姫殿下によって……。無為に命が失われずに済んだことを神に感謝を。そして、この争いの回避に尽力してくださったミーアさん、それに、我がヴェールガの求めに応じて、この地に集った勇敢なるみなさまがたにも感謝をささげます」
そう言って、ラフィーナは深々と頭を下げてから……ちら、っとミーアのほうに目を向けた。
――これは……わたくしにも、なにかしら声をかけろということかしら……?
正直なところ、ミーアとしては特に撤退を決めてもらえれば、それで十分ではあったのだが……。
――いえ、しかし……ここはわたくしがバランスを取っておく必要があるのかしら……。
ミーアは、ふと思い至る。
ミラナダ王国には罰として、新種の小麦を育てることを命じてはどうか……とラフィーナに提案したわけだし、たぶんポッタッキアーリ候のほうも、相応の罰を受けているはず……。
――戦に来た兵たちが、不満に思っている可能性は高いですわ。それに、まったく暴れられずに鬱憤が溜まっている方もいるはずですわ。ならば……。
ラフィーナに促されるように前に出たミーアは、スカートをちょこんと持ち上げてから、
「みなさま、ご機嫌よう。わたくしは、ティアムーン帝国皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーンですわ。以後お見知りおきを」
華やかな笑みを浮かべた。それから、辺りをゆっくり見回して……。
「こうして、みなさまと言葉を交わす機会が得られて嬉しいですわ。剣を向け合うのでもなく、恨みを持ち合うのではなく……こうして穏やかに言葉を交わすことができる、なんと幸福なことかしら……」
強調すべきは、戦いにならなくて良かったね! という点である。
そうして、ミーアは、そっと自らのかたわらに立つ、ディオン・アライアに目を向ける。三枚に下ろされなくって良かったね……と、視線に乗せ、無言のうちに語りかける、っと、兵士たちの中の何人かが、ゴクリ、と喉を鳴らした。
「それに、考えてみると、これは、なかなかに珍しい事態ではないかしら?」
さらに、ミーアは強調する。
これって……結構、希少な経験じゃない? っと。
「だって、そうではありませんこと? 今、みなさまは、勝者でも敗者でもない。戦をしに来たというのに、殺すことも殺されることもなかった。戦をしなかった者として、侵攻しようとした土地に立っている。無血開城もなく、撤退もなく、そこに立っている。恐怖も憎悪もなく、セントバレーヌの民の前に立つ機会を得ている。なかなか珍しい事態と言えますわ」
みなさんは、今、とても珍しくて、貴重な経験をしてますよ……、とミーアは言う。そして……。
「ならば、今宵を得難い夜として、楽しく過ごして帰るのがよろしいですわ。セントバレーヌの防衛訓練に協力した、善意の者たちとして、宴に参加してから、故郷に帰られるのがよろしいのではないかしら」
多少、罰を受けたろうけど、せいぜい貴重な経験を楽しんでから帰ったらいいよ、と言いたいミーアである。徒労感はあるかもしれないけど、良い経験ができたんだから、それで満足して帰りなさいよ、と言いたいのであった。
そうして、如才なく、商人組合に宴の準備を手配しておく。美味い物さえ食わせておけば、大抵のことは片付くと信じるミーアなのであった。
さて、その夜のこと……。
兵たちは、ミーアの言葉通り、軍事訓練に協力した者たちとして歓迎を受けた。
ディオンとギミマフィアスの決闘にテンションが上がっていた住民たちにより、宴は大いに盛り上がった。
途中から、ディオン、ギミマフィアスに加え、アベルやシオン、キースウッドにゲインさえ交えて、模擬剣を使った試合が行われた。飛び入りで各軍のお調子者の兵士たちも参加して、それはそれは盛大に執り行われたのだった。
それは、実に楽しい夜だった。
戦をしなかったからこそ、なんの禍根もなく、互いの肩を抱き合い、酒を酌み交わす、出兵の結末としては、類稀なる夜だった。
……かくて、ミーアは戦を、平和な娯楽に閉じこめた。
すべての真相を知る、商人たちの目に、その奇蹟の夜がどのように映ったのか……。
蒔かれた種がどのような実りをつけるのか、知る由もないミーアであった。
来週は、一話を除いてお遊び回にする予定です。
その後は第九部になる……はずです。