第百四十一話 凶報が扉を叩いて
「父上……」
ルシーナ司教のほうを見たリオネルは、一瞬、言葉に詰まったようだった。
いつも厳格で、正しく、強かった父の顔に、憔悴の色が見て取れたからだ。
彼にとって、神にも等しき絶対者であった父、揺らぐことなき正義の体現者であった父が、今は一人の弱き人間に見えた。
過去に傷つき、未来の希望を信じることができなくなった、頼りない人間に見えた。
そのことがリオネルに与えた衝撃は、思いのほか大きかった。けれど……目を逸らすことなく、父の顔を真っ直ぐに見つめたまま、リオネルは口を開いた。
「父上のお考えはよくわかりました。その不安も、理解できます……いえ、今の僕では、完全に理解なんか、できないのかもしれないけど……。それでも、なさろうとしたことは、わかるつもりです」
静かに、父のやろうとしたことを認めたうえで……。
「しかし、たぶん、父上はそれでは、安心できないのではないですか? 父上の思うとおりの体制が築けたとしても父上の心は安らがないのではないでしょうか? 今度は、その体制を悪用し、腐敗する王族が出るかもしれない。裏金をもらう司教がいるかもしれない。体制自体の腐敗を防ぐための、強力な体制が必要になるかもしれない。そうでは、ありませんか?」
各国の王は必ず、聖職者でなければならないとして、その聖職者の任命が公平に判断されるよう、常に監視しなければならない。一度、選ばれた聖職者が、生涯ずっと神の掟に従っているか、監視し続けなければならない。監視する者が腐敗しないか、監視し、縛らなければならない。
……それではきりがない。それでは解決にならない。
その実感があったからだろうか……リオネルの指摘にルシーナ司教は苦い顔をしていた。
そんな父に、リオネルは静かに告げる。
「父上、僕は……セントノエル学園を卒業したらヴェールガを出て、ツロギニア王国に行きたいと思います。派遣司教として……」
「なに……?」
息子の言葉が想定外だったからだろう、ルシーナ司教は、思わずと言った様子でつぶやいた。
「ツロギニアに……、なぜだ?」
「父上ができなかったこと……、やり残したこと、心残りとなっている過去を払拭するために……」
確固たる口調で、リオネルは言った。
「ツロギニアからもセントノエルに学生は来ています。ミーア姫殿下のお言葉を聞き、セントノエル学園でなされていることを目にした学生が、卒業後に国に戻った時、良い方向に国を変えることを、僕は手伝いたいのです」
すでに、ルシーナ司教が派遣司教をしていた時から長い時間が経っている。あの当時の王侯貴族の性質が、今もなお残っているとは限らない。
ゆえに、リオネルがツロギニアを選んだのは、あくまでも象徴的な意味だ。かつて父が救えなかった国で、今なお、弱き者が軽視されるようなことが行われているなら、それを放置することはできないから。
それから、リオネルは深々と頭を下げた。
「ミーア姫殿下に示されるまで、父上のお気持ちに気付かなかった僕を、どうか許してください。そして、どうか、僕を信用してください。セントノエルは、確実に良い方向に変わりました。ラフィーナさまや、ミーア姫殿下の生徒会が作り上げてきたものは、学園を変え、世界を変えていく。決して急進的ではないけれど、少しずつ良いほうに……それを見守り、祈り、導く、それこそが、我々の仕事だと、僕は思います。だから……」
真っ直ぐに、父の目を見つめて……リオネルは言った。
「その、僕の未来を……その働きを信じてはいただけませんか、父上。僕を信じて、ミラナダ王国軍とポッタッキアーリ候の軍に、引くように言っていただけませんか?」
その言葉に、ルシーナ司教は揺れているようだった。今までのように、取り付く島もないといった様子ではない。迷い悩んでいる様子が確かにあった。
――おお! これは、予想外に良い方向に話が進みそうですわ!
二人のやりとりをはたで見ていたミーアは、心の中で快哉を上げた。
――ルシーナ司教もここで、ノーとは言いづらいはず。それにリオネルさんも、ツロギニアに行けば、ベルの問題も片付きますわ!
想定外のことながら、これには、シュトリナもニッコリだろう。
――あとは、このまま、ルシーナ司教がうん、と言ってくれれば、戦闘は止まりますし……。後片づけは商人組合のビオンデッティ商会とフォークロード商会に任せて……ルードヴィッヒにも手伝ってもらえば、そう悪いことにはならないはずですわ。となると、うふふ、オウラニアさんが調べた海の幸を使っての宴会が待ってますわ。ラフィーナさまをたっぷりと歓待しなければ……。
そう……すべては、上手くいきそうだったのだ。
このまま、何事も起こらず、無事にミラナダとポッタッキアーリ候の連合軍は引いていき、もろもろの処理を終えて、楽しい宴が待っていると……ミーアは心から安堵していたのだ。
……その安堵が、油断という名の甘い誘惑であるとも知らずに。
そうして、凶報は、唐突に聖堂のドアを開いた。
「失礼いたします。ミーア姫殿下!」
聞き覚えのある声、それは、高い女性の声だった。
聞いた瞬間、ミーアは嫌な予感に……いやぁな予感に囚われる。
ゆーっくりと振り向いたミーアの視界に、その人物が映りこむ。
こだわりの強そうな外套に身を包んだ女性、満面の笑みを浮かべる彼女の名は……。
「ご注文いただいていた旗が、ついに完成いたしました!」
その凶報は……シャルガールという女性絵描きの姿をしていた。