第百四十話 遠くても、色あせない記憶
「はぇ……い?」
うっかり気の抜けた返事をしてしまったミーアは……次の瞬間、後悔する。
――あ、あら……? 今のって肯定の返事をしちゃいけないやつだったんじゃ……。
そんなミーアに構わず、ラフィーナは続ける。ノリノリで続ける! ちょっぴり、ドヤァっとした顔で、友だちを誇る!
「あなたは、ミーアさんの行いを我らの神に成り代わる業だと思ったようだけど、違うわ。彼女は、ただ、我らの神が、せよと言われたとおり、善なる行いを、自分の職責に従ってやっているだけ。帝国皇女として、統治者に連なる者として、ただ、正しくあろうとしただけ」
断言である! 疑問も、否定の入る余地もない、完全無欠な断言である!
そうして、一転、穏やかな声で、ラフィーナは続ける。
「そして、それこそが、あなたの祈り求めた者でしょう? ここにいるミーアさんこそが、力弱き子どもたちを助け、育て、決して見捨てない王よ。神から委託された権威を正しく用いている人よ」
大層な紹介のされ方に、ミーアはますます青くなる。
――これ、認めてしまったら、わたくしってずっとルシーナ司教の目に叶うような、清廉潔白な生き方をしなければならなくなるのでは……?
どちらかと言えば、勤勉じゃなく、できれば怠惰にダラダラしていたいミーアとしては、それは、ちょーっぴり遠慮したいところだった。疲れそうだし……。
それに、全幅の信頼はやはり恐ろしいもの。できれば、悪いところに気付いたならば、はっきりと言ってもらいたくもある。
ということで……、できれば、信頼をやや弱めたいし、責任を分散したい……であれば……。
ミーアはシュシュっとその場の陣容を確認し……素早く考えをまとめ……そして、静かに口を開いた。
「その通りですわ……っと言いたいところですけど、おそらく、ルシーナ司教には、それでは不足なのでしょう?」
その言葉に、ルシーナ司教はゆっくりと目を上げた。その目を真っ直ぐ見つめ返し、ミーアは言った。
「わたくしは、今まで、自分にできる最善を行ってまいりましたわ。それは神から与えられた機会を生かしてきただけ、とわたくしは思っておりますわ」
まず、ミーアは事実を告げる。ここには一切の嘘はない。
ミーアは確かに常識を遥かに超えたことを体験していて、そんなことができるのは、神さまぐらいしかいないだろうなぁ、と漠然と考えているからだ。
その与えられた機会を生かしているだけ、どこにも嘘はない。正直者のミーアである。
「そして、わたくしがそれを始めたのは、すべて、ある方の祈りによるものですの……」
そっとミーアは目を閉じる。
それは、もう、遠くなってしまった、されど決して色あせることのない、一つの記憶。
断頭台へと送られる、あの日……地下牢でミーアのために祈ってくれた人がいた。
最期の日まで寄り添い、親切にしてくれた人がいた……。
――アンヌさんは、処刑されるわたくしのために、神の加護を祈ってくれた。思えば、あれから、すべてが始まったと言っても、過言ではありませんわ。
それから、ミーアは目を開けて、
「その方だけではありませんわ。わたくしには、懇意にしている新月地区の神父さまがおりますけれど、彼もきっと祈ってくれているでしょう。もちろん、お友だちのラフィーナさまだって、わたくしのために祈ってくれているはず。統治者には、きっと祈る人というのが必要なのでしょう……ところで、ルシーナ司教」
ミーアは強い視線をルシーナ司教に向けて……、
「あなたは、祈っておりますかしら? 子どもたちのためだけではありませんわ。商人組合の方々のために、この地を統治する者たちのために、あなたは、祈っておられるのかしら?」
「え……?」
不意を突かれたように口を開けたルシーナ司教に、ミーアは続ける。
「彼らが判断を誤らぬよう、悪の道に堕ちぬよう、善き判断ができるように……祈り、励まし、説教していたかしら?」
「それは……」
言い淀んだルシーナ司教を見て、ミーアはニンマーリ、と心の中で微笑む。
――まぁ、そうですわよね。やってきた! と胸を張っては、言えませんわよね。
それは、別に賭けでもなかった。
ルシーナ司教のように真面目な人は、仮にしっかりやっていたとしても、問い返されると、その真面目さゆえに、やっていました、とは答えられないもの。つい、自分自身を省みてしまうもの……。まして、実力で商人組合を廃そうとしていたなら、より一層、胸を張って、やってた! とは言えない。
それを見越してのミーアの質問だった。
そのうえで、統治者のために祈る者の存在を強調したうえで……ミーアは言った。
「ルシーナ司教、わたくしは思いますの。あなたが、わたくしを信用できなくっても、それは仕方のないことですわ。それほどまでに、ルシーナ司教が過去に受けた傷は大きなものだったのでしょう」
それを聞いて、ラフィーナがなにか言いたげな顔をしていたが、ミーアは、大丈夫だ、と頷いてみせてから……。
「いかに、ラフィーナさまが認めてくださっていても……あるいは、わたくしの今までの実績があったとしても、それだけでは信じられない。だって、それは、たぶん、ツロギニア王国の王族と、本質的には変わらないものだから……」
信じて裏切られたから、傷つくのだ。最初から軽蔑している相手に裏切られたとて、何ほどのこともなし。とすれば、ツロギニアの王族というのは、ルシーナ司教にとって、善良に見える人たちだったのだろう。実績だって、それなりにあったのだろう。
であれば……実績において信用を勝ち取るのは不可能。ゆえに!
「だから、ルシーナ司教は、まず信じやすい人……信じるべき人、信じなければいけない人を信じるところから、始めればいいのではないかしら?」
「信じなければ、いけない人……?」
問い返す彼に、ミーアは深々と頷く。
「そう……あなたの愛する家族……奥さまであり、レアさんであり……そして」
スッと目を向けて、ミーアは厳かな声で言った。
「リオネルさん……あなたの誇るべきご子息ですわ」
突如、自分のほうに話が飛んできて、リオネルが、ビックリした顔をしていたが、まぁ、当然、スルー。ミーアは続ける。
「生徒会長選挙の時のこと、ルシーナ司教もお聞きになりましたわよね? 彼は、自身の支持層になってくれそうな者たちを、安易に味方にすることはなかった。打算に、わかりやすさに、自分の理解できる力に……逃げなかった」
ミーア、全身全霊のヨイショである。
「彼は、正しいと信じることをし、その結果が自分の望みとは違ったものであっても、それを受け入れ、呑み込んだ。そのうえで、妹を支えるために、全力を尽くそうと、一歩前に出ましたわ」
奇しくもそれは“わかりやすい制度”を頼ろうとし、打算的方法を選んでしまった、ルシーナ司教とは真逆の道だった。
弱さゆえに……ルシーナ司教が取らざるを得なかった道と、真逆の道だった。
「それは……」
と、口を開きかけたルシーナ司教を、ミーアは片手で制す。
「それは、リオネルさんがまだ若いから。まだ、一度も折れたことがなく、手ひどい裏切りを経験したことがないから……だから、その道を選んだ、と言いたいかもしれませんわ。そして、それは、あるいはその通りなのかもしれませんわ。されど……」
ミーアは、グッと拳を握りしめて、言った。
「わたくしは思いますの。だからと言って、失敗し、心折れて、見えやすい力に安易に頼ることは、はたして正しいのかしら、と……」
それから、ミーアは真っ直ぐにルシーナ司教を見つめて。
「あなたも、もうわかっているのではないかしら? ご自分のやり方が間違っていると……心折れ、諦めに身を委ねることが誤りであると……」
次に、リオネルのほうに目を向けて……。
「ルシーナ司教、あなたが統治者を信じられないなら、統治者のために祈り、統治者を教え導く、リオネルさんを信じればいい。あなたの後を継ぎ、司教となるリオネルさんを、神があなたに与えた誇るべき息子である、リオネルさんを信じればいいのですわ」
ミーアは、そこで、小さく息を吐く。
――こっ、これで、とりあえず、責任をリオネルさんにも分散できたはず……。
っと、安堵するミーアの目の前で、リオネルが静かに立ち上がった。