第百三十七話 そんなラフィーナも今では……
ラフィーナの問いかけに、ルシーナ司教は鼻白んだ様子だった。
「なにを馬鹿な……そのようなことはどこにも書かれてはおりません」
「神は、我ら人間を画一的な存在としては造らなかった。手ずから個性を与え、独自の存在として人格を確立した。それぞれを違う者として造ったから、互いに愛し合い、助け合うよう命じられた。神聖典には、そう書かれているでしょう?」
「それは、そうですが……」
「同じように、国もまた多様であることが許されている。その在り方を、神聖典では体に喩える。あなたからすると、ヴェールガ公国は頭にあたるのかしら? されど、すべてが頭になってしまえば、どうやって食べ物を口に運ぶのかしら? どうやって道を歩き、務めを果たすというのかしら? 手は手の役割を持ち、足は足の役割を持ち、頭は頭の役割を持つ。同様に、ティアムーンにはティアムーンの役割があり、ヴェールガにはヴェールガの役割があるのではないかしら?」
ミーアは、その堂々たる物言いに、おおっ! と内心で歓声を上げた。
ラフィーナが、ルシーナ司教のロジックによって……彼のよって立つ価値観によって、彼を説得にかかっていることが理解できたからだ。
「そのぐらいのこと、私に言われるまでもなく、あなたはわかっているんでしょう……? それでも、あなたはそうせざるを得なかった……信じることが、できなかったから……。だから……良心や信仰ではなく、制度という枠組みによって安心したかった。司教が国を治めるという制度によって……」
ルシーナ司教はうつむいたまま、ラフィーナの話を聞いていたが、やがて、絞り出すような口調で言った。
「ラフィーナさまは、恐ろしくないのですか?」
「なにが、かしら……?」
「商人たちの価値観が……、いや、我らとはまったく違うすべての価値観、国の在りようが……恐ろしいとは思われないのですか?」
ルシーナ司教は苦しげな顔で続ける。
「孤児院に対する商人たちの考えを聞いた時、私は理解できませんでした。なぜ、子どもたちの生活と、金を儲けることが天秤に載り得るのか……。私は理解できませんでした。なぜ、親を失った子どもの心を守ることと、孤児院の土地を商用利用することが比較されうるのか……。私は、理解できませんでした。金という秤で、すべてを測ろうとする……そのような価値観を持つ者が都市を治めるということが……」
ルシーナ司教の目には、なにを優先するのかは明らかなことだった。
セントバレーヌの孤児院に預けられたのは、海の事故で親を失った子どもたちだ。行き場を失った、深く傷ついた子どもたちだ。それは、考えるまでもなく保護するべき存在。それは、比べるまでも無いこと。
傷ついた子どもたちが、ようやく得た孤児院という家族を、金のために解散する……そのような考えが出ること自体、理解できない、と彼は言っていた。
「それは、ツロギニア王国に派遣されていた時から感じていたことでした。かの国の国王は言いました。食料を与えず、民が死んでも仕方ない、と。命が失われることが、仕方ないの一言で片付いてしまう……。周りの国々も、仕方ないと諦めて、その責任を責めることもしない。その価値観が、私には途方もなく恐ろしく感じられるのです」
深く、深く、ため息を吐いて、ルシーナ司教が言った。
「そのような国の在り方を価値観を……多様性の名の下に認めてしまえば、いずれ我らは何が善であるか、なにが悪であるかをわからなくなってしまう。そうではありませんか? 善悪の基準が相対化されてしまえば、我らは善悪という形のないものを定める参照点を失うのではありませんか?」
「いいえ、そうはならないわ」
ルシーナ司教の問いかけに答えるラフィーナの声は、まるで揺るがない。
「なぜなら、私たちは、そう造られてはいない。私たちは生まれながらに良心を備えている。神の定めた道徳律に従うように、造られているのだから……」
彼女の言葉は、人間を定義していた。神にこのように造られたから、というのがラフィーナの根拠だ。そして、ルシーナ司教の根拠でもあるはずだった。
胸に手を当て、その身の内にある何かを確かめるように、ラフィーナは続ける。
「私たちは神という統一の下で多様な存在に造られた。それゆえ、多様ではあっても一つの道徳観を持っているわ。悪人は自分が善を行っているという認識で悪を行わない。罪悪感を覚え、仕方ないと言い訳して悪を行う。善なるものを綺麗事だと貶め、行動が伴わないと貶し、なんとかして、善を行わなくて良い理由を探すけれど……それは善い生き方をしなければならないと、わかっているから。それが悪であるか、善であるかは、すべての人の目に明らかよ」
ラフィーナは、穏やかに語りかける。揺るがない確信を持って……。
「力なき子どもたちを助けることが悪になることは決してない。空腹の誰かを助けることが悪になることは決してない。すべて人は、神の、普遍的な善悪の基準の下にいる。善く生きるように促されている。そして、その統一の下で、どのように善く生きるのかには、多様な形がある」
淡々と、清らかな声が続く。ルシーナ司教の過ちを、徹底して否定するように。
「王は王であるから悪に定められることはない。王として善を行わないことによって悪に定められる。そして、その罪が神に裁かれないことは決してない。でも……」
そこで、ラフィーナは悲しそうな顔をした。
「ルシーナ司教……あなたは、それを信じることができなかった。昔、ツロギニア王国で裏切られたから……。だから、目に見える、わかりやすい制度という形によって、王を縛ろうと思った……。そうではないかしら?」
ラフィーナには、その気持ちがわかった。
かつて、彼女も友の裏切りにあった。そのせいで、彼女は長らく真に信頼できる友を持つことができなかった。
けれど、そんな彼女に出会いがあった。
すぐ隣、真剣な顔で話に耳を傾ける人、ミーア・ルーナ・ティアムーン。慈愛と叡智に溢れた帝国のお姫さま……。
もしも、ミーアと出会うことがなければ、もしかしたら……。
――もしかしたら、私はルシーナ司教と同じようになっていたかもしれない。いいえ、彼よりももっと直接的に、力をもって悪を滅する……そんな存在になっていたかもしれないわ。
ふと、そんな想いに囚われたラフィーナは、心に促されるままに言葉を連ねる。
「そんなあなたの不安を払しょくしてくださる方こそ、ミーアさんよ。そうよね、ミーアさん」
そうして、視線を向けた先、
「……はぇ……い」
ミーアが、ちょっぴーり間延びした返事を口にした。