第百三十三話 高 潔な海月
開け放たれる教会堂の扉。その向こう側に立っていた懐かしい人の顔を見て、ミーアは思わず歓声を上げてしまう。
「ああ、ラフィーナさま!」
これで、ラフィーナさまに全部お任せできますわ! と潔く思考を放棄し、ニッコニコと表情を明るくしたミーアを見て、ラフィーナはあくまでも落ち着き払った聖女の笑みを浮かべて、浮かべ、て? ――否! そうではない。その口元が、わずかばかり、ニヨニヨと緩んでいた。獅子なる聖女ラフィーナは、その尾がブンブン動いていることを隠しきれていなかった。
「ご機嫌よう、ミーアさん。ふふふ、お元気そうでなによりよ」
そうなのだ……ラフィーナは、とても、とてーも嬉しかったのだ。
お友だちから助けを求められ、駆け付ける……。
親友のピンチに颯爽と現れる……。それは、ラフィーナにとって憧れの友情シチュエーションなのだ。
――ここ最近、回遊聖餐ですっかり忙しくて、セントノエルに遊びに行けていなかったし……。
っと、選挙の時に遊びに行ったことをすっかり記憶の彼方に放り投げる聖女ラフィーナであった。ミーア色に染まりつつある聖女がそこはかとなく不安ではあるが……まぁ、それはさておき……。
「ラフィーナさま……確か、回遊聖餐の最中であったと記憶しておりますが……」
ラフィーナの登場には、さすがのルシーナ司教も困惑を隠しきれていなかった。そんな彼に、ラフィーナはあくまでも澄んだ声で答える。
「ええ。ミーアさんから報せを受けて、切り上げてきました。騎馬王国の慧馬さんに、ここまで送っていただいてね」
その言葉で、ミーアは小さく首を傾げた。
「あら、そういえば慧馬さんは……?」
「今、蛍雷を労っているわ。本当に、蛍雷、すごく頑張って走ってくれたから」
「大切な儀式を途中で切り上げる、そのようなことが許されるとお思いですか? あの回遊聖餐は、ヴェールガ公国にとって、民にとっての大切な儀式。それを……」
そんなルシーナ司教の糾弾にも、ラフィーナは涼しい顔だ。
「ああ、誤解を与えてしまったのなら、ごめんなさい。切り上げたのは私だけで、回遊聖餐自体は続いています。私の代理を立てて、ね」
まるで悪戯の種明かしをするように、楽しげにラフィーナは言った。
「代理……? それはいったい……」
怪訝そうに眉をひそめるルシーナ司教、その目を真っすぐに見つめて、ラフィーナは告げる。
「司教であるあなたはご存知でしょう? 代理として回遊聖餐の儀を執り行うことができるのは誰か……。あなたはできるし、リオネルさんもできる。そして、当然……」
それで察したのか……ルシーナ司教はポカン、と口を開けた。
「まさか、レアが……? しかし……あの子は内向的で、ひどく人見知りだ。村々を回り、食事を共にする、回遊聖餐の重責に耐えられるとは、とても……」
「ええ。私もはじめはそう思っていました。でも……レアさんが、言ってくれたのよ。代理は自分が、責任を持って務めるからって。セントバレーヌに行って、お父さんを助けてほしいって……」
そう話すラフィーナの顔は、いつになく優しいものだった。
それは、まさに聖女に相応しい穏やかな笑み。が、静かに視線を転じ、ルシーナ司教を見つめた時、その笑みは、苛烈な、獅子のものになっていた。
「レアさんから、大体の事情は聞かせていただきました。それに、先ほどのリオネルさんの話も、あなた自身の告白も……」
「……ならば、おわかりいただけたでしょう?」
小さく息を吐き、改めて、ルシーナ司教は言った。
「私が求めていることは、些細で、当たり前のことなのです。私は……」
っと、その言葉を片手で上げて制して、ラフィーナははっきりとした口調で告げる。
「マルティン・ボーカウ・ルシーナ司教。あなたは、ご自分の子どもたちが、なぜ、あなたを止めようとしているのか、わからないの? なぜ、レアさんとリオネルさんが、ミーアさんの側につき、あなたの思惑を止めようとしているのか……本当にわからないのかしら?」
そう告げるラフィーナの口調は、どこまでも清く澄み渡り……否、そこには、わずかな濁り、色があった。
それは、悲しみ、あるいは、憐み……。
それは、生き物の住めない、断固たる清らかさを持った声ではない。傷ついた魚を、憐み包み込む、そんな優しい濁りが確かにあった。
静かに、確固たる仕草で、ラフィーナは首を振る。
「私の結論は、ミーアさんと同じよ。ルシーナ司教。今すぐにミラナダ王国軍、並びに、ポッタッキアーリ候の軍を引かせなさい。まだ、間に合ううちに早く……」
っと、その時だった。教会堂の外が騒がしくなった。
聞こえてきたのは、悲鳴のような声。続いて、そこに報せが届く。
ポッタッキアーリ候の軍が、北部より町に侵入してきた、と……。
「残念ですが……すでに、賽は投げられた。今さら何をしたとしても手遅れ……」
「いいえ、まだですわ……」
司教の言葉を真っ向から否定したのは、ミーアであった。
ミーアは知っている。自分の脳みそは、残念ながら、あまり信用ならない。けれど、今、軍の指揮をしているのは、ミーアが最も頼りとする男たちなのだ。
「ルードヴィッヒもいる。ディオンさんもいる。アベルやシオン、キースウッドさん……それに、皇女専属近衛隊のみなさんもいる……ならば……」
ミーアは自信満々に言い放つ。
「一刻や二刻、いいえ、半日だって押さえ込んで見せますわ。まだ、取り返しがつく状態で……。彼らならば、必ずやってくれますわ」
ミーアは信じているのだ……信じるしかない現状なので、信じることに決めたのだ。
自分ではどうにもできないことは、考えたって意味がないという潔い諦めが、そこにはあった。
高い波が襲ってきたら、素直に潔く諦める海月。
ミーアは高―中略―潔 な海月なのだ。