第百三十二話 干からびかけたその時に……
すべての国がヴェールガのようになる……。
すなわち、あらゆる国の王が、王位を神に献上し、自身の身分を公爵に落とすこと。
そして、その公爵の責務を担う者は、神に身をささげた神職、司教に連なる者にすること。それこそが、ルシーナ司教の思惑である、とリオネルは指摘した。
その言葉を受けたルシーナ司教は、あくまでも穏やかな顔をしていた。取り乱す様子は、まるでない。
「誤解のないように言いますが……別に、ヴェールガ国の出身者で国々を統治するように、などと過激なことは考えてはいません。各国の王位継承者をセントノエルのような学園に集め、そこで司教としての教育を施し、中央正教会が各国に派遣する形とする……そのような体制を作るのが、私の目的です」
まるで祈りをささげるように、静かに両手を組んで、ルシーナ司教は続ける。
「私が求めるものは、ただそれだけのことなのです……。国々の統治者が、神のしもべとして振る舞い、民を正しく率いること。民の安らかな暮らしを守るため、統治者の権限が使われること……、私はそれをこそ求めます」
「それは……今までだってそうなのではありませんか? だって、各国の王権は神より与えられしもので……」
っと指摘するリオネルに、ルシーナ司教は首を振った。
「名目上は、そうだ。言葉だけならば、そのとおりだ。そして、ヴェールガ公国は、国々の見張りとしての立場にあった。神のしもべとして……どこかの国に暴君が立った時には、各国に訴えかけて、それを責め、咎め、改心するように迫り……それでも駄目ならば実力によってそれを排除する。そのような役割を持ったのが我が公国だった。だが、実際のところ、それが行われることは、ほとんどない。かつてのツロギニア王国で起きたことは、どの国でだって起きる。民を見捨て、王侯貴族だけが生き残る……そのようなことは、呆気なく起きてしまう。このまま、悪を放置するようなヴェールガ公国であっていいとは、私は思わない」
そんなことは、ほとんどない――前時間軸に、その、ほとんどなかった例になってしまった悪役皇女ミーアは、複雑な顔で、ぐむっと唸る。
――ま、まぁ、帝国の状態は確かにアレでしたけれど……数百年に一度レベルのヴェールガのお叱りだったとは思いませんでしたわ。うぬぬ、おっ、おのれ、初代皇帝、許せませんわ!
当時の帝国内がダメダメだったことを熟知しているミーアとしては、責めるべきは、ご先祖さま以外にはあり得ないのだった。
まぁ、それはさておき……。
「そして、変化のためには象徴がいります。それは、政治を動かす功績であり、中央正教会を動かす神の徴だ。神が、我が計画を認め導かんとしていると……それを証明するものが必要なのです」
静かに拳を握りしめて、ルシーナ司教が言った。
「それが、セントノエル学園の生徒会長の座を取り戻すこと、そして、セントバレーヌの統治権をヴェールガの手に収めることだった、と……」
ただ、口で言っただけでは変わらない。それが理論上いかに正しいものであったとしても、その発言に力を与えるものが必要だった。
そこまで聞いて、ミーアはようやく合点がいった。
やはり、ルシーナ司教の目的は、ただセントバレーヌの統治権を得ることではなかった。
――大陸の、すべての国に対するヴェールガ公国の……否、中央正教会の影響力の増大……。実現すれば、それは、かなりの変革ということになりますわ。
司教の主張は、一見すると、今までの国の在り方を大きく変えるものではない。
「国の統治を委託されている」という建前を、より鮮明に、明文化、制度化しただけなのだから、あえて反対する理由はない。そう、一見しただけならば……。しかし……、
「あなたの主張する体制が立った場合、国の王……いいえ、公爵でしたかしら? ともかく統治者を誰にするか、任命するのは中央正教会ということになりはしないかしら?」
逆に言えば、王位を継ぎたいと思う場合、司教として徳を積み、中央正教会への忠誠を誓わなければならなくなるのではないか……?
いかに、国内で王位継承権が決まっていたとしても、中央正教会の支持がなければ、王位を継ぐことはできない。
現状でも、王位継承の折には、中央正教会の聖職者による油注ぎの儀が必要ではあるが……、半ば形骸化しつつある、その権限を、ルシーナ司教は強め、復活させようとしていた。
「王位を継がせないと言うより、聖職者として認めないと言うほうが、中央正教会の発言権が強くなりますけれど……。統治者が聖職者でなければならないというのであれば、誰を王位につけるのか、あるいは、つけないのかを、中央正教会の意向でできるようになりますわ」
「なんの問題があるでしょうか? 民を率いるのに相応しい人徳者であれば、中央正教会は認めざるを得ないのですから何も問題はないではありませんか。恣意的な判断があれば、責められるのは中央正教会になのですから」
その口調は揺らがない。彼は、それが正しいことであると確信しているようだった。
「このような強引な方法によってでも、ですの? 当初の予定どおりであれば支持すると言っていた方たちも、軍を使い、実際に戦いが起きてしまえば支持はしないのではないかしら?」
「そうですね。我が友人たちの支持は得られないかもしれない。しかし、友人たちが声掛けしてくれた、ヴェールガの保守層の者たちは、おそらく私のやり方を支持してくれるでしょう」
志を持った友人たち、正しさを求める人たちの支持は得られないかもしれない。けれど、純粋に、ヴェールガ公国の権威を強めたい者たちの支持は得られる。
……そうして、国が動けば、それで構わない。実現しようとしていること自体は、間違っていないのだから、と……。
ミーアは、思わず、頭がクラァッとするのを感じる。
――これ……やっぱり、ルシーナ司教を説得するのは、不可能なんじゃ……。
っと、ミーアが諦めて干からびるに任せようとした……まさにその時だった!
「そこまでに、してもらいましょうか」
涼やかな、美しい声。
それは、海月を海へと優しく誘う柔らかな波のごとく……。




