第百三十話 叡智と幸運、計画と偶然
「そう……なんですのね。ポッタッキアーリ候の軍が……」
その日、ディオンから報告を受けたミーアは顔をしかめた。
「はい。今日明日中にはセントバレーヌに到達するでしょう。商人組合の私兵団の無力化に失敗したと知って強硬策に出てきたんでしょうが……。とりあえず、今朝方から住民の避難を急がせていますよ」
「百人隊五個、それに騎兵が三十騎……か。どうだろう、ディオン殿」
難しい顔で尋ねてくるルードヴィッヒに、ディオンは苦笑いを浮かべた。
「んー、動員数としてはそれなりだね。もともとはミラナダ王国と合わせて千人ぐらいって想定だったんじゃないかな……」
ディオンは地図に目を落としながら腕組みする。
「実際、このセントバレーヌを攻め落とそうというなら十分な数だよ。こちらは、町の守備に当たっている商人組合の兵に、荷馬車の護衛、そして、皇女専属近衛隊を合わせても二百と少々といったところ……。仮に高い城壁の中に立てこもれるのだとしても、戦力差五倍は負け戦ってもんだからね。これで勝てたら、本当に物語みたいなものだ」
こともなげに言うディオンに、ミーアはしかつめらしい顔をする。
「ミラナダ王国に関しても攻めてきているのかしら?」
「追従するように北西に展開したようです。こちらは、歩兵で、どうも隊列が崩れているらしいですが、おそらく百人隊三個程度。それも、農民からの徴兵のようです」
ディオンの発言に、アベルが頷いた。
「そうだろうな。帝国やサンクランドならいざ知らず、職業軍人なんて金のかかるものは、そうそう維持はできない。レムノ王国の重税もそのことによるものだしね」
それに続けて、シオンが難しい顔をする。
「しかし、統制が取れない分、一度、血の味を覚えると厄介かもしれない。戦に慣れていない分、平気で略奪に加担する者が出てきそうだ」
戦場という非日常、死と隣り合わせの緊張感は、容易に人間の倫理観を破壊する。職業軍人であってもそうなのだから、まして、徴兵された者たちは余計である。
「まぁ、いずれにせよ、一度、戦が始まり、血が流れてしまえば、戦いはどんどんエスカレートしていく。ルシーナ司教を説得するならば、早いところお願いしますよ」
その算段、付いてるんですよね? という顔で問われ、ミーアは、すすーっと目を逸らしつつ……、
「え、ええ、まぁ、その……一応は……」
などと、モゴモゴ言った! 全然、駄目そうだった!
そうなのだ。例の女神肖像画の件が頓挫した時点で、ミーアには具体的な策が一切なくなってしまったのだ。
――た、頼りのラフィーナさまは、いらっしゃいませんし……くぅう、いったい、どうすればいいんですのっ!?
大変、久しぶりに窮地に陥りまくっているミーアに、ディオンは苦笑いを浮かべた。
「まぁ、こちらはこちらの仕事をちゃんとやっておきますから、頼みますよ」
そう……ディオンの中でのミーアの信頼は、すでに揺らぎようがないほどに確固たるものになっていた。それだけに、その信頼を裏切ってしまった時を想像してミーアは震え上がる。
――やっ、やばいですわ。今回に限っては失敗した時のダメージを少なく……とは言っていられない状況ですし……。未来のベルにも関わってくる重大な局面……だというのに、まったくもって、波が来ておりませんわ!
いや、大波は確かに来ていた。
にもかかわらず、ミーアは未だ、自分がそれに乗れていないことを実感していた。そう、今のミーアは浜辺に打ち上げられて、ぐんにょりしている海月のようなものなのだった。
ゆえに、ミーアを波のただ中に押し戻すなにかが、浜辺に打ち上げられたミーアを優しくすくい取り、海の中に引きずり込んでくれるような誰かが必要だった。
お友だちを優しく海の中へと返してくれる……聖女のような人が……。
さて、ミーアたちが去って後、ディオンは皇女専属近衛隊の者たちに声をかける。
「商人組合の私兵団に伝達。住人の避難が済み次第、持ち場につくように、と。南部への避難が終了次第、中央の橋を残して、残りの橋を全部塞ぐんだ」
すでに準備は進んでいた。
港湾都市セントバレーヌに複雑に走る運河、そこにかかる橋を塞ぎ、南北を運河によって分断するのだ。
橋を落とすことも検討されたが、その場合は無理に渡河してきて収拾がつかなくなるおそれがあった。ゆえに、ルードヴィッヒは提案した。
橋を酒樽で塞ぎ……彼らの心を縛ることを。
作戦はこうだ。
彼らに渡ってもらいたくない橋に大量の酒樽を積み上げておく。そして、侵攻軍がやってきた目の前で、橋の一本を燃やして落とすのだ。
そうしておいて、脅すのだ。
「他の橋の酒樽を撤去しようとしたり、無理に渡ろうとした場合には橋を燃やして落とす」と。
「この都市を壊滅させようという相手には効かない脅しだが……彼らは、この港湾都市の機能をできるだけ損ないたくないはず。ポッタッキアーリ候にしても、自分の別邸がある町なわけだから、できるだけ壊したくはない……。施設に対する攻撃は脅しになる、と良いのですが……」
そして、それはただの足止めではなかった。
唯一、中央部の橋のみを残しておき、そこに敵軍の注目を集めようという、それは作戦なのだ。そして……そこに陣取る者こそが……。
「仮に上手くいったとして、ディオン殿にすべてをお任せしなければならなくなってしまうが……」
「ははは、まぁ、暴れ足りないと思っていたからそれはいいんだけどね……しかし、どうだろうね。実際、これ見よがしに真ん中の橋が空いていたら、明らかに罠だと判断するだろうけど。少なくとも、僕ならそう判断する」
「そう判断される前に……上手く誘導できるかどうか……でしょうね」
ルードヴィッヒは、ここで、何とも言えない苦笑いを浮かべて。
「しかし、不思議なことに、誘導するのに必要な要素が揃っている。偶然か、あるいは、どなたかの思惑なのかはわからないが……」
その言葉に、ディオンは肩をすくめた。
「これが、すべて計算づくだとしたら、姫さんが、神から本物の叡智をもらっていると認めるよ。もっとも、これがすべて偶然だとすれば、神から授けられたのは幸運ということになるのだから、いずれにせよ心強い話だがね」
そう言ってから、ディオンは少しだけ表情を引き締めた。
「肝心なのは姫さんの説得が上手くいくかどうかだが……まぁ、姫さんのことだ。なんとかするだろう……僕は僕で仕事をしないとね」
そうして、彼は庁舎を後にする。
明日の、決戦の場所となるであろう、中央部の橋を見るために。