第百二十三話 例えばそれは、燃え尽きた世界で……
マルティン・ボーカウ・ルシーナ。
大陸を襲う大不作、大飢饉の時期にセントバレーヌに司教として派遣されていた彼は、どの時間軸においても、それぞれに重要な役割を果たす人物であった。
もしもすべての歴史の可能性を俯瞰して、評価できる存在がいたとするならば、彼の名が各歴史の表舞台に必ず登場することに気付くだろう。
例えばそれは、ミーアベルの瞬きの合間に燃え尽きた世界でのこと。
ミーア・ルーナ・ティアムーンがちょっぴり手を抜き、帝位に就かないのはもちろんのこと、帝国に引きこもってのんびーりした結果、暗殺されてしまった歴史の物語。
神聖ヴェールガ公国は一つの歴史の帰路に立たされていた。
聖女ラフィーナによる司教帝宣言。それに伴い、ヴェールガ公国を帝政に以降することを各国に通達したのだ。
ラフィーナは、すべての国に対する敵、混沌の蛇の存在を公表。恐るべき邪教集団を団結して討滅するべく、各国に兵の供出を求めた。
「我らの神の敵を討つべく、諸国の力を糾合する。その指揮を執るために……私、ラフィーナ・オルカ・ヴェールガは、今日この時より、ヴェールガ公国を神聖ヴェールガ帝国とし、悪を滅する先陣を切る」
美しき聖女の勇ましき言葉に、諸国は奮い立った。
さて、そんなラフィーナのもとを、一人の老人が訪れた。矍鑠とした老人だった。齢八十を超えてなお、その背筋は伸び、その目には静かな力があった。
マルティン・ボーカウ・ルシーナ司教。先代ヴェールガ公オルレアンの時代から神と公国とに仕え、その爵位を息子リオネルに譲って後もヴェールガの重鎮であり続けた人である。
「ご機嫌麗しゅう。ラフィーナさま」
「ああ、ご機嫌よう、ルシーナ司教。来ていただけて嬉しいわ」
玉座に座るラフィーナは、かつてと変わらない、小川の流れのような清らかな笑みを浮かべて、ルシーナ司教を見下ろした。
「突然の面会に対応いただき、感謝いたします」
「ふふふ、気にする必要はないわ。我らはともに神に仕える者。門は常に開かれているのだから」
上機嫌に歌うように、ラフィーナは言った。
「それで、なにかあったのかしら? 司教帝への就任に対するお祝いや激励……とかだったら嬉しいのだけど……」
冗談めかしたその口調に、ルシーナ司教は表情を厳しくする。
「残念ですが……。それを思いとどまっていただくために来ました。ラフィーナさま……どうか、公国の帝国化、撤回していただきたい。我らの王はあくまでも神。人たる身で、このヴェールガの頂点に立つは傲慢に過ぎます」
「あら、でも蛇を討つのに必要なことよ? 今までのままであれば、私たちは周辺諸国に協力を訴えることしかできない。それでは、徹底して蛇を狩り出すことなどできないわ」
まるで、物わかりの悪い子どもを諭すかのように、優しい口調でラフィーナは言った。けれど、老人は頑なに首を振る。
「それで良いのです。神の権威を帯びた我が国は、いつでも謙虚に慎重に……軽挙妄動は厳に控えるべきです」
ラフィーナはしばし無言でルシーナ司教を見つめていたが……。
「ねぇ、ルシーナ司教、あなたは、かつて蛇の教典「地を這うモノの書」を見つけ、それを届けた功により、ヴェールガ国内で強い発言権を持つようになった。そうではなかったかしら?」
「……だとしたら、なんでしょうか?」
穏やかな口調で返すルシーナ司教に、ラフィーナもまた笑みを浮かべて
「その本の出所は……どこだったのかしら?」
「なにが言いたいのでしょうか?」
「いえ、誤解なら申し訳ないのだけど、あなたの話を聞いていると、どうにも、蛇に有利に働くことを言っているような気がしたものだから。あなたが、蛇に対して強硬な態度をとることに反対だというのならば……地を這うモノの書の出所について、おのずと一つの推論が導き出されるのではないかと思って……」
上目遣いに見つめてくるラフィーナに、ルシーナ司教は目を見開いて……。
「本気でそうお考えですか? ラフィーナさま」
「そう考えたくはない、とは思っているわ。ルシーナ司教。あなたは、ヴェールガがまとまるために必要な人だから……」
ラフィーナの脅しに、ルシーナ司教は疲れた様子で首を振った。
「変わられましたね。ラフィーナさま……」
「あら、私をいくつだと思っているのかしら? 私のお友だちのミーアさんは、もう孫がいる年よ」
「誤魔化さないでいただきたい……。あなたほど聡明な方が判っていないはずがない」
はっきりとした口調で、ルシーナ司教は言った。
「我が公国は神のしもべ。神を王とするしもべの国。だからこそ、我らは神の権威を帯び、代わりに、より強い自制と神の掟への服従が求められる。あなたは、その理を壊そうとしている」
その指摘に、ラフィーナは苦笑いを浮かべた。
「別に、そんな大それたことを考えてはいないわ。私が求めることは二つだけよ。我が友、ミーア・ルーナ・ティアムーンを手にかけた者たちを地獄に堕とし、悪を悪として断ずること。そして、その邪魔をしないでもらいたいということ。たった二つだけ……それだけよ? それなのに、あなたは、それすらも許してはくれないのかしら?」
こつ、こつ……ラフィーナのほっそりとした指が、わずかに、苛立たしげに椅子を叩く。
「混沌の蛇のごとき悪に情けは無用。躊躇う必要もない。悪は滅さなければならない」
「失礼ながら……それは個人的な復讐の想いから来ていることではありませんか? 悪を滅するは神の業。個人の復讐心でそれを為すのは控えるべきでしょう」
「神の臣として悪を滅すること、ヴェールガの君主として人に復讐すること……結果は変わらないならば、より効率的にできたほうがいいって思わないかしら?」
「あなたのやり方では、流れる血の量が多すぎる……それは、我らヴェールガのやり方ではない。賛同はしかねます」
「そう……それは、残念だわ」
ラフィーナは興味を失ったように首を振った。
かくて、司教帝ラフィーナとルシーナ司教は対立する。
ヴェールガ公国の理を解き、中央正教会の司教として、曲がることなく振る舞った彼の行動は、やがて、ラフィーナの怒りを買い……結果としてルシーナ司教は処断されることになる。
蛇を擁護する者として……。
そして、ルシーナ伯リオネルは、そのことに抗議をし、同じく処刑されるに至る。
ラフィーナのもとに参上する少し前のこと。自身とルシーナ伯爵家に訪れる未来を予想していたリオネルは妻に実家であるチャルコス伯爵家に戻るように伝える。
一方、その当時、ツロギニア王国に派遣されていたリオネルの息子、すなわちベルの父にしてパトリシャンヌの夫であった人は、その任を解かれて以降、母の実家であるチャルコス伯爵家に身を寄せることになるのであった。
マルティン、およびリオネルの死後、ルシーナ伯爵家はヴェールガ国内では、邪教に与した呪われた一族と揶揄されるようになる。やがては周辺国にもその話は広がり……ルシーナ家に連なる人々は、その名を口にすることもなくなっていき……。
ベルが物心つく頃には、その家の名が語られることはなくなっていた。