第百二十話 ナニカに誘われるように
「ところで、ミーア姫殿下、一つ、ご提案がございます」
「あら? なにかしら、ルードヴィッヒ」
首を傾げるミーアに、ルードヴィッヒが難しい顔で言った。
「今回のセントバレーヌ侵攻に関して、情報を絞ったほうがよろしいように思います。建前上、訓練ということにするのであれば、そのように触れを出し、戦闘のことはなるべく隠したほうが良いのではないかと……」
「なるほど。無用の混乱を避けるためには、そのほうが良いかもしれませんわね」
ミーアはすぐに頷いてみせる。
下手に軍が攻めてきているなどと伝えては、住民はパニックに陥る。商人たちにしても、冷静ではいられないだろう。場合によっては、このセントバレーヌからの脱出を図り、混乱が大きくなるかもしれない。
軍事衝突ともなれば、不測の事態が起きても不思議ではないわけで……。
「その点、訓練であれば、ある程度は心安らかでいられるはずですけど……はたして素直に従っていただけるかしら?」
ビオンデッティに目を向ければ、彼は深々と頷いて……。
「それは、我ら商人組合の仕事でしょうな……。緊急で避難訓練を行うことを予告しておけば、ある程度は動いていただけると思いますが……ふむ、なにか、考えておきましょう」
「ええ、お任せいたしますわ。完全に情報を伏せてしまうのも危険でしょうから、本当のことは……そうですわね。フォークロード卿と……あとは、信頼できそうな何人かに伝えてくださいませ。それと、シャルガールさんに依頼した商人を探す件もよろしくお願いいたしますわね」
そうして、細かい話を詰めてから、ミーアは市庁舎を後にした。
さて、馬車に乗ろうとしたところで、護衛の皇女専属近衛兵が話しかけてきた。
「ミーア姫殿下、この後はどちらに……?」
「ああ……。そうですわね」
ミーアは素早く腹時計を確認し……。
「とりあえず、ルシーナ司教の館に戻りましょうか。ベルたちが気になりますし、そろそろ、お昼時ですわ」
なにやら、今日のランチは逃せない、とミーアの勘が告げているのだ。
「みっ、ミーア姫殿下、この上で、まだ、ルシーナ司教のところにご滞在なさるのですか?」
ミーアの言葉に、皇女専属近衛隊の兵は驚いた顔をした。
「ふむ……。確かに、ルシーナ司教のところに戻るというのも、いささか、不思議な感じはしますわね」
なるほど、言われてみれば、尤もな話だ。
なにしろ、ルシーナ司教は敵の中核だ。にもかかわらず、その彼の館に行き、そこに宿泊するとは、確かに奇妙と言えば奇妙な感じがする。
――さて、どうするのがよろしいかしら?
「どこか、別の場所を手配いたしますか? ビオンデッティ殿か……フォークロード殿にお願いすれば、すぐに用意していただけると思いますが……」
不意に、わざと聞かせるような口調で、ルードヴィッヒが問うた。彼の様子に、ミーアはそっと瞳を細める。
――これは、近衛たちを納得させる理屈を言えということかしら……ということは、裏を返せば、ルシーナ司教のところにいたほうがいい、と……。
空気を読み、叡智の知恵袋たるルードヴィッヒの考えを察知! それから、ルシーナ司教のもとにいたほうが良い理由を考えてみる。
腕組みし、しばしの黙考。その後、
「いえ、それは……むしろ悪手という感じがいたしますわね……」
厳かな……まるで、最初からそう考えていたかのような口調で、ミーアは言った。
それは、少し考えれば、わかることだった。
先ほどの軍を迎える策に関してはともかく、その他のものはルシーナ司教を説得するためのものだ。では、そのような時、されると一番、嫌なことはなにか?
「一度、館を出てしまって、ルシーナ司教と会えなくなったりしたら面倒ですわ。今回の事態は、ルシーナ司教の説得が一番の勘所ですもの」
彼を説得して、彼の口で大義名分を奪えば、ポッタッキアーリ候もミラナダ王国も兵を引かざるを得ない。それこそが最善。だからこそ、彼と話ができるよう、彼のそばにいることは必要なことだった。
――それに、なんと言っても、より安全なのは、ルシーナ司教のところでしょうし……。
もしも、騒乱が起きた際、安全なのはルシーナ司教のところだろう。
確かにミーアはルシーナ司教にとっての邪魔者ではあるが、だからと言って排除してしまえば、彼は正義を失う。シュトリナは毒を警戒していたようだったが、それは、おそらくほとんどあり得ない選択肢だ。
あくまでも、司教の目的は商人組合から、セントバレーヌの統治権を奪還することにある。そして「それが正しいことである」という体を取り続けなければ、誰からの支持も得られない。
――ラフィーナさまからも支持を取り付けることを考えれば、わたくしたちに下手に手は出せないはず。
彼は、強欲な権力者ではない。悪人でもないし、愚か者とも言い難い。
――自分がしたいことがわかっているのなら、この状況でわたくしが死ぬようなことは、逆に絶対に避けたいはずですわ。
ミーアはうむうむ、っと頷いてから、
「ともあれ、皇女専属近衛隊とディオンさんについては、自由に動いていただいたほうがいいでしょう。最低限の護衛のみ同行していただきましょうか」
おそらく、ディオンたちは、これから忙しくなる。ある程度、自由裁量に任せてしまったほうが良い仕事をしてくれる気がする。
「なっ! み、ミーア姫殿下、それはあまりにも危険……」
慌てた様子の皇女専属近衛兵に、ミーアはニッコリ微笑みを浮かべる。
「ふふふ、問題ありませんわ。わたくしは、わたくしの専属近衛隊の者たちを信用しておりますもの」
そう、ミーアは知っている。
ディオン・アライアは時に危険な男ではあるのだが、同時に極めて優秀な、頼りになる騎士である。皇女専属近衛隊の面々もまた精鋭だ。十分に信用に値する。
では、信用できないのは誰か……? 決まっている。自分自身だ!
ミーアは、未来の自分が油断したり、サボったりで、誤った判断を兵たちに下してしまうことを恐れている。自分の判断ミスで窮地に陥ったのに、そのために命を懸けろと言われて、士気が上がるはずもなし。
ミーアは自分自身のことを、まったくもって信用していない。それゆえ、あえて、その最大の不安要素を排除したのだ。
――面倒な戦闘やら護衛やらのことは、すべてディオンさんや現場の兵たちに丸投げして、わたくしは、司教のほうに集中するのがベストですわ。いえ、ベストはラフィーナさまが来てくれて、全部丸く収めてくれることかしら……。
胸の内で都合の良いことを考えながら、ミーアは馬車に乗り込むのだった。




