第百十九話 物語みたいな戦いを
「これは、ミーア姫殿下……。ルシーナ司教は、いかがでしたか?」
市庁舎のビオンデッティ商会の部屋に戻ると、ビオンデッティがいそいそと近づいてきた。
「なかなか、説得は難しそうですわ」
首を振るミーアに、ビオンデッティは顔を曇らせた。
「説得のための努力は続けるつもりですけど、そのために協力していただきたいことがございますの。先日お願いしておいたシャルガールさんに肖像画の依頼をした商人を探す件ですけど……」
「探させておりますが、出入りの商人の数が多く、難航しております」
「そう……。まぁ、短時間では難しいでしょうね……」
「ええ。ただ、ルシーナ司教のところに肖像画を持ち込んだ者については、すでに判明しています。セントバレーヌに運んだ者についても特定ができましたので、両者の証言を合わせれば……」
――ふむ、その二人は蛇とは関係ないのかしら……? それも調べる必要がありそうですわね。
「ところで、ミーア姫殿下、実は折り入ってお願いしたいことがございます」
「あら? なにかしら?」
「このセントバレーヌを守る我々の私兵団のことなのですが……かなり浮足立っています。もともと、盗賊の相手はしたことがございますが、本格的な軍事行動となると、なかなか……。都市戦は訓練もままなりませんで……」
苦り切った顔で、ビオンデッティは続ける。
「そこで、できればミーア姫殿下の近衛隊の方たちに、指揮を執っていただけないか、と思っておりまして……」
「ふむ……」
ミーアは、腕組みし、即答を避ける。
――一応、形としては、ミラナダ王国とポッタッキアーリ候は、ヴェールガ公国の要請を受けて軍を動かしたことになるはず……となれば、下手に帝国軍を関わらせてしまうと、ヴェールガと敵対したと見なされてしまう可能性もございますかしら……? でも……。
「やはり……難しいでしょうか?」
ミーアの抱く危惧を理解できているからだろうか。ビオンデッティは見捨てられた老犬のような目で、ミーアを見た。
――ううむ……そんな目で見られると弱いですわね……。要するに、なにか言い訳ができればいいだけですし……。
ミーアは、シュシュっとルードヴィッヒに目を向ける。知恵袋が傍らに控えているのは、実に心強い。
「ルードヴィッヒ、どうかしら?」
「そうですね……。多少強引でも、言い訳さえ用意できるならば……例えば……」
ルードヴィッヒは顎に手を当てつつ、
「セントバレーヌは、豊かな港湾都市。しかも、聞けば都市防衛の訓練もままならなかったとのこと。そこで、商人組合が、軍事訓練の顧問をミーア姫殿下に依頼した、という形はどうでしょう……?」
「訓練、ですか?」
「はい。訓練です。民にも協力してもらう、大規模なものです。食料不足による緊張感の高まりは民も知るところですから、セントバレーヌが襲われる想定も、理解が得られるかと」
そう言ってから、ルードヴィッヒはクイッと眼鏡を押し上げて……。
「そして、その訓練が数日間に及び、たまたま、両軍の侵攻の日と重なってしまったとしても、それは責められることではないでしょう」
「なるほど。では、商人組合からただちに依頼を出させていただきます」
そのやり取りを横目に、ミーアはポツリとつぶやく。
「……まったく、すべてが訓練だった、ということにできれば楽ですのに……」
っと、その時だった。
「失礼いたします。こちらに、ミーア姫殿下はおられますか?」
入ってきたのは、ディオン、アベル、シオンだった。
「ああ、アベル。シオンも、みなさん、ケガはないですわね?」
小走りに近づいてきたミーアに、アベルは苦笑いを浮かべた。
「ボクとシオンは、なにもすることがなかったよ。ディオン殿が全部やってくれてね」
それを受けて、ディオンが肩をすくめた。
「以前、レムノ王国でやり合った連中より歯応えがなくって。簡単に降伏するので、拍子抜けしましたよ。まぁ、彼らとしては、大義名分を見出せない戦いなのかもしれませんがね」
「そう。それはなによりでしたわ。それで、捕らえた方たちは……」
「今、君の近衛隊とキースウッドが見てるよ。アベルの説得も効いてたみたいだから、まぁ、大丈夫だろう」
答えたシオンに一つ頷き、それから、ミーアは改めてディオンに顔を向けた。
「ディオンさん、続けてで申し訳ないのですけど、お願いしたいことがございますの」
「まぁ、こんな状況ですからね。なんなりとお申し付けください」
どこか、お道化た様子で、頭を下げるディオンに、ミーアは言った。
「実は、ビオンデッティさんの要請を受けて、皇女専属近衛隊に、この町の私兵団の指揮をしてもらうことになりましたの。あなたには、そのまとめ役をしていただこうと思っているのですけど……」
「それは……よろしいのですか?」
チラリと窺うような視線をミーアに向けるディオンであったが……。
「ああ、名目上は、軍事訓練ということにする」
答えたのはルードヴィッヒだった。一瞬黙ったディオンだが、すぐにその顔に納得の色が広がる。
「なるほど、訓練の最中に、思わぬ軍が攻めてきた……と。しかし、不意のこととはいえ、戦いが起これば血が流れる……。無論、それを止めるために、姫殿下は動かれるのでしょうが……いざ、軍が攻めてきた時には普通に戦ってしまってもよろしいので?」
試すように問われて、ミーアは、ぐむむ、っと唸る。
正直……それは避けたいところであった。
仮にセントバレーヌを守れたところで、後始末が非常に……非常に! 面倒くさいことになりそうだからだ。
それゆえに、先ほどミーアがこぼしたことは、彼女の本心だった。
ルシーナ司教を説得し、軍隊はすべて軍事訓練でした、と言って引いてもらう。
それが楽でいいんだけどなぁ! と心の底から思っているミーアなので、ついつい……、
「戦い……。そうですわね。戦いになってしまえば、仕方のないことかもしれませんわ。他の兵たちには普通に戦い、街と自分たちを守るように言っておくべきだと思いますけれど……しかし、ディオンさん……特別に、あなたには命じますわ」
しっかりと、ミーアはディオンの目を見つめて言った。
「帝国最強の騎士、ディオン・アライア。もしも戦闘になった際には、商人組合の兵たちと協力し港を守りなさい。敵、味方を一兵も損なうことなく……」
その言葉に、その場にいた一同は、思わず息を呑んだ。
かつて……レムノ王国の最強軍団と呼ばれた、金剛歩兵団の隊長は、レムノ国王から無茶振りをされた。
自軍の兵を一兵も損なうことなく、反乱軍を壊滅させよ……などという……およそ現実的でない命令を前にして彼は兵たちを動かすことを躊躇した。
今、ミーアが命じたのは、それよりもさらに、難易度が高いこと。
敵味方を一兵も損なうことなく、敵を食い止めろ、という滅茶苦茶な物であった。
「ははは、なかなかに無茶なことを言いますね、姫殿下」
ディオンは苦笑いを浮かべた後……それを引っ込めて、
「まさか、本気ではないんでしょう……?」
探るように見つめてくるディオンに、ミーアは静かに首を振る。
「本気ですわ。わたくし、このセントバレーヌに平穏を取り戻すためならな、できる限りのことをするつもりですもの」
セントバレーヌに混乱が生じるようなことになってはまずい。仮に戦闘状態による混乱が十日間も続けば、その悪影響は各地に及ぶ。そうして生じた不安感は、さらなる不安感を呼び、治安は加速度的に悪化していくだろう。
だからこそ、迅速に……後に尾を引かないように、今回の騒乱を鎮めたいのだ。
「それはそれは……。いざという時に、上手く脱出する算段を付けろ、と命じられるものとばかり思ってましたが……。まさか、そんな無茶な命令を受けようとはね」
「普通の兵であれば……そう命じますわ。けれど、あなたは普通ではございませんでしょう? ならば、あるいはできるのではないか……と、そう思ったのですわ。帝国最強たるあなたなら、物語の英雄譚のように……」
ミーアは、祈るかのように目を閉じて言った。
否、祈るかのように……ではない。ミーアは実際に祈っていた!
そうなのだ! もしも軍が目前まで迫ったならば……ミーアは、もう祈るしかない……すがるしかないのだ。
本の中から飛び出してきたような男……物語の中で語られる人間離れした英雄のような男……帝国最強の騎士ディオン・アライアが、英雄譚のごとき活躍を持って、敵兵を、バッタバッタと……命を損なうことなく薙ぎ払っていくことを!
それはそう、まるで、エリスの物語に出てくる英雄の戦いのような光景……。
「そう……あの橋の上での戦いなんか……実に……」
良いシーンでしたっけ……などと、現実逃避し始めたミーアに、ディオンは目を細めた。
「ほう……なるほど。橋の上……物語のように……ね」
つぶやく、ディオンに次いで、ルードヴィッヒが眼鏡をクイッと押し上げた。
「ああ……そうか。物語……つまり、彼らに付き合って本当に戦争をする必要はなし……と。彼らに本物の戦争ではなく、物語を見せて……いや、後始末のことを考えると……むしろ……」
「いや、しかし、そのためには相手にも……ああ。そうか……役者は揃っているのか……」
ディオンは、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべてから……。
「上手く行けば、なかなか楽しいことになりそうだ。地図を用意してもらえるかな? この港湾都市、セントバレーヌの」
かくて……事態は静かに動き出した。