第百十六話 芽吹き、兵の足を絡めとり……
ミーアがシャルガールにロクでもないことをお願いしている頃、ディオン・アライア率いる皇女専属近衛隊はポッタッキアーリ候の邸宅の襲撃に向かっていた。
「奇襲で二、三人を制圧した時点で、アベル王子殿下に説得していただく。そんな感じの流れでどうですかね? ああ、もちろん、制圧と言っても殺しませんよ。あまり追い詰めて死兵にでもなられたら面倒なのでね」
ディオンの言葉に、アベルは頭を下げて、
「我が国の貴族が申し訳ない」
「ははは、別にどうということもありませんよ。まぁ、欲を言えば、レムノの剣聖や剛鉄槍みたいな、どうということもある敵がいてくれると退屈しなくて済むんですがね」
肩をすくめつつ、ディオンは笑った。
「しかし……レムノ王国のほうはゲイン王子が足止めするとして、ミラナダ王国軍は大丈夫だろうか。あちらにもなにか足止めができればいいのだが……」
ふとつぶやいたのはシオンだった。そんなシオンに、ディオンは、うーん、と唸り、
「まぁ、脅しはかけてきましたけどね。どこまで効くかはわかりませんが……」
「脅し……というと?」
「なに、簡単なことです。今、セントバレーヌには帝国のミーア皇女殿下がいらっしゃる。我々はその専属近衛隊だ、と教えてやったまでのこと」
別に、ミーアが商人の側に立っている、とは言わない。ただ、そこにいる、とだけ教えたのだ。
「なるほど。進軍したことによって、第三者である帝国皇女を危険にさらすようなことになれば、ティアムーン帝国を敵に回すことになる……と暗に伝えたわけか」
納得した様子で頷くシオンとアベルに、ディオンは続ける。
「ついでに、姫さんがラフィーナさまのご友人であることを、少しばかり誇張して伝えておきましたんでね。彼らの頭の中では、セントバレーヌに進軍することが、ティアムーンとヴェールガ、どちらも敵に回すことになる、ということになっている……と良いなとは思うのですがね」
ディオンはそう言って、首を振った。
「もっとも、希望的観測ですがね、これは。こうなってほしいという願いは、戦場においては聞かれないのが常ですから、備えは必要でしょう」
どこか含蓄のあるその言葉に、
「なるほど……。大変、よくわかります。料理場では必要な心構えですね」
なぜだろう……、キースウッドがしみじみと頷いていた。それはもう、心からの同意であった。なぜだろう……?
そうこうしている内に、一行はポッタッキアーリ候邸の前に着いた。
「ま、いずれにせよ、ここの奇襲部隊を制圧できないとどうにもできないので、手早くやりましょうか」
そうして、ディオンは剣を抜いた。
さて、ディオン・アライアに脅しつけられたミラナダ王国軍であるのだが……皇女ミーアの情報は、ディオンの想像以上の足止め効果を発揮していた。
「帝国の……ミーア姫殿下がいる……だと?」
震える声でそうつぶやいたのは、一隊を率いる貴族、ビアウデット伯爵であった。ちなみに、彼の息子はセントノエルにて、タチアナに絡んでいた少年だったりするのだが、それはさておき……。
王命により、セントバレーヌ攻略を命じられた彼は、三百人の歩兵をもって、それを成そうとしていた。もっとも、歩兵と言っても、多くは農民たちからの徴用であり、実質的な戦力としては、その三分の一と言ったところだった。
しかも、実のところ、彼らは戦う気はほとんどなかった。まったくなかったといっても過言ではない。
その兵站は脆弱で、セントバレーヌに行きつく程度、街を守る守備兵と数週間にも及ぶ戦闘を! などというのはもってのほかだった。
彼らの役割はあくまでも脅しである。
セントバレーヌの守備兵が機能不全に陥っているところを、ポッタッキアーリ候の軍との合算による兵数によって威圧、瓦解させることこそが目的だった。
楽な戦のはずだった。戦というか、ちょっとした軍事パレードぐらいのつもりだったのだ。
それだけに、ディオンたちの出現は、彼らに強烈な衝撃を与えた。
「なっ、なんということだ……、なぜ、こんなことに……」
ビアウデット伯は、王の口車に乗せられてしまった自信を呪った。
そもそも、そんな甘い話が、あるわけがないのだ。ただ、兵を出すだけで目的が達成できるなどと……。
「伯爵さま、これは……まずいのでは?」
部下の言葉に、伯爵は舌打ちする。そんなこと言われるまでもないことだった。
帝国皇女がいる町を、知っていながら攻撃した、などということになれば、帝国を全面的に敵に回すことになる。
否、それだけではない。ミーア・ルーナ・ティアムーンを敵に回すということは、それ以上に致命的なことであった。
そもそも、ミラナダ王国は、なぜ、ルシーナ司教の話に乗ったのか……。
そこには、大陸全土を襲う食料不足が大きく影響していた。
小麦の不作はミラナダ王国も変わらないことだった。港湾都市セントバレーヌから流れてくる食料があるため、今のところ飢饉は起きていないが、その供給が何らかの事情で断たれでもしたら、これから先、厳しい状況がやってくるだろう。
それが、恐れとなって国全体を覆っていた。そんな折、今回の話が届いたのだ。
彼らはなにを求めて出兵したのか……? ビアウデット伯は、なにを求めて兵を率いているのか……?
それは、港に回る食料が減った時に、優先的に食料を得る権利。要は、自国の安全だった。自国の優先的な安全であった。自国のみの安全であった。
ミーアが遥か昔に捨てざるを得なかった“自国のみの安全”を、彼らは求めてしまった。それゆえの出兵であった。
甘さが……楽観的な計算があったのだ。
もしも、安全が手に入るならばよい。仮に失敗しても、かの大商人シャロークに頼ればいい。あの男も、出身地たるミラナダが苦境に瀕していれば、助けてはくれるだろう。
それに……自らの息子が言っていた言葉がビアウデット伯の頭に残っていた。
セントノエル学園の生徒会長、ミーア・ルーナ・ティアムーンは非常に慈悲深く、パン・ケーキ宣言なるものを提唱していると聞く。いざという時は、帝国のミーア姫殿下に頼れば大丈夫のはず……。
けれど、そのことを信じ切れないから、最初からそれに頼ることはしないし、できない。
他国の善意に頼り切ること、それを信じぬくことは難しい。自分でなんとかできるなら、そうすべきだ、と。そう考えていたのだが……。
「皇女ミーアがいる……もしも、戦闘が始まって皇女の身になにかあれば、食料が……」
ミーアの慈悲にすがることはもちろんのこと、シャロークに金を積んで、食料を恵んでもらうこともできなくなるだろう。彼はミーアの事業に協力していると聞くし……。
「それに、やはり帝国を敵に回すことなど、できるはずがない……」
ビアウデット伯は、呻くようにつぶやく。
ミラナダ王国は小国だ。仮にティアムーンと戦争にでもなれば一瞬で踏みつぶされてしまうだろう。
「それだけではありません。皇女ミーアは聖女ラフィーナの無二の友というではありませんか。であれば、都市の制圧が上手くいくにしろ、いかないにしろ、戦闘が始まってしまった時点でおしまいです」
彼らに大義名分を与えているのはルシーナ司教だが、聖女ラフィーナの怒りを買ったとあれば、それも怪しい。
「ということは……」
「戦闘状態にならぬよう、セントバレーヌ守備隊を無力化したうえで、無血開城ということになれば良いのですが……」
夢物語のようなことを言う部下に、ビアウデット伯は、絶望的な目を向けた。
「どうしたものか……」
ミラナダ王国軍を足止めしたもの……それもまた、セントノエルにおいてミーアが撒いた小さな種の芽吹き。大きく育ったその草は、兵たちの足を絡めとり……時間は無為に、否……有意に過ぎていくのだった。




