第百十話 当然、食べ終えている……
「姫殿下は、ご存知ですか? あなたの姿を象った女神の肖像画が存在していることを……」
「あっ……」
ルシーナ司教の、唐突な問いかけ。ミーアは口をぽっかーんと開けた。すっかり解決したと思っていた案件の突然の復活に、意表を突かれたのだ。
「その様子では、ご存知でしたか……」
目つきを鋭くさせるルシーナ司教に、ミーアは慌てて言い募る。
「い、いえ、あれは決してわたくしが、自らを神格化するために作ったわけではなく……」
「そうですか……。なるほど、そうなのでしょうね。あなたは、そういう愚劣なことをされる方ではないのでしょう」
静かに頷いてから、ルシーナ司教は言った。
「ミーア姫殿下、あなたは、貴族の非道を許さぬ方であるとお聞きしています。民を軽視し、餓えさせる貴族に対して厳しい目を向けていると……。貴族が自分たちの食料を不安視するあまり、民に食べ物を配らない……そんなことは許さないと言っておられると……」
ミーアは落ち着きを取り戻し、深々と頷く。慌てはしない。それは、ミーアが一貫して訴えていたことだから、否定することも、謙遜する必要もない。
そんなミーアを見つめ、それから、ルシーナ司教は視線を外す。その目はどこか遠くを見つめているかのようだった。
「私も、そのお考えには同意いたします。心から同意する。よく、仰ってくださった、とさえ思います。セントノエルで語るべき、これ以上の言葉はないと思います。貴族の、そのような非道は絶対に許されるべきではない……けれど……同時にこうも思うのです」
彼は、紅茶のカップを静かにテーブルの上に置いてから、鋭い視線をミーアに向けて。
「貴族や王は、それが非道なことと知りながら、自らの弱さのゆえに行うのだ、と。彼らは、自分自身が悪であることを自覚しながら、罪悪感を持ちながら……それをするのだ、と」
王や貴族の権威は、神に委託されたものだ。それゆえ、彼らは、神の正義と公正をもって民を治めなければならない。貴族の権威を保証する神聖典、その倫理に従わなければ、彼らの権威は成り立たないのだ。
「つまり、彼らの善悪と我らの善悪は一致しているのです。それを行うかどうかは別にして、善は善、悪は悪。その秤は一つなのです。されど……商人たちは、彼らの理は違うのです」
どうやら、難しい話になってきたぞぅ、っと察したミーアは、コメントを求められると困るので、ケーキにフォークを伸ば……そうとするが、当然、すでにケーキは食べ終えている。
仕方なく、紅茶のほうに手を伸ばし一口。っと、そうこうしている間に、代わりにルードヴィッヒがつぶやくように言った。
「商人の理は、金を儲けることを正義とする理である、と……?」
「そのとおり。そして、その理に適う限りにおいて、商人たちは確かに神聖典の理に従うでしょう。しかし……もしも、金を一番儲けることが正義であるというなら、彼らの正義と我らの正義は食い違っているのです。その意味が、わかりますか?」
「…………」
ミーアは口を閉じたまま、ルシーナ司教を見返す。っと、そこになにを読み取ったのかはわからないが、ルシーナ司教はゆっくりと頷き……。
「そうです。我らが悪と見ることが、公然と正義の行為として行われることがあり得るかもしれないということになってしまう。善悪の基準が絶対性を失い、相対的なものになってしまった世界では、人の命を救うという行為の正しさでさえ、比較されるようになる。絶対的に正しいとは言えなくなる……」
憂いを帯びた目で、ルシーナ司教は続ける。
「我らの正義に照らし合わせれば当然であることが、商人の正義に照らし合わせれば、そんなことをしてなにになる? と問われることになるのです。普遍は消え、混乱が訪れる」
それから、ルシーナ司教は改めて、視線を向けてくる。すでに飲み終わった紅茶のカップの底を見つめていたミーアは、
――い、今、なにか聞かれたら答えられる自信がございませんわ。どなたかに話を振れるよう、きちんと備えておかなければ……。
コクリ、と喉を鳴らしつつ、ルシーナ司教に視線を向ける。
「そして、ミーア姫殿下……あなたは、彼らの偶像になってしまうかもしれない。彼らに都合の良い権威を与える、女神になってしまうかもしれないのです。もはや、あなた自身がどう考えるのかは、問題ではない」
ふと思いついたといった様子で、ルシーナ司教は言った。
「ところで、ミーア姫殿下は、蛇のことはご存知でしょう。リオネル、レア、お前たちは……?」
父の問いを受けて、兄妹は、それぞれに神妙な顔で頷く。
「そうか……聞いてしまったか」
「申し訳ありません、ルシーナ司教。わたくしの一存で二人にも知っていただきましたけれど……」
「いえ、いつかは教えなければならないことでしたから。しかし……それならば、この意味はわかるでしょうか? 彼ら商人の中に、地を這うモノの書を……・混沌の蛇の聖典を読んだ者がいるのです。そして、女神の肖像画は、その影響で生み出されたものかもしれない」
「地を這うモノの書が? 見つかったんですの?」
思わず目を見開くミーア。
「はい。二月ほど前に通報がありました。怪しげな本が荷物に紛れ込んでいた、と……」
それから、ルシーナ司教は静かに告げる。
「そして、女神の肖像画の発見……。蛇の策動であれば当然警戒すべきことでしょう。商人たちの中にも、蛇にそそのかされた者がいるはずですから」
「……善悪の基準を相対化させることで、正義と正義が対立するような状況を起こし、騒乱を起こし……混沌を呼び起こす……」
つぶやいたのは、レアだった。その声にミーアは、思わずハッとした顔をする。
――れ、レアさん……さすがに司教帝候補だったことはございますわ。ちゃんと、話についていけておりますわ……。
ミーアは、そこで、仲間たちの顔を窺う。
ルードヴィッヒは……おそらく理解できているだろう。シュトリナも神妙な顔をしている。たぶん、理解できているのだろう。
一方で、アンヌとベル……それにリオネルは……ちょっぴりわかっていないような顔をしていた!
上手く話しを呑み込めていなかったのが自分だけじゃなく、ホッと安心するミーアである。まぁ、それはさておき……。
「蛇が関係していないのだとしたら、それも深刻なことだ。なんの作為もなく、ミーア姫殿下を偶像視しようとする動きがあるのだとしたら憂慮すべきことと言えるでしょう。いずれにせよ……これ以上、商人たちにこの町を統治させることは、容認できない」
ルシーナ司教は、硬い声で言うのだった。