第百七話 良き海月の資質
「……ということだ」
慧馬の話を聞いたミーアは、頭がクラァッとしてくるのを感じた。
――みっ、ミラナダ王国だけじゃなく、レムノ王国まで……?
「なるほど……。ルシーナ司教は、ミラナダとレムノ王国……双方の軍の力を利用することで、拮抗を作り出そうとしているということか……」
ルードヴィッヒの言葉に、ディオンが頷く。
「互いに牽制させ合いつつ、どちらに大義を与えるかは、司教次第。となれば、司教の言に従わざるを得ない、か。他国から責められないためには、あくまでも、この地はヴェールガの飛び地でなければならない。司教の存在は現在よりさらに重要な、命綱になる」
それを聞き、シオンが声を上げた。
「いや……確かに話はわかるが……。そんなことをヴェールガ公は、納得するだろうか? 中央正教会にしても、これを是とはできないと思うが……」
「シオン殿下、残念ながら、その算段が付いている……ということではありませんか」
こういった場では、普段は発言を慎むキースウッドが、珍しく口を開いた。
「彼の行動は多少強引とはいえ、ヴェールガの伝統に則ったやり方です。本国から文句をつけられぬよう、慎重に事を計画したことが窺えます」
ヴェールガ公国は必要最低限しか軍を持たない。ゆえに、ヴェールガが軍を動かす必要がある時には、周辺国に要請するのだ。
小さな例で言えば、それは、聖女ラフィーナの護衛。聖女が連れるヴェールガの護衛は最低限の数であり、それ以外は訪れた国の兵によって担われることになる。
そして、大きな例で言えば、聖瓶軍。混沌の蛇の打倒を旗印に、周辺国に募った義勇軍は、司教帝の軍として再編され、世界に混乱をもたらした。
いずれにせよ、ルシーナ司教の動きは、ヴェールガ公国の伝統的な、正しいやり方だった。
「だから、あとは“そうせざるを得なかった理由”があれば、ヴェールガ本国も認めるかもしれません」
キースウッドの指摘に、ルードヴィッヒは頷いて、
「当然、考えているでしょうね。ルシーナ司教は、用意周到に準備を整えているはずだ。そういう意味では……ポッタッキアーリ候の先行部隊を食い止めるのは、重要かもしれません。ルシーナ司教は、民に累が及ばぬよう、商人組合の私兵を少ない犠牲で制圧、無血に近い状態で事を成そうとしている。その状況が崩れれば、あるいは、ルシーナ司教は思いとどまるかもしれない。軍と軍がぶつかる、武力衝突の状態を司教は望まないでしょう。あくまでも、最大限、好意的に解釈すれば、ですが……」
「そうです。もし仮に、父上がこの件に関係していたとしても……民の血が流れるような事態になるというのならば、きっと思いとどまるはず……きっと」
祈るように、そう主張したのはリオネルだった。必死にそう主張するその顔は、色を失っていた。
「どちらにせよ、だな。商人組合の私兵団が機能すれば、膠着を作り出すこともできる。ミラナダにしろ、レムノにしろ、セントバレーヌの中に入れなければ、長く軍を駐留させてはいられないだろう」
ディオンが腰の剣に手をやり、
「ミーア姫殿下、皇女専属近衛隊の者たちを借りたい。当然、僕自身も行くことを許可してもらいたいですがね……」
「ディオン殿、ボクも行こう。ポッタッキアーリ候はレムノ王国の貴族、その部下ならば、第二王子のボクの言葉を聞くかもしれない」
「俺たちも同行しよう。戦力はできるだけ必要だろう」
アベルに続き、シオンまで同行を申し出る。行く気満々の王子二人に、一人、しぶーい顔をするのはキースウッドであった。
「やれやれ……。アベル王子はともかく、シオン殿下まで行かなくとも良いのに……。しかし、なぜだろう……いつもの令嬢方のアレに比べたら……遥かに心が安らかだな」
なぁんてことを、遠い目をしてつぶやくのだった。
さて……目の前で次々と展開する事態を尻目に、ミーアは……半ば思考を放棄していた!
――ふむ……ビオンデッティさんのところのお茶菓子は、さすがは商人らしく、見事な一品でしたけれど、昨日、ルシーナ司教のところでいただいたものも負けておりませんでしたわね。やはり、ルシーナ司教もなかなかの目利きと言うことが……。
現実逃避にふけるミーアである。
なにせ、話が大きくなり過ぎていた。
――そんな面倒くさいこと、わたくしの知ったことではありませんわ!
っと、声を大にして主張したいミーアである。
巻き込まれないよう、できるだけ存在を消して、息を潜めて、小さくなっていたミーアである。が……ミーアのここまでの振る舞いが、ミーアの不介入を許さない。
ここにいる一番の新参であるビオンデッティですら、セントバレーヌでのミーアの振る舞いを見て、すっかり、帝国の叡智の輝きに心を奪われてしまっているのだ。
おおかた話がまとまったところで、その視線が向かうのは、やはり、帝国の叡智、ミーアのところで……。
――う、うう……やはり、これ、わたくしも参加しなければいけない流れ……ですわよね。
ものすごーく気が進まないながらも、ミーアは目の前の紅茶を一口。
――しかし、そもそも、これ……わたくしの仕事なのかしら……。
その思考が、若干、逃げの方向に流れかける。
――もしかして、これ、わたくしがタッチしなくてもいい案件なんじゃ……?
試しに考えてみる。これを放置するとどういうことになるか……?
――ルシーナ司教ができるだけスムーズに事を進めたとして……それでも、一時的な混乱は避けられないはず……。それで、食料の供給が滞ったりすれば……。
瞬間! ミーアは懐かしい感触を首筋に覚える。まるで、旧知の幼馴染にでもあったかのような懐かしさに……ミーアの体に鳥肌が立った。
いつの間にやら、ヤツが……すぐ後ろに迫っているような、いやぁな感覚、断頭台の刃の冷たさにミーアは震え上がった。
これは、放置しちゃいけない案件だぞぅ、とミーアの本能が告げていた。さらに……。
「申し訳ありません。ミーア姫殿下。面倒事が大きくなってしまいました。けれど、大変恐縮ながら、我々としては、この時期にミーア姫殿下がここにいらっしゃったこと、天の配剤のように思えてなりません。なにとぞ、我々をお見捨てになりませぬよう、心からお願い申し上げます」
深々と頭を下げるビオンデッティ。その言葉で、ミーアは思い出す。
――ああ……そうでしたわね。ルシーナ司教と商人組合との不和をなんとかするよう、お願いされていたんでしたわ。今回の事態は、いわばそれの延長。であれば、これを無下に扱えば、商人組合の信頼を裏切ることになりそうですし、もろもろまずいことになりそうですわ。
セントバレーヌの商人組合は、味方につけておいたほうがなにかと便利な存在だ。目の前の面倒事と比較しても、その重要度は決して低くはない。
――それに、頼って来られた方を無視するのは、後味が悪そうですし……くぅっ! な、なぜこんなことに……。
ミーアは、ふーっぅっとため息を吐き……それから、改めて、冷静に事態を見つめ直して、
――ああ、これ……逃げられないやつですわ。
……察する。そして……諦める。諦めが良いのは、ミーアの美徳、良き海月の資質である。
流れに逆らっても意味がないならば、諦めてその波に乗るしかない……そう諦めたうえでも、なお、ミーアは足掻く。
この波に……誰を巻き込めば楽ができるか……っと思考をシフトさせたのだ。
――ルードヴィッヒとアンヌには付き添ってもらうとして、リオネルさんとレアさんにも一緒に行っていただくのがよろしいかしら。お父さまの説得にどれぐらい影響するかは微妙なところですけど……
っと、考えたところで、不意にミーアは気付く。
この場に居ない……けれど、一番、この場に居てほしい人のこと……。
「ラフィーナさま……」
――がいてくれたら、すごーく楽なのになぁ! ルシーナ司教とか、一喝してもらえるのに! っと。
聞かれてはまずい部分は、なんとか呑み込み、ぶんぶん、っと首を振る。
――いない方に頼るのは、意味のないことですわ! ここにいる者たちでなんとかしなければ……。ここにいる全員で、責任を分かち合えるように、きっちりと状況を整えなければなりませんわ!
そう気合を入れるミーアは気付いていなかった。
ミーアのつぶやき、それをただ一人聞いていた人物……レアが、ハッと顔をあげたことに……。