第九十九話 ミーア姫、アンヌの忠義の矢に射抜かれる
シャルガールに、許可なくミーアの肖像画を描かないように言い含めて、ミーアたちはルシーナ司教の館に戻った。
迎えの馬車に乗るや否や、ルードヴィッヒが口を開いた。
「彼女の話を信じるならばですが……怪しいのは彼女に近づいてきた商人でしょうね」
ちなみに、車内にはルードヴィッヒとアンヌしかいない。秘密の話をするには、もってこいの状況だった。
「ふむ……」
それにはミーアも同意だった。
「先ほどの彼女の様子を見ていると、そんな感じがしますわね。とぼけているようには、思えませんでしたし……」
「ただ、その商人が純粋に金儲けのためにやったのか、悪意を持ってやったのかは気になるところですが……」
ルードヴィッヒの言に深々と頷き、
「蛇の策動というわけですわね……ぐぬぬ、厄介極まりますわね……」
「そうでなかったとしても、面倒なことには変わりはありませんが。なんの悪意もなく、純然たる好意でやることが、ミーアさまのご計画を損じることだってあるのですから」
「ふむ……」
腕組みしつつ、ミーアの脳裏に黄金の何かが、次々と過った。
像に始まり、灯台に終わる、純然たる好意でなされんとする、その黄金のなんとか群を思い浮かべ……。
「そうですわね。厄介ですわ」
しかつめらしい顔で、ミーアは頷いた。
「ただ、五枚で済んだのは、不幸中の幸いではないかしら?」
「そうですね。十枚、二十枚とバラまかれたら、さすがに厄介でしたが……。しかし、いずれにせよ、その商人を探し出し、事情を聴く必要があるでしょうか。誰に売ったのか……。追跡できれば良いのですが」
「ビオンデッティさんに、協力していただくのが手っ取り早い気がしますわね」
商人のことを聞くならば、商人組合に……である。
「それがよろしいでしょうね。セントバレーヌで商売をしている商人であれば、誰しも、商人組合に属しているものですし……」
「上手く見つかればいいのですけど……あら?」
っと、そこで、ミーアは気が付いた。先ほどから、アンヌがむっつり黙り込んでいることに……。
分乗している関係上、今、馬車にはルードヴィッヒとアンヌしかいない。王子たちに気を使って黙っている、ということはないはずだが……。
「アンヌ、どうかしましたの? 先ほどから黙り込んで……少し歩き回ったから、疲れたのかしら?」
そう尋ねると、アンヌはギュッと唇を引き結んだまま、首を振った。
それを見て、ミーアは察する。
――あら、これは……。アンヌ……もしかして、機嫌が悪いのでは……?
ミーア、即座に自己チェックを始める。
――なにか、アンヌに怒られるようなことをしたかしら……?
今日一日のことを目まぐるしく、目の前に思い浮かべ……特に、何も思い当たることがなかったので、改めて口を開く。
「なにか……あなたを怒らせるようなことがあったかしら……?」
ミーアの問いかけに、アンヌは、再び、唇を噛んでから……。
「申し訳ありません……ミーアさま。私、自分が、悔しくて……」
ギュッと拳を握りしめ、アンヌは絞り出すように声を出した。
「ミーアさまを、侮らせるようなことになってしまいました……」
「…………はて?」
思い当たることがなくて、ミーアは思わず首を傾げる。
「侮らせる……というと……」
「もしかすると、アンヌ嬢は、先ほどのシャルガールという画家の言葉を気にしているのか? 絵のモデルとして美しくない、とミーア姫殿下のことを言っていたことを……」
ルードヴィッヒの指摘に、アンヌは重々しく頷き……。
「ミーアさまが、女神の肖像画に相応しくないだなんて……そんなこと、絶対にあり得ません! きっと、私が至らないから……最近の髪やお肌のお手入れが疎かになっていて、それで……」
思い悩んだ様子のアンヌに、そんなことはない、と言ってやりたいミーアであったが……。
――しかし、それをわたくしが言ったところで、かえって気を使わせた、とアンヌが落ち込むかもしれませんわね。言い方が、とても難しいですわ。
っと、困り顔のミーア。それを見たルードヴィッヒが再び口を開いた。
「個人的には、アンヌ嬢の言うことに賛成だ。ミーアさまの威光、美しさが女神の肖像画のモデルに相応しくない、などと言うことはあり得ないと思う。感情的には全く納得いかないが……、しかし、合理的に考えれば、あのシャルガール嬢がそう言ったことは仕方ないこととも言える」
「……なぜでしょうか?」
アンヌがキッと顔を上げれば、ルードヴィッヒは小さく肩をすくめて……。
「美しさというのは、あくまでも受け取り手の側の、感じ方の問題だからだ。そうだな……例えば……」
っと、ルードヴィッヒは眼鏡を外し、そこに息をかける。レンズを曇らせたうえで、アンヌの目の前に持ってきた。
「これを見てもらえるとわかると思うんだが、どうだろう? 目の前が見えるだろうか?」
「いえ……その、はっきりとは……」
困惑した様子で言ってくるアンヌに、ルードヴィッヒは一つ頷き、
「そう。目の前がボヤけてよく見えない。その結果、美しいものを美しくないと感じ、美しくないものを美しいと感じてしまう。そう言うことだってあるだろう」
それから、ルードヴィッヒはレンズを拭いて、眼鏡をかけなおし……。
「シャルガール嬢に目の前の光景がどう見えているのか、それは彼女にしかわからないこと。彼女の感覚が、この眼鏡と同じく透明か、先ほどのように曇っているのか、それは誰にもわからないことなんだ」
クイッと眼鏡を押し上げてから、厳かな口調でルードヴィッヒは言った。
「それに、芸術家というのは、変わり者が多いとも聞く。これは、我が師からの受け売りだが、とある異国の芸術家は、そこらに落ちている石を美しいと言い、道端の石を拾ってきては、それを作品と称しているとか……」
「え? 道端の石、ですか……?」
「そうだ。だが、よく考えてもらいたいんだが、我々が通常美しいと感じている宝石も、もとは石のようなものだ。だから、同じ石に価値を見出し、美しいと感じる者がいても不思議ではないと思うんだ。世の中には、石を宝石のように大切にし、宝石を石のように粗末に扱う、そう言う人間だっているということだ」
「ルードヴィッヒさん……」
アンヌは生真面目な顔で頷いてから、
「でも、それでもやっぱり、最近少しミーアさまのお肌や髪のことに手が回っていなかったことは否めません。ミーアさま、今日のお風呂から、きっちりさせていただこうと思います」
そう言うアンヌに、ミーアは穏やかな笑みを浮かべて、
「ええ。頼りにしていますわ、アンヌ」
上機嫌に頷いた……のだが。
「あ、それと、あまり食べすぎは、体によくありません。本日のデザートは少し控えめにしていただきますね」
「…………はぇ?」
ルードヴィッヒがいい感じにまとめてくれましたわ……などと油断していたミーアは、まさかの流れ矢に撃たれ、目をパチパチさせるのだった。