第九十六話 画家シャルガールの憂鬱
月曜日ですが、久しぶりにミーアが出ません。
たぶん、かき氷の食べ過ぎで休んでます。
明日から普通に出ます。
セントバレーヌの外れ……。廃屋と見まがうばかりの安宿にて。
固く小さいベッドの上、その女性は目を覚ました。
年の頃は、二十代の半ばといったところだろうか。整った顔立ちの女性ではあったが、長い栗色の髪には、くしゃくしゃに寝癖が付き、その目の下にはうっすらと隈が目立っていた。
「やっぱり、寝にくいですね……このベッド」
少し前まで滞在していた、公爵邸とは程遠い環境に、彼女……シャルガールは深々とため息を吐いた。
しばらく前、ヴェールガ公国の公都に住んでいた頃とは、全く違う環境だった。
お抱えとはいえ、一画家に過ぎない身。さすがに館を下賜されるということはなかったが、それでも与えられた部屋は清潔で、ベッドももっと柔らかかった。食べ物だって良いものをもらっていたのだ。
だというのに……。
「まったく……世の中、間違ってます。なぜ、この私がこんな目に……」
……概ね、自分の責任ではあった。
「各国で売られるものだし、民草の目にも触れるものなので、もっと大人しいものにしなさい」
ラフィーナに天使の衣装を着せた肖像画を描いた男が言った。
「そうだそうだ、こんなヘンテコな衣装、許されるわけがないだろう!」
ラフィーナを伝説の人魚に見立てた男が、頷いていた。
シャルガールは、納得がいかなかった!
……まぁ、それについては、ちょっぴり同情の余地がないではない感じもするが。
ともかく、シャルガールは、批判に負けずに描いた。同じテイストの絵を何枚も描いて、描いて描きまくった。
衣装の色も桃色、青色、緑色、黄色、といろいろと変えてみた。
スカートを少しだけ長くしたり、お腹を出してアクティブにしてみたり……いろいろ工夫したものの、それらの努力は一切受け入れられることはなかった。
「私の美を理解できないとは、なんて蒙昧なんでしょうか……奴らは芸術のなんたるかをわかっていないのです……」
憤慨した彼女は、ついうっかり、主任の肖像画家に悪態を吐き、自分から公爵のところを飛び出してしまったのだ。
「世の中、間違ってます……」
そうつぶやく彼女の脳裏に、不意に師匠の言葉が思い出された。
「シャルよ。問いましょう。美とはなんですか?」
シャルは胸を張って、その問いに答える。
「決まっています、先生。私が美しいと思うものです。私が、そう感じるもの。それこそが美です! それを絵に描き続けることこそが、私の生きる意味です」
彼女には強い自我と自尊心があった。
美の基準を決めるのは、あくまでも自分自身であった。
それ以外の何者にも決して影響を受けない。折れず、媚びず、妥協せず、ただ自分は、自分自身の芸術を極めるのみ。
ただ、己が内にある情熱に身を任せ、己が美しいと思うものを描くのみ……と。
それこそが、シャルの固い信念だった。
そんな彼女に、師は苦笑いで言った。
「それでは、あなたの美は、あなたの感性以上のものにはならないのではありませんか?」
その問いかけに、シャルは一瞬、虚を突かれる。
「あるいは、あなたの感性を理解してくれる一部の人たちにのみ通じる価値になっていくのでしょうか?」
師は、線の細い、穏やかな笑みを浮かべて、シャルに問うた。
「そもそも人は、自分を基準とした、自分だけの美を、何物にも縛られぬ方法で、相手に伝えることができるものでしょうか?」
「やってみせます。私の絵をわかってくれる人は、必ずいますから……」
鼻息荒く言うシャルに、師匠は静かな声で言った。
「そうですか……。あなた個人の美が、普遍の美に到達することを……あなたの美の感覚が神の祝福を受けることを、祈っていますよ」
そんな師の祈りを受けて、描き出されたのが、例の、ラフィーナのちょっぴりアレな感じの肖像画だったというのは、世の無常を表す好例であったのかもしれないが……まぁ、それはともかく……。
あの時の言葉を思い出すたびに、シャルは顔をしかめる。
要するに、彼女の美は、描き出した価値は、周りの者たちに通じなかったのだ。
こだわりにこだわって、あの肖像画に込めた彼女の美は、認められなかったのだ。
さりとて、それで悔い改めて、別の美を求めようとは、今の彼女には思えない。
自分は変わりたくない、でも、認められたい……。そんな葛藤を前に、シャルはため息を吐いた。
「あー、どこかに私の才能をまるっと認めてお抱えにしてくれる、変わり物の貴族はいないでしょうか……」
なぁんて不毛なことをつぶやきつつ、彼女は身を起こした。
さすがに、夕方までふて寝をしては、腹も減る。
「なにか、景気づけに美味いものでも食べましょう」
髪に軽く櫛を通し、お気に入りの帽子をかぶる。壁にかけておいた、いささか、目がチカチカする色のローブを身にまとって、鏡で確認。
絵描きたるもの、いつでも、身なりに気を使うべし。彼女のモットーである。
「あーあ、ヴェールガ公爵家のお抱えになれば、出世できる……と思ったのにな……」
切なげなため息を吐いて、彼女は宿屋を後にした。