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ティアムーン帝国物語 ~断頭台から始まる、姫の転生逆転ストーリー~  作者: 餅月望
第八部 第二次司教帝選挙~女神肖像画の謎を追え!~
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第九十四話 名もなき蛇は眠りにつき

 さて、燻狼がそそくさと出て行くのを、商人の蛇は半ば嘲笑いつつ見送った。

「いかに帝国の叡智が恐ろしいとはいえ、このようにやりやすい場所を離れるとは情けない……」

 そう……この商人の町、セントバレーヌは蛇を生むにはうってつけの場所だった。

 なにしろ、商売というのは、必然的に勝ち負けが生まれるもの。敗者に寄生し弱者を誘惑する、蛇が非常に入り込みやすい場所だった。

 そんな町に生まれた、この商人もまた、緩やかな敗北者だった。

 大商会の二代目、三代目が幅を利かせるこの町にあって、彼は、貧乏商家の出だった。

 すでに、ガッチリと固まった商人組合の幹部席、市場も硬直し、そこに食い込むのは至難の業だった。

 自分は、しょせん敗北者だ。

 どれほど頑張ってもシャローク・コーンローグのようにはなれない。

 マルコ・フォークロードのように、商会を立ちあげる力もない。

 その事実が、彼を強かに叩きのめした。

 いや、才能で負けるのは、まだ許せた。けれど、親からの遺産と市場基盤を受け継いだだけのくせに、大商人面する者たちに、なによりも腹が立った。

 壊してしまいたい、とすら思った。

 そんな時、彼の前に、一冊の本が流れてきた。

 地を這うモノの書……。その本は、禁書であることすら秘密にされた、呪われた本だった。そして、彼にとっては、福音の書でもあった。

 はじめ、商品の具合を確かめるために本を開いた彼であったが、すっかり、その本にのめり込んでしまったのだ。

 そして、そこから得られる無限とも言える知識により、彼は悟ってしまった。

「商人の理というのは、なんと脆弱なものなんだろう……」

 それは画期的な発見であった。

 商人の理……その合理性は、一見すると強固なものだ。

 金がある者こそが力を持つ、金がある者こそが正義。それは絶対的な真理に見える。彼の目の前にいつでもそびえ立つ、それは高く分厚い常識の絶壁であった。

 されど……蛇の知恵は言う。それは中身のない、揺らぎやすいものであるのだ、と。

 金を増やすことが正しい。金は力だ。力が増えるのは正しいことだ。

 力が増えれば、できることだって増える。それが間違いであるはずがない。

 ……だが、では、増えた金、あるいは“できること”の中からなにを選択して使うのか……そこに対する答えが、この理には存在しない。

 十の金を得るため、一の金を使い、得られた十の金を使って、百の金を得んとするという論理。それは、ただ、なにかを増やすためだけの理屈で……。増やした物を何に使うのが正解かの答えは、そこには存在しないのだ。

 商人の理とは、芯のない、ただ増やすためだけの理屈なのだ。

 ――だからこそ、操りやすい。芯がなく、左右にゆらゆら揺れる脆弱な理であればこそ……。

 彼は……蛇導士ではなかった。

 ただ、地を這うモノの書の知識を用いて、既存の市場を破壊して、儲けを出そうとする打算的な協力者であった。その程度の協力者でさえ、蛇の一員として秩序の破壊に邁進するからこそ、蛇は恐ろしいとも言えるのかもしれないが。

 ともかく、そんな彼であったから、肖像画を売った件には、そこまで深い意味はなかった。

 せいぜい、混乱が生じれば、それに乗じて儲けが出せるかも……ぐらいの考えだった。

 市場が既得権益で固められているならば、それが壊れるような混沌を。そのような考えから、軽い気持ちでやってみたことであったのだが……。

 それに誘われるようにして、意気揚々と、ミーアがやってきたっ!

 ――どっどっど、どういうことだ!?

 彼は大いに狼狽えた。

 なぜ、このタイミングで、あの帝国の叡智がセントバレーヌに来るのか? なにをしにきたのか……?

 ――あの肖像画の件を察して……いや、しかし、そんなことが、あり得るのか? あり得ないだろう、そんなこと……。

 笑おうとした彼の脳裏に、火燻狼の愚痴が過る。

 長年、他の蛇たちが立てた計画のすべてを平らげ、台無しにする悪夢……帝国の叡智。

 ――偶然なはずが、ない……!

 即座に、彼は自身の考え、あるいは、希望的観測を捨てた。にもかかわらず……皇女ミーアは肖像画のことには、まったく触れなかった。犯人捜しをしようという様子もない。

 ミーアがやったこと、それは……彼の予想より遥かに最悪なことで……。

 最悪なこと、すなわち、商人の理に……芯を通してしまったのだ。

 帝国の叡智は、ただ、金を儲けることを正義とした理屈に、儲けた金をこう使うのが正しい、という芯を通してのけたのだ。

「わたくしの、好意と尊敬を買いなさい」

 と堂々と、商人たちにもわかる理屈で語りかけ、それによって、金の「正しい」使い方を示してみせたのだ。

 働きやすかったはずの場所が……今や大きく変えられようとしていた。

 商人の理は、フワフワした、芯を持たず、流されやすいもの。だからこそ、ミーアの示した道は、商人たちにとって衝撃的であった。

 それは、その蛇自身にすら、強い衝撃を残した。否、商人の理の本質を理解している彼だったからこそ、なおのこと、ミーアの言葉は衝撃的だった。

 彼女の堂々とした、統治者としての答え、それは、完全な正論で、商人たちの心の飢えに、答えるものでもあった。

 金儲けに傾倒した商人たちでさえ、その心には良心があるのだ。完全に心を殺し、金儲けに徹することなど、人にはできない。だから、大部分の商人たちは、その渇望から目を背け、できるだけ気にしないようにして、商売に勤しんでいた。

 商人の理のど真ん中、そこには何もないのだということ……金を効率的に儲けたとして、それが世界にとってどのような意味を持ち、自分にとってどのような意味を持つのか……。その重要な部分が決定的に欠けているのだと、それに気付かぬふりをして。

 大切なことから目を逸らし、ただ目の前の商売にのみ目を向ける。

 ミーアの言葉は、まさに、その商人の渇望に応えるものだった。

 ――ああ、そうか……。これが、かの強欲なる大商人、シャローク・コーンローグをも手中に収めた帝国の叡智……。

 彼は、思わず舌打ちしそうになる。

 できるだけ目立たないように、息を潜めていたが、これ以上は黙っていられない。

 商人組合の常識が、帝国の叡智によって書き換えられる前に、なんとか、場の空気を悪くするべく、隙を伺う。が……。

 ふと、そこで、気付いてしまう。

 ――俺は、金儲けして、どうしようというんだ……?

 既存の秩序を破壊し、その間隙をついて商売する。

 莫大な金を儲け……その金で、秩序を破壊する?

 それは否だった。彼は心から蛇ではない。ただの、積極的な協力者だ。蛇から利益を得られればこそ、その考えに同調するだけであって……行くところまで行く破壊には、興味がない。

 ならば……それならば、その儲けた金でなにをする?

 美味い物を食うか? 巨大な城でも買おうか? 宝石、美術品に囲まれてみるか? 美酒に酔い、美女に酔ってみようか……。

 思いつく限りの富を手に入れた男、シャローク・コーンローグは、嬉々として、積極的にミーアに協力しているというのに……?

 彼の心は揺れていた。商人の理に芯が通っていないように、彼の理にも芯は通っていなかったのだ。

「う……うう……」

 彼の胸の内、蛇は静かに息を止める。

 されど……肖像画と共に放たれた蛇は、すでに動き出していた。

 混沌を求めて、次なる場所に、静かに音もなく……。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ミーアちゃんが真面目に主人公し始めたこと [気になる点] ミーアちゃんが主人公になりだしちゃったこと [一言] とても複雑な心境……まさか、これが……父性の目覚め!? なんて、ミーアちゃ…
[良い点] ヴァレンティナやバルバラのような世界の全てに絶望するような経験をしていないからか、 はたまた商人との兼業だからなのか、現実的な思考から抜け出せない感じがしますね。 蛇がその心の弱さに付け…
[一言] まあ実際に大飢饉になんかなったら、金や貴金属をどれだけもってても僅かな肉きれ以下の価値になったんだよね。
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