第九十四話 名もなき蛇は眠りにつき
さて、燻狼がそそくさと出て行くのを、商人の蛇は半ば嘲笑いつつ見送った。
「いかに帝国の叡智が恐ろしいとはいえ、このようにやりやすい場所を離れるとは情けない……」
そう……この商人の町、セントバレーヌは蛇を生むにはうってつけの場所だった。
なにしろ、商売というのは、必然的に勝ち負けが生まれるもの。敗者に寄生し弱者を誘惑する、蛇が非常に入り込みやすい場所だった。
そんな町に生まれた、この商人もまた、緩やかな敗北者だった。
大商会の二代目、三代目が幅を利かせるこの町にあって、彼は、貧乏商家の出だった。
すでに、ガッチリと固まった商人組合の幹部席、市場も硬直し、そこに食い込むのは至難の業だった。
自分は、しょせん敗北者だ。
どれほど頑張ってもシャローク・コーンローグのようにはなれない。
マルコ・フォークロードのように、商会を立ちあげる力もない。
その事実が、彼を強かに叩きのめした。
いや、才能で負けるのは、まだ許せた。けれど、親からの遺産と市場基盤を受け継いだだけのくせに、大商人面する者たちに、なによりも腹が立った。
壊してしまいたい、とすら思った。
そんな時、彼の前に、一冊の本が流れてきた。
地を這うモノの書……。その本は、禁書であることすら秘密にされた、呪われた本だった。そして、彼にとっては、福音の書でもあった。
はじめ、商品の具合を確かめるために本を開いた彼であったが、すっかり、その本にのめり込んでしまったのだ。
そして、そこから得られる無限とも言える知識により、彼は悟ってしまった。
「商人の理というのは、なんと脆弱なものなんだろう……」
それは画期的な発見であった。
商人の理……その合理性は、一見すると強固なものだ。
金がある者こそが力を持つ、金がある者こそが正義。それは絶対的な真理に見える。彼の目の前にいつでもそびえ立つ、それは高く分厚い常識の絶壁であった。
されど……蛇の知恵は言う。それは中身のない、揺らぎやすいものであるのだ、と。
金を増やすことが正しい。金は力だ。力が増えるのは正しいことだ。
力が増えれば、できることだって増える。それが間違いであるはずがない。
……だが、では、増えた金、あるいは“できること”の中からなにを選択して使うのか……そこに対する答えが、この理には存在しない。
十の金を得るため、一の金を使い、得られた十の金を使って、百の金を得んとするという論理。それは、ただ、なにかを増やすためだけの理屈で……。増やした物を何に使うのが正解かの答えは、そこには存在しないのだ。
商人の理とは、芯のない、ただ増やすためだけの理屈なのだ。
――だからこそ、操りやすい。芯がなく、左右にゆらゆら揺れる脆弱な理であればこそ……。
彼は……蛇導士ではなかった。
ただ、地を這うモノの書の知識を用いて、既存の市場を破壊して、儲けを出そうとする打算的な協力者であった。その程度の協力者でさえ、蛇の一員として秩序の破壊に邁進するからこそ、蛇は恐ろしいとも言えるのかもしれないが。
ともかく、そんな彼であったから、肖像画を売った件には、そこまで深い意味はなかった。
せいぜい、混乱が生じれば、それに乗じて儲けが出せるかも……ぐらいの考えだった。
市場が既得権益で固められているならば、それが壊れるような混沌を。そのような考えから、軽い気持ちでやってみたことであったのだが……。
それに誘われるようにして、意気揚々と、ミーアがやってきたっ!
――どっどっど、どういうことだ!?
彼は大いに狼狽えた。
なぜ、このタイミングで、あの帝国の叡智がセントバレーヌに来るのか? なにをしにきたのか……?
――あの肖像画の件を察して……いや、しかし、そんなことが、あり得るのか? あり得ないだろう、そんなこと……。
笑おうとした彼の脳裏に、火燻狼の愚痴が過る。
長年、他の蛇たちが立てた計画のすべてを平らげ、台無しにする悪夢……帝国の叡智。
――偶然なはずが、ない……!
即座に、彼は自身の考え、あるいは、希望的観測を捨てた。にもかかわらず……皇女ミーアは肖像画のことには、まったく触れなかった。犯人捜しをしようという様子もない。
ミーアがやったこと、それは……彼の予想より遥かに最悪なことで……。
最悪なこと、すなわち、商人の理に……芯を通してしまったのだ。
帝国の叡智は、ただ、金を儲けることを正義とした理屈に、儲けた金をこう使うのが正しい、という芯を通してのけたのだ。
「わたくしの、好意と尊敬を買いなさい」
と堂々と、商人たちにもわかる理屈で語りかけ、それによって、金の「正しい」使い方を示してみせたのだ。
働きやすかったはずの場所が……今や大きく変えられようとしていた。
商人の理は、フワフワした、芯を持たず、流されやすいもの。だからこそ、ミーアの示した道は、商人たちにとって衝撃的であった。
それは、その蛇自身にすら、強い衝撃を残した。否、商人の理の本質を理解している彼だったからこそ、なおのこと、ミーアの言葉は衝撃的だった。
彼女の堂々とした、統治者としての答え、それは、完全な正論で、商人たちの心の飢えに、答えるものでもあった。
金儲けに傾倒した商人たちでさえ、その心には良心があるのだ。完全に心を殺し、金儲けに徹することなど、人にはできない。だから、大部分の商人たちは、その渇望から目を背け、できるだけ気にしないようにして、商売に勤しんでいた。
商人の理のど真ん中、そこには何もないのだということ……金を効率的に儲けたとして、それが世界にとってどのような意味を持ち、自分にとってどのような意味を持つのか……。その重要な部分が決定的に欠けているのだと、それに気付かぬふりをして。
大切なことから目を逸らし、ただ目の前の商売にのみ目を向ける。
ミーアの言葉は、まさに、その商人の渇望に応えるものだった。
――ああ、そうか……。これが、かの強欲なる大商人、シャローク・コーンローグをも手中に収めた帝国の叡智……。
彼は、思わず舌打ちしそうになる。
できるだけ目立たないように、息を潜めていたが、これ以上は黙っていられない。
商人組合の常識が、帝国の叡智によって書き換えられる前に、なんとか、場の空気を悪くするべく、隙を伺う。が……。
ふと、そこで、気付いてしまう。
――俺は、金儲けして、どうしようというんだ……?
既存の秩序を破壊し、その間隙をついて商売する。
莫大な金を儲け……その金で、秩序を破壊する?
それは否だった。彼は心から蛇ではない。ただの、積極的な協力者だ。蛇から利益を得られればこそ、その考えに同調するだけであって……行くところまで行く破壊には、興味がない。
ならば……それならば、その儲けた金でなにをする?
美味い物を食うか? 巨大な城でも買おうか? 宝石、美術品に囲まれてみるか? 美酒に酔い、美女に酔ってみようか……。
思いつく限りの富を手に入れた男、シャローク・コーンローグは、嬉々として、積極的にミーアに協力しているというのに……?
彼の心は揺れていた。商人の理に芯が通っていないように、彼の理にも芯は通っていなかったのだ。
「う……うう……」
彼の胸の内、蛇は静かに息を止める。
されど……肖像画と共に放たれた蛇は、すでに動き出していた。
混沌を求めて、次なる場所に、静かに音もなく……。