第九十三話 原点回帰を忘れずに
話は、少しだけ遡る。
それは、ミーアたちがセントバレーヌにやってくるしばらく前の出来事である。
ある男たちが、セントバレーヌの酒場で飲んでいた。
「いやぁ、助かりましたよ。来たばかりで、手持ちが心もとなかったのでねぇ」
一人は、騎馬王国の衣装を着崩した男……。
ニヤニヤと愛想よく笑う、その男は名を火燻狼という。
そうなのだ! ガヌドス港湾国を命からがら逃げ延びた彼は、ここ、セントバレーヌまでやってきていたのだ。
帝国に潜伏することは、あり得ない。いつ帝国の叡智の魔の手が伸びて来るかはわからないし、あのディオン・アライアの剣で肩ポンされるかわからない。
では、サンクランドはどうか? エシャールに手を出した以上、危険度が高いし、いつ帝国の叡智が気まぐれで現れるかわからない。却下。
では、ヴェールガ公国はどうか? それも否だ。セントノエル学園からひょっこり、渡ってやってくるかもしれない。騎馬王国に戻るわけにもいかないし、ツロギニア王国は帝国に近すぎる。
いくつかの選択肢を検討しつつ、ともかく、帝国の叡智から、できるだけ遠くへ! 遠くへ!! 遠くへ!!! っと考え、馬を飛ばした結果、こうしてセントバレーヌに流れついていたのだ。
正直なところ、これからどうするか決めかねていた彼であったが、ただ、一つ……。
「反省が、必要でしょうねぇ……」
それだけは心に誓っていた。
そう、自分には、絶対的な反省が必要なのだ。
そもそも……っと彼は考える。
「ここ最近は、どうもらしくないことをやっちまったからねぇ。あのカルテリアが下手に強かったから、どうも強引になっちまった……」
彼は謙虚に反省した。彼は反省できる男なのだ。
「やはり、ここは原点回帰。自分らしくをモットーに。一日一悪。それに、危険には絶対近づかない。罠を張るだけ張って、それが作動する時には、その場にいない。自分の手では絶対にやらない。これを絶対に守るようにするとしましょうか」
心に深く深く誓う燻狼である。
そんな燻狼だったが、セントバレーヌについてすぐに、土着の蛇と巡り会えたのは、幸運であった。
「この出会いを神に感謝……といったところでしょうかねぇ」
皮肉げな笑みを浮かべる彼に、対面の、商人の男がニヤリと笑みを返す。
「まさに、お取り計らいというものだろう。ここは、ありがたい神の港、セントバレーヌだからね」
愉快げに笑うと、二人は酒杯をかかげる。
「それでは、出会いを祝しつつ……互いに、有意義な情報交換といこうか……」
その言葉に、燻狼はピクンッと眉を上げた。
基本的に、蛇は群れない。
互いの素性を明かすこともなければ、心の内も、他人に教えることはない。相手が、たとえ同じ蛇であってもそれは変わらない。共闘することはあっても、彼らは仲間などではないのだ。
もちろん、互いの計画を邪魔しあうようなことをすることがないよう、必要とあれば、ある程度の情報を交換することはある。が、互いの破壊計画が、相互に影響し合った結果、さらなる混沌が生まれることもある。
燻狼は、それもまた一興、と、あまり情報共有を大切にしていなかった。
けれど……。
「聞いてくださいよ。実は……」
今は、情報共有したい気分だった。
誰かに愚痴りたい気分だったのだ!
それはもう、何度、やつに煮え湯を飲まされたことか……。
燻狼の半ば愚痴、半ば警告を聞いて、商人の男が眉をひそめた。
「へぇ、なるほど。噂に聞く帝国の叡智が、そこまで我ら蛇と敵対していたとはね」
「まったく忌々しいことですがね。大陸の平穏は、今となっては、あの小娘の肩にかかっていると言っても過言じゃないですね」
「なるほど。それほどまでに……。だが、逆にそれは利用できるのでは?」
商人の男に、燻狼は首を傾げた。
「ほう……というと?」
「わかるだろう。大きなものを、そのまま頬張るのは得策じゃない。割りやすいところから割って、互いに相争わせ、弱まったところを、さらに割り、相争わせて小さく砕くのが基本。では、この場合、割りやすいのはどこか?」
そう言って、商人はテーブルの上、つまみとして出された魚の切れ目にフォークを突き刺す。行儀悪く、魚の身をバラバラにしながらあ……。
「帝国の叡智の名が、大きくなればなるほど、あるいは、人々からの期待が大きくなればなるだけ、それは危険を孕んでいく……」
祈りをささげるように目を閉じ、魚をパクリ。美味しそうに頬張る。
そんな彼に、ううむっと唸った燻狼は、
「神格化ということですか。あるいは、偶像化、でしょうかね。中央正教会の権威と、それに保証された価値観……そこに、あの帝国の叡智を使って打撃を与えると……」
我が意を得たり、とばかりに頷き、商人は話し出す。
とある画家との出会い、そして……。
「ほほう。女神の肖像画、ですか」
燻狼ほどの者にもなれば、それがなにを意味するか、よくよく理解していて……。
「なぁるほど、なるほど。つまりは、帝国の叡智ミーアと中央正教会との関係性をこじれさせようとの魂胆なわけですねぇ」
腕組みして、納得の頷きを見せた後、燻狼は難しい顔をした。
「しかし、それはやめたほうがいいと思いますけど……」
さんざん、痛い目を見させられた彼は、経験として知っている。
帝国の叡智と正面切って、やり合うのは愚策。ちょっかいをかけて、あの災厄を呼び寄せるのもまた同じ。
彼は、しっかりと学習していた。
悪事を働くならば、お月さまの目の届かないところで、それも、なるべくあちらの関心を惹かないよう、こっそりと。自ら得た教訓を、目の前の男に教授しようとして……。
ふと、商人の顔を見て首を傾げた。
「というか、もうすでに?」
「うん? ああ。何枚か流してある。ヴェールガ本国のほうに流れるようにしておいた」」
「ヴェールガ本国、まぁ……そう、でしょうねぇ。ち、ちなみに、ですけど、きちんと、司教なり、中央正教会の目につくようには……」
「値段的には、貴族じゃないと手が出ないようにはなってるさ。そして、ヴェールガの貴族は、みな、教会との繋がりが深い」
あまりわかりやすく教会に届けたり、通報したりすれば、それは帝国の叡智を攻撃するための捏造と思われるだろう。それは、まぁ、わかる。
聖女ラフィーナはミーア姫の無二の親友と聞くし、きっとミーアをかばうだろう。
だからこそ、自分と関係の薄い商人に絵を売り、その者を通してヴェールガに流し、問題を大きくしよう、というのは……わからないではない。ないが……。
燻狼の脳裏に……いやぁな予感が芽生える。
通常の国であれば、商品は都に集まるもの。されど、ヴェールガ公国においては、そうではない。
この国の流行の最先端は、とある島に集まる。
各国の貴族の子女が集まる場所……そう、あの忌々しき……セントノエルに!
……翌日、燻狼は反省を生かすべく、とっととセントバレーヌを後にするのだった。