第八十九話 セントバレーヌの現状報告2
「ミーアさま、少しよろしいでしょうか」
ルードヴィッヒから発言の許可を求められ、ミーアは静かに頷いた。当然だ。知恵袋ルードヴィッヒの言葉を封じていいことなど、何一つないのだから。
――ふむ、ルードヴィッヒがどう見てるのか、興味がありますわね。それに、新しく運ばれてきたお茶菓子にも……。
テーブルの上には、新しいお茶と、先ほどとは違った焼き菓子が載っていた。
「失礼ながら、そういった不和は、時間をかけてゆっくりと解決していくものでは?」
ルードヴィッヒは怪訝そうな口調で言った。
「それこそ、ヴェールガ本国に対して訴え出るなり、他の司教を頼るなり、色々と方法はあるはず。そうした交渉事は、商人の方たちも得意なのでは?」
ヴェールガ公国がセントバレーヌを飛び地としたのは、あくまでも、この港を騒乱の種にしないため。そのために、周辺諸国に不公平感を与えるのは厳禁だ。それゆえ、本来、ヴェールガから派遣されたルシーナ司教は、そこまで強引なことができないはずなのだ。
ヴェールガ公国が利権を独占している、などと言われないために。
それに、そもそも実際的な力は、自警団を雇っている商人たちのほうがあるわけで……。
「正しい見識ですな。ルードヴィッヒ殿。さすが、あのバルタザル殿が評価しているだけはある」
ビオンデッティは感心した様子で頷き……。
「本来であれば、我々でなんとかするのが筋でしょうし、そういったことを我々が得意としているのも事実。なれど……ルシーナ司教はなかなかにやりづらい相手なのです。なにしろ、彼には、咎められるべき点が、なにもありませんので」
ゆっくりと首を振りつつ、老商人は言った。
「彼は正しいのです。言っていることは常に正論。否定のしようがない。孤児のこともそうですが、それ以外も、彼には、道徳的に否定されるところがないのです。ゆえに、ヴェールガ本国としても、やりづらいらしく……」
商人組合が求めるのは、政治的な配慮だ。対して、ルシーナ司教がよって立つのは、神聖典によって確立された道徳的な正しさだ。
そして、ヴェールガ公国が、神を王として頂く国である以上、どちらが優先されるかは明白だった。
「なるほど。ヴェールガとしては、せいぜい、配慮を求める旨をルシーナ司教に伝えるぐらいで、本質的な解決にはなり得ない、と……」
「はい。それに……むしろ、こちらのほうが理由としては大きいのですが、いささか、周辺国に気になる動きがございましてな……」
「はて、周辺国……?」
首を傾げるミーアに、視線を送ってから、ビオンデッティは言った。
「ミラナダ王国の貴族たちに、良からぬことを企んでいる者がいると……そのような情報があるのです」
「ミラナダ王国……」
何度か耳にしたことのある国の名だった。
例の、タチアナをイジメていた貴族の子弟たちが、確か、その国の貴族だったはず……。
「ああ、というか、そもそも、シャロークさんって、その国のご出身だったのではなかったかしら」
「ええ。大商人シャローク・コーンローグはミラナダ王国のご出身です。そして、ミラナダは、このセントバレーヌの利権を争って、過去に幾度も紛争を起こした国の一つです。実際に、セントバレーヌを手中に収め、その莫大な富を独占していた時代もあったと言われています」
その繁栄の時代があったがゆえに、シャローク・コーンローグの人気は高い。
過去の自国の繁栄を思い出させる男、シャロークは、紛れもなく民の英雄だった。
「そのミラナダ王国に不穏な動きがある……と?」
「はい。シャローク殿は、癖の強い方ではありますが、その剛腕ぶりは、商人たちの守りでもあったのです。彼の存在が、周辺地域の王侯貴族たちから、商人たちが侮られぬように盾となっていたのです。されど……」
チラリ、とミーアのほうに視線を向けて、ビオンデッティは続ける。
「だからこそ、ここしばらくの彼の変節ぶりは、さまざまなところに影響を及ぼした」
「なるほど。わたくしの協力者としていろいろと動いてもらっていることが、セントバレーヌにおける彼の存在感を薄れさせて、ミラナダ王国の貴族たちが、これを機になにかしようとしている……と?」
ミーアの問いかけに、老商人は苦笑いを浮かべ。
「あくまでも、その可能性がある……といったところでしょうか。もちろん、ミラナダ王国がヴェールガと敵対してまで、セントバレーヌに手を伸ばすことはあり得ないとは思うのですが……。かの国に、軽はずみな行動をさせないためにも、ルシーナ司教と商人組合の協力関係をしっかりと見せておかなければならない、と考えているのです」
今は、独立都市セントバレーヌが一丸とならなければいけない時……少なくとも、外部にはそう見せなければならない時だ、と、ビオンデッティは訴えていた。
「実のところ、レムノ王国のポッタッキアーリ侯にもお力を借りられればと思ったのですが、上手く行きませんでな……」
セントバレーヌの安定の要因は、主に二つある。
一つは、ヴェールガ公国の飛び地という立ち位置。もう一つは、周辺国の軍事的拮抗だ。
すなわち、セントバレーヌは、ヴェールガに反し、なおかつ他国と戦争してまで維持するべき土地か、ということ。あるいは、それが可能か、ということだ。
ヴェールガに反した時点で、自国は正当性を喪失している。逆に他国には恰好の攻撃材料を与えることにもなる。
セントバレーヌに別邸を置くポッタッキアーリ侯に近づこうとしたのは、レムノ王国の武力を背景に、ミラナダ王国を牽制する狙いであった。
さて……話を静かに聞いていたミーアは、そっとルードヴィッヒのほうに目を向ける。っと、その視線を受けたルードヴィッヒが、小さく頷くのを見て……。
――ふむ、どうやら……ビオンデッティ商会長の言葉には聞くべきところがあるようですわね。
ルードヴィッヒのお墨付きがあるな、間違いなかろう、とばかりに頷き返して……。
「ええ、そうですわね。わたくしにできることがあるかはわかりませんけど……ラフィーナさまに相談すれば、なにかできることもあるかと思いますわ」
とりあえず、ルシーナ司教への執り成しを了承しておく。さらに……。
「ところで、実は、わたくしのほうで、もう一つお聞きしたいことがございますの。お知恵をお貸し願えるかしら?」
小さく首を傾げつつ、ミーアは言うのだった。