第八十五話 好意と敬意を買いなさい
「大きなケーキは……一人では食べきれないもの……ではないかしら?」
お城のように大きなケーキが目の前に出されたら嬉しい。全部、一人で食べたら、きっとものすごく幸せな気分になるだろうという確信が、ミーアの中にはある。
されど、それは、現実には不可能なのだ。お城のケーキは一人では食べられない。
「……は?」
唐突な言葉に、老商人は目を瞬かせた。他の者たちも目を丸くして、なにを言い出すんだ? という顔をしている。
「仮に、お城のように大きなケーキがあったとして……一人では食べきれはしない。独り占めしようとしても、腐ってしまうだけ。そうではないかしら?」
「はぁ、まぁ、それはそうでしょうが……」
「ですから、わたくし、思いますの。それならば、みなでわけて、楽しく食べてしまえばいいのではないか、って」
ミーアは、そこでニッコリ笑みを浮かべる。
「無論、イチゴは……一番美味しいところはきっちりと、わたくしがいただきますわ。けれど……食べきれないケーキを抱え込むことに意味などない」
「つまり……儲け話も同じである、と?」
ビオンデッティのつぶやき。それに小さく頷き……、ミーア、内心でグッと拳を握る。
――ふふふ、我ながら、なかなかに良い喩えですわ。ケーキの魅力は人類普遍のもの。伝わらないはずがありませんわ。
なぁんて、思っていると……。
「しかし、金は腐りませんが……」
冷静なツッコミがどこかから入る。余計なこと言いやがったのは誰かなぁ……? などと声のほうにチラリと目を向けてから、ミーアは、問う。
「あら、本当にそうかしら……?」
一度、間を置き、紅茶を一口。口を湿らせてから、再度、ミーアは問う。
「抱え込んだ宝は、本当に腐らないものかしら?」
穏やかで、静かな問い。されど、ミーアの言葉に、その場は沈黙に包まれる。
「なるほど、確かに食べもののように簡単に腐りはしないかもしれない。けれど、油断すれば盗まれ、時を経れば、財宝であっても錆びて朽ちていく。そうならぬように心を砕いて、心配しながら日々を生きる……それは、はたして幸せと呼べるのかしら?」
自分一人で食べようと大切に採っておいたケーキ。腐らないか、と心配し、アリやネズミに食べられないかと心配して、時間を過ごす。
それは実に不毛なこと。それならば、みなで食べて、楽しい思い出にしてしまったほうがいい。
それは、あの日、実現した奇跡の光景。
ミーアの放蕩祭りで、ミーアが実現したことだった。
「なるほど、あなたたちが心の中で神の裁きがないと嗤うのは、ご自由になさればよいと思いますわ。されど、もし仮に、神の裁きがなかったとしても、あなたたちの持つ商人の理が、あなたたち自身を裁くことになるのではないかしら?」
「商人の理が……? それは……どういう意味でしょうかな?」
「簡単なことですわ。使わずに、財宝を眠らせておいて、盗まれでもしたら、商人の理があなたたちを許さないということですわ。自分自身の愚かさに、あなたたちは自らを責めるでしょう。そして……人々もまた、あなたたちを裁くのではないかと思いますわ」
ミーアはきちんと付け加えておく。
他者を省みない横暴さ、踏みつけにしてまで自身の欲望を優先させることは、断頭台への道を整えることに繋がるのだ。
ゆえに……神の裁きが、もしもなかったとしても、民の裁きはあるのだよ、ときっちり教えておいてやるのだ。ミーアは優しいので、きちんと注意してやるのだ。
「ゆえに、わたくしはあえて言いますわ。小麦一袋を城の値段で売るような、自らの分を超えたやり方で、なりふり構わず財を蓄えたところで、どうせ使い切れやしませんわ。あるいは、自分で釣り上げた小麦粉に、自分自身で無駄金を支払う、そんな羽目に陥りますわ。人は自ら蒔いた種は、自分で刈り取らねばならぬもの。商人の理で他人を裁いた者は、自分自身をもその理によって裁かれることになる」
そっと目を閉じ、胸に手を当てて、ミーアは続ける。
「そして、そこには慈悲も良心もない。商人の理がそれらのものを否定し、あなたたち自身も否定するのなら……自分が受ける時だけ慈悲を得ようというのは公平ではありませんもの。自分にだけ、良心をもって接してくれなどと……それは、子どものわがままというものではないかしら?」
その言葉は、厳かに……確かな威厳をもって会議場内に響いた。
……響いてしまった。
ミーア姫の、その言葉は実に奇妙なものだった。
誰からも咎められる必要もなく、裁かれることもないはずの帝国の姫君。そんな彼女の言葉には、されど、確かな重みと説得力とがあった。
なるほど、確かに、慈悲を示さぬ者に、慈悲を与える者はない。
他人の利益を削り、自己の利益のみを追求する者に、好意を持つ者などいるはずもない。
商人の理、金儲けのみを追求した者は、その理によって裁かれる。それこそが、公平だ、と……。
そのミーアの言葉は奇妙な重みをもって、商人たちの胸に迫った。
また、ベテランの商人たちの幾人かは、実感として知っていることもあった。
貯め込んだ金は、使わずにおけば、確かに腐るのだ。金は使ってこそ意味があるもの。
……では、その金を何に使うのが正解なのだろうか?
莫大な……それこそ、城を買えるほどの金を得て……それを何に使うのか?
当然、商人であれば、次なる金儲けに使うに決まっている。そうして、さらに莫大な金を得て……徐々に徐々に量を増やしていく金貨。高さを増していく黄金の山、山。
そして、いつしか、その高さを増やすことこそが目的になっていく。
金は使わなければ意味がない、と、知っていたはずなのに……。金を増やすために金を増やすという、矛盾に陥っていく……。
それは、もしかすると、不毛なことなのではないか……。
商人たちの脳裏に一人の男の姿が思い浮かぶ。
シャローク・コーンローグ。
あらゆる商人の憧れ。最も金を持ち、商売に長けた、商人の王。
商人の理に照らし出せば、圧倒的な成功者になるはずの……あの男は、目の前のミーア姫に協力しているという。
もしかすると、あの男は……自らの莫大な富の使いどころを、見つけたのではないだろうか?
その金を何に使うことが、意義あることなのか……答えを見つけたのではないだろうか……?
商人たちがそんな想いに囚われかけた時、まさにそのタイミングで、ミーアの声が響く。
「こういう言い方が、正しいのかどうかは、わかりませんけれど……純粋に、なりふり構わず商人の理に従った結果、得られるはずだった莫大なお金……そのお金を使って、人々の好意と敬意を買うことをお勧めしますわ」
続くミーアの言葉に、商人たちは目を上げる。
「わたくしは、なにも、あなたたちに金儲けをするな、とは言っておりませんわ。ケーキのイチゴは食べたいもの。読み聞かせと食べ物の栞によって、旨味を得ればいい。商売をすればいい。そして、新たな小麦とその食べ方を教えることで、人々の好意と敬意を得ればいい。商人の理を半分、それ以外を半分……。そのようにご協力いただきたい、と、わたくしのお願いはそのようなものですわ。あるいは……」
っと、そこで、ミーアはニヤリと笑みを浮かべて……。
「民草の好意と敬意とで不足があるというのなら、このわたくし……帝国皇女ミーア・ルーナ・ティアムーンの好意と敬意を買いなさい。まぁ、もっとも、そこに価値を見出すか否かは、あなたたち次第ですけれど……」
そうして、話したいことを終えたのか、ミーアは、澄まし顔で紅茶のカップを手に取った。