第八十一話 商人たちの期待
港湾都市セントバレーヌの商人組合。それは、ただの商人の寄り合い所ではない。
それは、聖なる黄金の港とも呼ばれる、この港湾都市の政を司る権力の中枢であった。
商人が金を出しあって建てた市庁舎は、会議場と行政府としての機能を兼ねており、数多くの者たちが日夜出入りする場所であった。
その会議室には、すでに三十人近い商人が集まっていた。
「おお、すごいな。急なことだったのに、よくこれだけ集まったもんだ」
部屋に入って早々に、年若い商人が言った。それに答えたのは年配の商人だった。
「そりゃあそうさ。なんと言ったって、フォークロード商会とシャロークの旦那があれだけ評価する御仁だ。お近づきになれるものなら、そうしたいってやつぁ山ほどいるさ」
「違いない。ところで、そのミーア姫殿下のお気に入りの、フォークロード商会の大将とシャロークの旦那は来てんのかい?」
「旦那はお休みだそうだ。ガヌドスで新しい商売の予感がするとかなんとかでな。マルコ殿は、ほら、あそこに」
指さした先には、フォークロード商会の長、マルコが、周囲からの視線に素知らぬ顔で、髭をいじっていた。
「まぁ、正直なところ別に新しい商売に繋がらなくっても構わないんだが……セントバレーヌでは今まで通り平和に商売を続けたいものだな」
「違いないな。帝国のミーア姫殿下といえば、聖女ラフィーナさまの無二の友と聞く。あるいは、なにか、ラフィーナさまのご意向を受けてのことかもしれないな」
実のところ……彼らには密かな期待があった。
公然の秘密となっていることではあるのだが、商人組合とルシーナ司教との間には、ここ数年、微妙な緊張があるのだ。それが、少しでも解消されてくれれば、と……。期待するものは少なくない。
もともと、ここ、セントバレーヌは、いささか配慮が必要な土地であった。
彼らは、金を価値基準とする商人だ。儲かるか、儲からないかが、彼らの絶対の物差しであるし、その基本は変わらないのだが……同時に、彼らはもう一つの理に強く縛られていた。
すなわち、中央正教会の理、神聖典の理である。そして、商人たちの理と中央正教会の理とは、しばしば、整合性が取れなくなることがあるのだ。
例えばの話……、商人たちは、なんの儲けにもならぬ「慈善」が嫌いだ。それは無能者が働き者から金を恵んでもらう方便に過ぎない、と見做す者さえいた。
そんなことに使う金があるならば、事業を拡大し、より大きな利益を得るべきではないか? と。船の一隻、二隻でも増やせれば、より多くの者に働き口を提供できるではないか……などと声高に言う者もいた。
だから、彼らがなぜ、孤児院に寄付するのかといえば、ヴェールガ公国の護りを失わないためである。
さらに寄付だけではない。賃金においても、特別な配慮が求められた。
この都市では最も身分が低く、商才に欠けるとされる、積み荷の上げ下ろしをする者たち、その日雇いの男たちにさえ、それなりの賃金が支払われるよう、配慮しなければならない。
「汝、彼らを奴隷と考えるなかれ。人は人として正当に扱え」
そのような神聖典の教えを斟酌し、中央正教会との関係を重んじたうえで、商人組合が決めた事ではあるのだが……。
「半分にしろとは言わないが、もう少し減らせれば、その分を商売に充てられるんだがなぁ」
そうボヤいたことがある者は、一人、二人ではなかった。
けれど、それらの不満もまた、ヴェールガ公国の、中央正教会の庇護と比べてしまえば、簡単に飲み下せるものだった。
小国同士の戦乱に巻き込まれ、幾度となく商売が頓挫した過去の歴史に鑑みれば、今のなんと恵まれたことか……。
これを失うことは愚かしさの極みであることは、すべての商人の共通認識といえた。
だからこそ、商人組合と派遣司教との関係は、若干の駆け引きや、互いの腹の内を探り合いつつも、表向きは常に平穏を保っていたのだが……。
「どうも、最近、司教との関係が上手く行っていないらしい……」
そんな噂話が、流れ出したのは、いつ頃からだっただろうか。
その手の噂は、派遣司教の交代に伴って、よく囁かれるものであった。
次に赴任する司教は、たいへん厳格で、厳しい人だ、とか、反対に、あの司教は一定の“特別な”献金さえ納めていれば、なにも文句は言わないだとか。
その手の噂話には事欠かないし、たいていが誇張されているものなのだが……。
「どうも、今度の噂話は本当らしくてな。ルシーナ司教と組合長たちが、上手く行っていないらしい」
そんな噂がまことしやかに聞こえてきていた。
なんでも、ルシーナ司教という人は賄賂を渡しても、それを教会への献金として受け取るとか、孤児院への寄付として受け取るとか……。
建前として言った言葉を、そのまま杓子定規に受け取って、そのように処理しているらしい。かといって、賄賂です、と言って渡すわけにもいかない。彼は高潔な人として名の知られた男だったからだ。
「どうも掴みどころのない人だが……噂では、我らに対する縛りを強めるお考えだとか」
「それは、また……。ミーア姫殿下が、我らと司教殿との間を取り持ってくださるなら助かるな」
「いやいや、いっそのこと、我らの後ろ盾になってくれるなら……もっと商売がやりやすくなるかもしれんな」
善意という枠組みを取り払い、完全に自由な商売がしたい。
一切の配慮なく、ただ、金を儲けることのみが正義の……そのような商売ができるのではないか? と。
そのような欲望は、常に彼らの心の中に存在していた。
されど、彼らは知らないのだ。
枠組みという名の秩序を取り去った後の自由。何物にも……善意や良心にすら縛られぬ自由というのは、他愛なく混沌へと堕ち得るものである、と。
その時、商人たちのざわめきを切り裂いて、扉が開け放たれる音が響いた。