第七十二話 最悪とはなにか?
それから、ミーアたちは教会の中を見て回った。
最初は、敵対的な態度を取られるか? などと思っていたが、そんなこともなく……和やかな雰囲気の中で回ることができた。
――これは、やはり、最初にお仕事を褒めたからかしら? ふふふ、さすがはアンヌですわ。
恋愛大軍師こと、腹心アンヌの識見の正しさを、改めて実感するミーアである。
教会堂の中はとても広かった。なかなかに見甲斐があり、じっくり歩き回った結果、ミーアのお腹の具合もすっかり整ってきていた。軽くお腹をさすり、自らの胃と語らい合ってから、ミーアは、うんうん、っと満足げに頷いた。今ならば、大海の幸を食べ尽くすことはできずとも、ノエリージュ湖の幸ぐらいならば平らげることができそうだ。
「ルシーナ司教、案内に感謝いたします。とても良い教会であることが、よくわかりましたわ」
ミーアの言葉に、特に感想を返さず、ただ、穏やかな顔で頷いて、
「では、そろそろ、屋敷へとご案内いたします」
と、その時だった。
「それでは、ミーアさま、私は、このあたりで」
そっとクロエが寄ってきて言った。
「ああ、そうですわね。ふふふ、今日は親子水入らずですわね。お父さまによろしくお伝えくださいませ。明日から、商人の方たちへの顔繋ぎ、よろしくお願いいたしますわね」
ミーアの言葉に、クロエは小さくはにかんで、
「はい。わかりました」
それから小走りに出て行った。
「ミーア姫殿下、あのお嬢さんは……」
「ああ。彼女は、クロエ・フォークロードといいまして、フォークロード商会のご令嬢ですわ。彼女のお父さまには、我が帝国も大変お世話になっておりますの」
ミーアの言葉を聞いて、ルシーナ司教は納得の頷きを見せる。
「なるほど。あれが、フォークロード卿の……」
「あら、ご存知ですの?」
「もちろんです。セントバレーヌは商人の街。フォークロード卿も、その中のお一人ですから」
そう頷いたルシーナ司教であったが……その顔に、ミーアは、かすかに苦み走ったものを感じ取った。
――あら……。今の顔は……。ルシーナ司教とこの街の商人たちは……もしや、あまり上手くいっていないのではないかしら……? あるいは、関係自体は上手く行っていても、ルシーナ司教は商人たちを快く思っていないか……ん?
と、その時だった。不意に、いやぁな想像がミーアの脳裏を過った。
それは、例の肖像画を撒いた者たちの思惑についてだ。
馬車の中、ルードヴィッヒは推測を語った。
「あの肖像画は、民衆の不安感の産物ではないでしょうか?」
と。
ミーアも概ね、その見解には賛成だった。
民は目に見えるものに頼りたくなるもの。食料を背負ってやってくるミーアの旗印に頼りたくなるのは、わからなくもない心理だ。
あるいは、口から出まかせで言ったものの、蛇が悪意のもとにやったということも考えられる。ミーアとヴェールガ公国の間をこじれさせるために撒いたもの、というのは、十分な説得力がありそうだった。
その場合は、厄介だが潜む蛇を炙り出す必要があるだろう。
しかし……だ。それならば、まだ、最悪とは言い難いのではないか、と、ミーアはそれ以上に最悪な可能性を、この瞬間に思いついてしまった。
すなわち、あれが「意図的にミーアの権勢を高めるため」に撒かれたものであった場合である。
それこそ、ヴェールガ国内では比較的、影が薄いミーアの存在を人々に知らしめるために、誰かが撒いたのだとしたら、どうなるだろうか。
――そうですわね。わたくしを錦の御旗として勢力を糾合し……ルシーナ司教に対抗するためにやった、商人たちの仕業とかだったらどうかしら?
セントバレーヌはヴェールガの飛び地ではあるものの、その支配はこの地の商人たちに委ねられている。派遣司教であるルシーナ司教には、実質的な権限はほとんどないはずで……というのは、あくまでも建前だろう。
実際にはルシーナ司教がその気になれば、商人たちに対する掣肘を強めることもあるかもしれない。
もし、両者の関係が悪化したとしたら……そして、ルシーナ司教への牽制のために商人たちが、ミーアの力を使おうとしているのだとしたら……。
――いえ、あるいは、もっと単純に、わたくしの味方であるフォークロード商会や、シャロークさんの商会の誰かがやったことだったら……。
それこそ最悪の事態だ。あの女神肖像画がミーアの命令で作られたものだと言われかねない。
「どうかなさいましたか? ミーア姫殿下」
怪訝そうな顔で聞いてきたルシーナ司教に、ミーアは、朗らかな笑みを浮かべる。
「おほほ、いいえ、なんでもありませんわ。それよりも、行きましょう」
ともかく、調べる必要がある。
可能性だけならば、なんだって考えられるのだ。不安は、放っておくと育つ雑草のようなもの。そして、その雑草は、せっかく蒔いた種を枯らす厄介な代物なのだ。
――明日、クロエにお願いして、商人たちに事情を聴かなければ……。
心の中で決めつつも、ミーアは教会を後にした。