第七十一話 私の知らないこと……
巫女姫ヴァレンティナの部屋を見回してから、慧馬は、ふぅん、っと鼻を鳴らした。
「なるほど。咎人とはいえ、一国の王女ともなれば、待遇が違うのだな」
勧められるままに椅子に座り、ヴァレンティナのほうを見れば……相も変らぬ嫣然たる笑みで見つめ返してくる。その妖しくも、どこか魅力的な笑みに、慧馬はグッと息が詰まるような思いがした。
「ふふふ、そうね。食べるのにも苦労はしていないし、お茶も用意してもらえるから、快適に過ごしているわ。火の一族のところにいた時と、まぁ、あまり変わらないのではないかしら」
「むしろ、我が一族の村より、良いものを食べられていそうだがな……」
「あら? 火の一族のお食事も、私は好きだったのだけど……どうぞ」
そう言って、ヴァレンティナは、手ずから紅茶を注いだ。
慧馬はそのカップを手に取り、香りを楽しんでから、両手でカップを持った。そのまま、一口すすり、ほう、っとため息を吐く。
それから、ドヤァッという顔でヴァレンティナを見る。っと……。
「ふふふ、慧馬さん、素敵なお茶の飲み方ね」
「そうだろう? ティアムーン帝国のお茶会で鍛えたマナーだ」
「ああ……、そう。帝国で……」
くすくす、と馬鹿にするように、ヴァレンティナが笑っていた。
「なんだ? なにがおかしい?」
「いえ……。ミーア姫は、どうやら、あなたはマナーなんか知らない蛮族だと思っているみたいね」
「どういう意味だ?」
眉を潜める慧馬に、ヴァレンティナは言う。
「紅茶のカップを両手で持ってはいけないのよ。正式なマナーではね。それは、紅茶が冷えていると相手に苦情を言うのと同じことだから」
優雅に、自らのカップを持ち上げて、その中の紅茶の色を眺めながら、ヴァレンティナは続ける。
「もしも、あなたにそれを教えてくれなかったのなら、教えても意味のない蛮族だと、あなたのことを思っていたのではないかしら? 馬に乗るしか能のない野蛮な人だと……なにかしら?」
そこまで言ったところで、ヴァレンティナは眉を潜めた。慧馬が……余裕の表情で笑っていたから。
「ふっ、いや……なるほど。やはり、切れ味が鈍っているようだな」
慧馬は片手でカップを持ち、そっと一口。それから、
「もしも、ミーア姫が、我にそれを教えなかったのだとしたら、きっと気を使わせぬように、お茶を楽しめるように、と、そう考えたからだろう。あるいは、自由に楽しめばいい、と思ったのだろうな。飲み方など騎馬王国の飲み方でも構わない、と。あの楽しいお茶会を思い出せば、マナーをどうこう言うのは、無粋だろうからな」
慧馬は、ドヤァッと胸を張り、言うのだった。
ちなみに……この推測はどちらも外れである。
ミーアは純粋に、お茶菓子を楽しみたい人。ゆえに……他人のマナーなどは、あまり気にならないのだ! マナーなどより大切なものがこの世にはあるのだ! と主張したいミーアなのである。ケーキとか、クッキーとかそういったものが……。
まぁ、それでも、どちらかというと、慧馬の発想のほうが近いので、自称一番の友の面目躍如といったところだろうか。
「そういえば、先ほど、ゲイン・レムノとすれ違ったが……。なにを吹き込んだのだ?」
「ああ。会ったのね。別に大したことではないわ」
ヴァレンティナは、くすくすと笑って。
「ただ、私の暗殺に関わった貴族について、少し調べてもらおうと思って……」
まさか答えが返ってくるとは思っていなかったので、慧馬は思わず、目を瞬かせた。
「……そうやって、踊らせる、ということか?」
ジロリ、と見つめる慧馬に、ヴァレンティナは笑みを浮かべる。
「そう言われてしまうのは、とても心外ね。別に、騙したわけではないのよ?」
紅茶のカップに口をつけながら、優雅に続ける。
「本当に、疑いのある貴族のことを教えただけだもの」
「しかし、下手人のことはずいぶん前から、知っていたことでは?」
それは、火の一族の里に、ヴァレンティナがやってきて、すぐのことだった。
「我が兄が、とっくに調べていたと思ったが……今さらなぜ……?」
ヴァレンティナは、自分の暗殺を画策した貴族たちがわかっても殺したりはしなかった。それどころか、その真偽を確かめようともしなかった。
自身の命など些細なことである、と言わんばかりに、完全に放置していたのだ。
「そうね。私の命など、さして気にするようなものでもない。それに、詳しく調べるまでもないでしょう。犯人は察しがついている。レムノ国王、私の父が犯人でしょうし、それだけわかっていれば、王の手足となって働いたのが誰か、なんて気にしても仕方ないと思っていたわ」
「ならば、なぜ……」
重ねて問えば、ヴァレンティナは嫣然とした笑みを浮かべて、朗らかに答える。
「だって、知りたがっていたから。あの子が……」
「知りたがっていた……?」
「そう。私は、ただ、その気持ちに寄り添うように言葉を重ねただけ」
歌うように優雅に、煽るように憎らしげに。
「はたして、あの子が、自分の父が姉殺しを画策したと知ったら……どうなるかしらね」
それを見て、慧馬は、眉を潜める。
「やはり、あまり好かぬな。そういう企みは……。兄上は、それを許容するのか?」
「あら、馬駆が私に文句を言うことなんかないわ。ふふふ、とても優しい人なのだから」
慧馬は、不機嫌そうな顔で一息に紅茶を飲むと、席を立った。
部屋を出て行く妹を見送ってから、馬駆はヴァレンティナに目をやった。
「慧馬とのお茶会は、気に入らなかったか?」
「……なんのことかしら?」
「慧馬は鋭いところがあるから、色々と見透かされるような感じがする……だから、わざと怒らせて帰らせた……。我にはそう見えたが……」
「あら……あなたは、地を這うモノの書には興味がないのではなかったかしら? そんなふうに、他人の心を読むなんて、あなたらしくないでしょう?」
「相手の心を読むのは、地を這うモノの書の特権というわけではない。一流の戦士は相手の心を読みながら剣を交えるもの。レムノの剣聖から、そう教わらなかったか?」
ヴァレンティナは、わざとらしく首を傾げて……。
「さぁ、どうだったかしら……。もう、遠い昔のことだから、忘れてしまったわ」
遠くを見つめるヴァレンティナ。その顔をじっと見つめながら、馬駆は続ける。
「我が妹は単純だ。心を操るのもさぞや簡単だっただろうが……お前の弟のほうはどうかな?」
「あはは、ゲインも単純よ。操ることだって造作も無いこと……」
「戯れに操っただけ……。相手の心に重ねて、言葉をかけただけ、か。本当にそうなのか?」
踏み込んでくるような問いかけに、ヴァレンティナは一瞬だけ黙ってから……。
「ゲインが知りたがっていたのは、本当のこと。だけど、それは、弟だけじゃない。私もよ」
紅茶のカップを指でもてあそびながら、ヴァレンティナは言う。
「どうやら、この世界には、私の知らないことがたくさんあるらしい。だからこそ、それを知ることも、悪くはないでしょう」
それから、ヴァレンティナは新しく紅茶を注ぐ。そのカップを両手で包み込むようにして持ち……。
「なるほど……。こうやって、手に温もりを感じながら飲むと……こんな味になるのね……。そんなこと、地を這うモノの書にも、王室のマナーの本にも書いてなかったわ……」
まるで、無垢な少女のような笑みを浮かべるのであった。