第六十九話 善き王もまた人なり
「なぜですか、王よ。なぜ、そのような……」
声を張り、訴える。
「困窮する民がいるのです。それなのに、なぜ、そのようなことを……」
あなたは、そんな人ではなかった……と声を限りに訴える。
「ヴェールガ本国からの支援は必ず届く。どうか、王室が保有している食料を……」
その声を、必死の訴えを、王や家臣たちは淡々と退ける。
昨日まで、善人であったはずの彼ら……弱き者に目を留め、憐み、手を差し伸べていた彼らが……まるで、恐ろしい邪神の使徒のように冷淡に……。
「マルティン……あなた……」
ゆさゆさ、と体を揺すられる感覚。
ハッと目を開ける、っと、そこは、見慣れた館の寝室だった。
自らを心配そうに見つめる妻の顔。その頬にそっと手を伸ばしかけ……けれど、その手を引いて……。彼、マルティン・ボーカウ・ルシーナ司教は小さく息を吐いた。
「ああ……これは恥ずかしいところを見せてしまったな」
「別にいいんじゃありませんか。妻に甘えたとしても……。夫婦は互いの不足を補い合うものでしょうに」
優しく……慈しむような妻の言葉……けれど、マルティンは、小さく笑みを返しただけだった。子の胸の痛みは自分だけのもの。妻にまで背負わせようとは思わなかったから。
「ただの夢でこれほど取り乱すのは、やはり情けないことだ。もっと精進しなければ……」
「例の……ツロギニア王国での、ことですか?」
その言葉に、一瞬だけ、体が固まる。
ツロギニア王国……それは、若き日に、マルティンが初めて派遣された国の名だ。
ヴェールガ南方に位置するその国は、公国とも中央正教会とも友好的な関係を築く、歴史のある国だった。
先代王は人徳の人として名高い人であったし、その子である現国王も、概ね評判がよく、中央正教会でも評価の高い人物であった。頑迷で聞き分けのない人物ではなく悪辣でもなく……それゆえに、若い司教にとっては、仕事がしやすい環境といえた。
ルシーナ家は、ヴェールガの名門。それゆえに気を使われたなどと思わなくもなかったが、それでもマルティンは誠実に職務をこなしていった。国の重鎮たちと協力し、民に仕えていった。
充実した日々だった。実り多き日々、神の祝福に溢れた日々であった。
あの、飢饉が起きる時までは……。
「話しては、いただけないのですか? あなたの心の内……抱えているお気持ちを……」
妻の言葉に、マルティンはゆっくりと首を振る。
「話したところで大して意味のあることでもない。そう大したことでもない。いわば……そう、ありふれたことなんだ」
たぶんどこの国でも、多かれ少なかれ起きていること……。
ただ、国王が、庇護すべき民を見捨て、自己の保身に走ったというだけのこと。それで、民が命を落としたという……ただ、それだけの他愛のないこと。
「そして、だからこそ……救いがたい」
彼が、あの国で得た教訓は、ただ一つのことであった。
それは本当にありふれたことで……すなわち、善き人であっても裏切るということ。
善き王であったとしても、簡単に、何の躊躇いもなく裏切るということだった。
マルティンを……ではない。
神を……倫理を、正義を、人の道を……、あまりにも容易く、王は裏切ったのだ。
いかに、神の前に膝を屈めるポーズをとったとしても……いかに、その行いが善意に満ちたものであったとしても、それが徹底されるとは限らない。
彼らは容易に裏切るのだ。
元からそうであったなら……まだ救いはあるかもしれない。善人の仮面を被った悪人であったなら、それは、ただの、憎むべき悪だからだ。
されど……マルティンは知っている。彼らは悪ではない。
彼らは人間だ。
彼らは本当に善人で、思いやりがあり、称賛されるべき美徳の持ち主で……それをあまりにも簡単に覆す。変わってしまうのだ……。
どれだけ優れた王であっても、貴族であっても……環境を問わずに善の判断を下し続けることは難しい。
されど、彼らは人の上に立つ者であるがゆえに、その堕落は、下々の民の大いなる苦しみとなる。
ゆえにこそ……。
「そういえば、レアとリオネルが、帰ってくるんでしたわね」
その言葉で、マルティンは我に返った。
「そう、順調にいけば、数日中には着くだろう」
「あまり……あの子を叱らないでくださいね」
「叱る……なんのことかな?」
一瞬、本気でわからずに首を傾げてしまうが……。
「セントノエルの生徒会長のこと。リオネルは、あなたの期待に応えられなかったし、レアは、あなたの思惑とは違ったことをしましたから」
「ああ……」
それを聞き、マルティンは、小さく笑って首を振った。
「選挙は神意の表れ。私がとやかく言うものではない。それに、あれはあれで、別に良かったんだ」
リオネルがなっていれば、一番良かった。だが、別にレアならば、それでも構わないのだ。
「レアが生徒会長になれたのは、おそらく、帝国の叡智ミーア・ルーナ・ティアムーンの意思が働いた結果だろうが……。そして、レアのほうが御しやすしと考えてのことなのだろうが、この際は関係ない」
そう、問題ではないのだ。なぜなら、
「セントノエル学園の生徒会長にヴェールガの人間が就くということ、それこそが重要なことなのだから」
他国の人間では駄目だ。神の治める国、ヴェールガ公国が、それをしなければならないのだ。神の法を順守する司教の子が、ならなければならなかったから。
帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーン。彼女がいかに優秀であろうと、いかに正しかろうと……いつかは裏切るかもしれない。状況次第では、彼女も簡単に変わってしまうだろう。人間とは……そういうものだ。
だからこそ、いずれ裁きの時が来る、という事実を常に忘れぬ者が……己が行いを裁く絶対的な存在がいると、揺るぎなく信じた者が上に立ち、治めていく必要があるのだ。
そうでなければ、犠牲になる者が、無為になる魂が、あまりにも多すぎるから。
「しかし……この時期に現れるとは、やはり、帝国の叡智の異名は伊達ではないということか」
つぶやくようにそう言って、マルティンは体を起こした。