第六十三話 慧馬、叡智を語る
さて、ミーアたちが怪しげな肖像画に右往左往していた頃のこと……。
火慧馬は、セントノエル島を離れていた。
騎馬王国の族長会議に顔を出し、レッドムーン家の乗り手と腕を競い合ったことを報告(大いに盛り上がった!)、帝国から乗馬術を学びに来ているヒルデブラントの様子を聞いて(騎馬王国の民とすっかり馴染んでいた!)から、再びヴェールガ公国へ。
ヴェールガの使者に連れられて向かったのは、巫女姫ヴァレンティナの幽閉された場所だった。
「羽透、賊はいないか……?」
念のために、と相棒に頼む。と、従者たる戦狼、羽透は、顔を上向け、くんくん、と鼻を動かした。それから、ぶーふっと鼻を鳴らし、慧馬の足元に顔を摺り寄せてきた。
「そうか。問題なし、か……」
つぶやきつつも、決して警戒を緩めることのない慧馬。
なぜなら、その場所は、多くの者に秘された場所だったから。
ヴェールガ公国の、とある場所に立つその建物は、一見すると、天を貫く塔に見える。
「ここに、巫女姫ヴァレンティナが……」
慧馬がここに来たのは、一つには兄が来ていると聞いたからだが……、もう一つには、ヴァレンティナとの約束を果たすためだ。
「お茶会の誘い……。別に聞く必要はないが……逃げたと思われるのもシャクだからな」
火の一族の里にいる間、何度か誘われたことがあったのだが、慧馬はすべて断っていた。
それは、巫女姫ヴァレンティナの危険な気配を、慧馬が敏感に察知していたから……では、ない。実は違う。
ではなぜか、といえば……。
「レムノ王国の姫君のお茶会……あの時の我は正式なマナーがわからなかった……」
……割としょうもない理由であった。
だが、っと、慧馬は拳を握りしめる。
「我が友ミーアと共に、お茶会を重ねること数度。マナーは完璧に身に着けた。これで、弱みを見せることはない!」
そう、セントノエルに行き、ティアムーンにも行き……その空気を吸った。
白月宮殿にも行ったし、そこで食事までした。
今や、慧馬は、帝国式のテーブルマナーを完璧に身に着けたと言っても過言ではないのだ。
……そうだろうか?
「しかし、我が兄ながら、まだ完全に回復せぬとは……情けない」
ふん、っと鼻を鳴らして、慧馬は塔に足を踏み入れた。一瞬、警備の兵に声を掛けられそうになったが……すぐに、慧馬……の連れている狼を見て納得の笑みを浮かべた。
ラフィーナから、慧馬が訪ねてくることを聞いていたのだ。
「どうぞ、お入りください。火慧馬殿」
「うむ、世話になる」
深々と頭を下げてから、慧馬は塔に足を踏み入れた。
長い階段を登り、登り、ヴァレンティナが幽閉されている部屋の前、待機室に入ったところで、
「申し訳ありません。こちらでお待ちください。ただ今、先客がおられますので」
「わかった。だが……客?」
っと、そこで気が付いた。待機室にひっそりとたたずむ、金属鎧の男……。慧馬は、その男に見覚えがあった。
「むっ……貴殿は……確か、レムノ王国の……」
慧馬のほうに目を向けた男……ギミマフィアスは、静かな笑みを浮かべて頭を下げた。
「これはこれは、ご無沙汰しております。火族の姫君……」
「なぜ、貴殿がここに……まさか……巫女姫の命を奪いに来た、とか……?」
「おや、心配ですかな? ヴァレンティナさまのことが……。貴女たちの一族は、ヴァレンティナさまのせいで、酷い目に遭ったと聞いておりますがな……」
「いや、別に、心配というわけではないが……」
ではなぜ、そんなことを聞いたのか……と考え、すぐに慧馬は気付く。
自分は、ミーアの作り出す未来のことが気に入っているのだ、と……。だから、それをぶち壊しにするようなことは、してほしくないのだ。
「ふふ、そのような顔をなさいますな。すでに、与えられた命令は撤回されておりますでな」
ギミマフィアスは苦笑いを浮かべてから……。
「しかし、ミーア姫殿下は、処刑せずにどうするおつもりなのですかな」
「どういう意味だ……?」
首を傾げる慧馬に、ギミマフィアスは、あくまでも穏やかな口調で言った。
「蛇……でしたか。あのような者たちを生かしたままで、いったいどうするつもりか、と思いましてな。死を恐れず、秩序の破壊に暗き情熱を燃やす者たち……生かしておいたとして、矯正するのは、容易なことではないでしょうに……。殺してしまうのが、一番簡単なのではないか、と思いますが……」
「それはどうだろうな……蛇は確かに厄介ではあるが……手がないわけではないだろう」
慧馬は緩やかに首を振った。
例えばの話、慧馬は、戦士だ。命を惜しむことはない。戦士は死を恐れない。
けれど、今は……死ぬのが少しだけ怖い。戦場から遠く、離れすぎたからだ。
戦士が死を恐れぬのは、すぐ隣に死があるからだ。いつ死んでもおかしくないからこそ、どう死ぬかを考え、覚悟を決める。
けれど今は違う。死は、遠く離れて行った。
では、死が遠い環境において、躊躇いなく命を差し出すことができる者がどれほどいるだろうか?
衣食住が揃い、すべきことが与えられた環境において、突然、死ねと言われて、なにも感じずにいられる者がどれほどいるだろうか?
満ち足りた環境に身を置いてなお、蛇の信念を持ち続けられるものだろうか……?
「少なくとも、あの者たちを死を恐れる者にするのは、案外、簡単かもしれない」
「ほう……それは?」
「簡単なことだ。毎日、食い物を与え、寝る場所と服を与え、すべきことを与える。正しく、『人』として扱ってやればいいだけのこと」
そう、人間は、正しく人として扱われる時には、死を恐れるものなのだ。
なぜなら、人とは、本来、生きて、なにかを成す存在であるからだ。もし、そうでない者がいたなら、さまざまな状況が、その者を「人」として生きられないようにしているのだ。
「大切な者を失った復讐ならば……取り返しのつかぬ傷を受けた者であれば、あるいは、変えることはできないかもしれないが……。それはあくまでも相手側の問題だろう」
慧馬は、そう考える。
「なぜ、この私が『善き者』となれるよう取り計らってくれなかったのか?」などと言うのは、甘えだ。与える者が言われる筋合いのなきことだ。
「やり直しの機会を与えるは統治者の領分。されど、その機会を生かし、あるいは殺すのは、与えられた者の領分だ」
「やり直しの機会を与えられた時、どのように振る舞うかは当人次第、と。なるほど……。ちなみに、それは、ミーア姫殿下のお考えで?」
顎を撫でつつ問うてくるギミマフィアスに、慧馬はそっと胸を張り、
「はっきり聞いたわけではない。が、我は、ミーア姫の一番の友ゆえに。その心を知るは容易い」
堂々と言い放つのだった!