第六十二話 便利な蛇
「なにを馬鹿なことをっ!」
再び、リオネルが声を上げる。
その声の激しさは、おそらくは、信じがたい……信じたくない事実を目の前に突き付けられた、その動揺からくるものだった。
かつてのレアであれば、その圧力に言葉を呑み込んだかもしれない。けれど、今のレアは違っていた。
青ざめた顔は相変わらずだったが、毅然として引かなかった。
「兄さんも、同じことを考えたのではないの? 確かに、父さまは、中央正教会の司教として、セントバレーヌの商人たちとは一定の距離を置いていた。あくまでも、あの土地は独立都市。ヴェールガであって、ヴェールガでない場所だから過度な干渉はしない。それは、大原則だった。でも……」
レアは淡々と言葉を続ける。
「父さまは、市井のことに疎いわけではない。民草の声に耳を傾け、いつでも町に目を向けていた。父さまは、とても優秀だから、知らなかったということは、あり得ない……」
レアのその言葉に、リオネルはギリッと歯を噛みしめる。
実のところ、リオネルは、レアよりも先にその疑いに辿り着いていた。
セントバレーヌで起きている異常事態に、父が気付かないはずがない、と……。
なぜなら、彼にとっての父は、敬愛と憧れの対象であると同時に、全知全能に近しい存在でもあったからだ。
リオネルは、無邪気にもそう信じていた。そしてその信頼は、一度たりとも裏切られることはなかった。
……これまでは。
父の目の届かないことはなく、父ができないこともない。
そんな父が、はたして、このような肖像画が作られることを知らなかった、ということがあり得るだろうか?
ヴェールガ国内のどこかで作られたというならばいざ知らず、作られたのはセントバレーヌだという。それを知らなかった、あるいは、知っていて放置した……そんなことが、あり得るのだろうか?
「父上が……このような……そんな……」
そのつぶやきは、泣き出してしまいそうなほどに、悲痛な色に塗れていて……。
「ま、まぁまぁ、まだ決まったわけではございませんわ。お二人とも、落ち着いて」
極めて深刻な反応をする二人に、ミーアはちょっぴり慌てる。
ここで二人に落ち込まれては、セントバレーヌへの足掛かりを失うことになる。それに、なんと言っても、レアは有力な司教帝候補でもある。下手に歪ませるようなことがあってはならない。
ここは、とりあえず、元気を取り戻してもらわなければならない。
「ルシーナ司教だとて人間。見落とすこともあるとわたくしは思いますわ。それに、わたくし、言いましたわよね……」
ミーアは、ここで、そっとトーンを落とす。
「混沌の蛇という存在のこと……。彼らが裏で蠢動したとなれば……このようなことをやったとしても、不思議はございませんわ」
ミーアの必殺パターン、とりあえず、困ったら蛇のせいにしときゃあいいや! である。
そもそもの話……蛇というのは、神出鬼没である。どこに潜んでいるかもしれない者たちである。
ならば、逆にセントバレーヌに潜んでいる可能性だって否定できないではないか。
もちろん、最終的な冤罪を生み出すつもりはない。冤罪は根深い恨みを買う。それは、断頭台に潤滑油を塗り込むがごとき行為だ。
ゆえに、あくまでもミーアは可能性をほのめかすだけ。そちらのほうが、話が上手く転がりそうな時だけ、ちょっぴり責任を負わせるだけにしているのだ。
「その、邪教の集団が、父上の目をかいくぐって……?」
「いえ、実際のところはわかりませんわ。あくまでも可能性の話で。それだけのことをやってのける者たちがいる、というだけのこと」
ミーアは、あくまでも事実のみを口にする。
混沌の蛇がいる可能性は、否定できない。
彼らがルシーナ司教の目をかいくぐることも、否定はできない。
その事実を確認したうえで……。
「だからこそ、考えても仕方がない、とわたくしは考えますわ。セントノエルで、ああだこうだと考えていても、悪いほうにしか考えはいきませんわ。不安や心配は、いわば繁殖力の強い雑草のようなもの。放っておけば際限なく増えていくものですわ。だからこそ、直接行って、その根を刈り取ってしまわなければ……と思いますの」
「ミーアさまが、セントバレーヌにいらっしゃる、と……?」
「ええ。せっかくの機会ですし、ルシーナ司教にもご挨拶させていただきたいですわ。それと、ラフィーナさまには、念のために、早めに連絡を入れておいたほうが良いと思っているのですけど……」
「なるほど……確かにそれが理にかなっていますね。父が関わっているにせよ、いないにせよ、ここで、話していても仕方ありません」
静かに頷いたのはレアだった。
「そう……だな。うん、父上に、ミーア姫殿下のことを知ってもらうことは意味があると思うし……。うん、それがいい」
まるで、それさえすれば、すべて片付くと……そう信じているような口調でリオネルが言った。
――本当に、すべて丸く収まってくれればいいのですけど……。
ミーアはため息を吐きながら首を振るのだった。