※chapter0.「はじまりのものがたり」※
むかしむかし。でも、ないんだけれど。
あるところに、小さなちいさな「赤ずきん」がおりました。
彼女はか弱い人の子でしたが、たったひとつ、そうたったひとつだけ……「宝物」を持っていました。
「可憐な声、美しい歌、優しい言葉」
……これら三色の宝石をはめ込んだ、きれいな「傘」です。
彼女にとって「歌」とは「言葉」とは……「雨」そのものでした。
飢え乾く大切な人を癒し満たす「恵みの雨<アムリタ>」でした。
ですが、雨は時として「残酷に人の命を奪うもの」でもあると、彼女はじゅうぶんに……。
いいえ、じゅうぶんすぎるほどに知っていたのでした。
だから、決めていたのでした。
この傘は、誰かの雨から守るために使うと。
たとえ自分が心無き雨に打たれても、守りたいと思った誰かのために使うと。
「そんな雨」がいま、降っておりました。
それは、「誰か」を「責め立てるような冷たいつぶて」。
しとしと、ざあざあ。
冷たい滴に凍える赤ずきんは「世界にたったひとつの傘」をさし、黙々と歩いていました。
寒くてさむくて、心細くて。
痛くて怖くて、おそろしくて。
それでもけして、歩くことを止めてはならないのでした。
だってそれは、紛れもなくじぶんに向けられたものだったから。
赤ずきんは大切なものを失ってしまったのです。
そのため、大事なお役目をこなすことができなくなりました。
ほっとしていられたのは瞬きの間だけ。
赤ずきんを襲ったのは、失望と非難のつぶてでした。
それは幼いちいさな赤ずきんには耐え難いもので……その上、友達まで赤ずきんを見放し、後ろ指を刺しました。
赤ずきんはため息をつき、傘を握りしめます。
この傘は世界にたった一つ。
大切な人がくれたものでした。
その時、目の前に真っ赤な池が姿を現しました。
いいえ、それだけならまだいいのです。
その真ん中に、なんと……大きな大きな「恐怖」が横たわっていたのです。
裂けた口。青く燃える、ぎょろりとした瞳。大きくとがった耳。
彼女は「恐怖」に近寄りました。
ぼろのブーツがねっとりとした赤に浸され一層凍えましたが、彼女は気にしませんでした。
それどころか「恐怖」を目の前にして、けして怯えず、震えもしなかったのです。
そうしてゆっくりと、ゆっくりとかがみ……その「たったひとつしかない傘」を「その怪物」へと差しだしたのです。
「恐怖」は驚きをもって目を覚ましました。
「恐怖」の目に映る「少女」はとても輝いてみえました。
こんなに情け深く可憐で、切なくて……「美味しそうな生き物」を他に知らない、とも思いました。
「飢え乾いた恐怖」はこうして救われたのです。
「か弱く小さな、赤ずきん」によって。
しかし「たったひとつしかないそれ」をあげてしまった赤ずきんはどうだったのでしょう?
「こわくて寒くて痛くて心細かった赤ずきん」は、なにを思ったのでしょう。
その出遭いは果たして、幸福だったのでしょうか?
赤ずきんは知っていました。
この「血塗れの恐怖」とは出遭ってはいけなかったことを。
それなのに、たったひとつのセリフが……そのたった一言が。
どうしてもどうしても……喉をつかえて出てこないのです。
……ほんとうはね。
「寂しがり屋の、泣き虫赤ずきん」だって。
「ずるくて汚くて卑怯な、狼少女」なのでした。
これは「飢え乾く狼」と「泣き虫な赤ずきん」の物語。
「忘却の歌を奏でる嘘つきの少女」と「悲しいおしまいを書き換えようとする一柱の獣」。
そんな「愛に飢え乾く二匹の大嘘つき」のものがたり。