第9もふ。「9月は、“鳴けない鳥”と出逢う」
イライラする。くそったれが。
なにもかもが気に食わねえ。
はらわたが煮えくり返るどころじゃねえ。
煮えすぎてモツ煮にでもなりそうだ。
消毒液のうざってえにおいをかぎながら、乱雑に廊下を歩く。
もうここに用などないし、頼んでも二度と来てやらねえと思った。
……ナオ。あのクソ手間のかかる変人女。
事情があってすっぽかした詫びをいれようと思ったら、学校には来ていないと聞いた。
しかも交通事故にあったらしいと言われたら、誰だって心配になる。
病院名がわからず、近隣の病院を手当たり次第に捜し歩いた。
結局みつかったのは二ヵ月も先だ。こちらにも事情があったとはいえ、遅すぎた。
自分でもなぜ、こいつのためにこれほど必死になれるのか激しく謎だ。
だが、どうしてか放っておけない。
折に触れ、その柔い肌に触れるほどに己の中のなにかが、おおんと吠えるのを感じる……。
なんて言ったら厨二がすぎるか。
だが、あいつが危険な目に合うたび、気が付くと体が動いている。
階段から降ってきやがったあの時もそうだった。
危ねえとかなんとかいう前に、全身で受け止めていた。
背後がコンクリでなくてよかった。
あの時軽く頭を打ったが、硬い地面なら下手したらお陀仏だ。
再び思い出した光景に奥歯を噛んだ。
病室で目を覚ましたあの時。
俺を目にした瞬間のぼうっとした顔を思い出すたび、焦燥にも似た苛立ちが全身を泡立たせる。
血液という血液が沸騰するかのような激しい不快感。
それはまるで……「恐怖」に似た。
……「恐怖?」
そこではた、と足を止める。
怖がっているとでもいうのか?
この俺が。あいつごときに忘れられることを?
ざわり。再び血液が泡出つ。
おおん、と何者かの遠吠えが聴こえる。それはまるで――「三月の獣」に似た。
ちっと舌打ちして、おかしな幻影を振り払った。
思い出す。「獣になった男」の物語。
古臭い古典の物語。
とっくにくたばったジジイがよく語っていたおとぎ話。
(( 九狼。おまえの名は……の証。三月の……が……人の子……その血は……。 ))
もはやとぎれとぎれにしか思い出せない、年寄りの妄言。
おおまかなストーリーはこうだ。三月九郎という猟師の男がいて、その男が恋する女を護るために……。
「そこの君、ちょっといいかな」
その時、斜め後ろから若い男の声が聴こえた。
振り向くと、まっさらな白衣がたなびくのがみえた。
四角い黒縁眼鏡。
女受けしそうな甘いマスク。
手に持ったカルテらしき書類。
軽い足音を響かせる……黒い革靴。
みるからに医者だろうが、すいぶん若く見える。
研修医なのか? なぜ俺に話しかけてきやがる?
「なぜ話しかけるか、と考えているね」
そこで男は笑った。
だが目が笑っていない。
口元のみで微笑むその冷めた目つきからは、明確な敵意がみてとれた。
「……あんたは心理学者かなにかか?」
「年上に対する態度がなっていない。やはり君はまだ幼いな。年の割に大人びているというのはみせかけで、中身はただの多感なお子様だ」
「ずいぶんふざけた医者だな。俺に何か恨みでも?」
「20点」
「……は?」
「残念ながら、そんな問いでは解答はあげられないな」
「……何様だあんた」
「君が聴くべきなのはあの子のことだ。“トモダチ”なんだろう? ずいぶん仲がよかったそうじゃないか。まず第一声で問うべきはあの子の現状じゃないのかな?」
「あんたになんの関係があると? タダの医者が口はさむんじゃねえ。それに俺は」
「もう友達じゃないとでも? ずいぶんと冷たいね。それだからあの子に忘れられるんじゃないかな」
「ふざけやがって……と俺がキレれば満足か? 下衆野郎が」
「さあね。まあ長話もなんだし、質問には答えよう。僕はあの子の保護者だ。年が15ほど離れているが親戚関係だ。君と違って血のつながりがある。僕にとっては妹も同然の子だ。当然大切にしているよ」
「へえ……ようするに従兄妹か。どうりでクソみてえな嫌味ばかり言ってきやがると思ったぜ。ロリコン野郎の嫉妬ってわけか」
「ずいぶん減らず口だね。残念だが君の邪推は的外れだ。保護者だといったろう? それ以上でも以下でもない。それで本来の問いに対する解答だけど」
そこで医者男はこちらの瞳を真っ向からみつめてきた。
眼鏡越しの瞳に「白い炎」がちらつく。
おおん、とまたあの幻聴が聴こえ、奥歯をかみしめかけた。
……その時だった。
「あの子は交通事故で頭を打ち、記憶の一部を失っている。一体誰のせいか……もうわかるよね?」
……は? と乾いた声が響き、自分が発したのだと後から気づいた。
打ち身で済んだと聞いた。
怪我らしき怪我もなく、奇跡的に無事だったと。なのに、記憶が……ない、だと?
「そんな……バカな」
「馬鹿は君だ。放課後あの子を裏門で目撃したという証言が集まっている。誰かを待っている様子で、ずっと裏門近くの階段で座って時計を気にしていたという。帰り道で泣いていたという声もあるね。放課後約束をしていたのは君だ。違うかな?」
「……待て。それじゃあ……」
あいつが記憶を失ったのは。
俺のことを忘れたのは。
「そうだね。悪いのは君だ。ああ、それぐらい言わなくてもわかるよね。いくら君が救いもない阿呆だとしても」
「俺が……」
あいつを待たせなかったら。
約束の時間に間に合っていたら。
そうでなくとも、連絡のひとつでもよこしていれば。
ちり、と頭の奥が焼けつく。
思わず頭を押さえ、下を向く。
がんがんと鳴り響くのは頭痛……いや、激しく暴れ狂う心臓だ。
脳漿の奥の奥。ニューロンの狭間。
無数のIFが交錯し、絶望にも似た事実に酔いそうになる。
どうして。なぜ俺はあの約束を守れなかった?
どうして、よりにもよってあのタイミングで。
××が××しなければ……結果は変わっていたのか?
こんなクソッタレな未来は変えられたのか?
「まあ、そういうことだ。はっきりと言おう。二度とあの子に近づくな。君の存在はあの子の害になる」
それは激しい拒絶の言葉であり、断罪の一撃でもあった。
そして、そこにはある種の悟りも含まれていた。
まるで……「以前にも前例があった」かのような。
しかし、俺の頭はすでに機能していなかった。
(( きゅうび ))
へにゃりととろけるように笑う、その小さな顔。
怖がる様子もなく俺にべたべた触れてくる、もみじのようなあたたかい手のひら。
甘いせっけんと……ミルクのような甘いにおい。
(( きゅうび、×××× ))
なにか忘れているようで、なにか思い出せそうな。急速に鳴るアラート。忘却の旋律。最後の嘘。
すべてが収束した瞬間、悟った。
俺はきっと……あいつのことを。
はっと気づくと、医者はもういなかった。
脂汗が背筋を伝う。
……戻れ。戻るしかねえ。あいつのいる場所へ、あいつのいるうちに……今すぐに。
歩みはやがて駆け足になり、驚いて制止を投げかけるナースを尻目に、元いた病室へと走る。
間に合うか。間に合うのか。まだ許されるのか。
おおおん、おん。獣が鳴く。急げ、とでもいうように。
自動ドアが開く。驚いたようなその顔。
いつもはふたつに結ってあるその髪がほどけている。
そのくりくりとした大きな瞳の奥の……赤い炎に似た輝き。
――綺麗だ、と思った。はじめてそう感じた。
ためらわず一歩を踏みしめる。
続いて二歩。三歩歩くころにはなりふりかまうことなど、とうに忘れていた。
一気に距離をつめ、その小さく柔らかな手を強く握りしめる。
「俺だナオ! ――思い出せ……!!」
「うわ、わ」
ナオは焦ったように声を上ずらせると、ナースコールに手を伸ばした。
その手首を縫い留め、細い顎をとらえる。
その間、三秒。もう一秒も待てなかった。噛みつくようにその唇を奪い取る。
「ん、ぅ……っ」
ふに、と柔らかい感触。
いつもよりも濃いせっけんと甘いにおいに酔いそうだ。
いや、きっととっくに酔っている。最初から酔っていた。
しいていうならこいつの存在、そのものに。
じたばたともがき、逃れようとするから舌まで入れてやろうと思ったが、さすがにそれはやりすぎだ。
ぱっと離し、唇をぬぐう。
ナオは混乱したように涙目で己の唇をおずおずと押さえ……一気に耳まで染めた。
「……あ、ぅ」
ぐるぐると目でも回しそうな勢いで赤面し、そして……。
ナースコールをだん!! と力任せに押した。
「――看護師さあん!!!!」
やべえ、と思った。
頭では冷静なつもりだったが、一ミリも冷静ではなかった己の行為を遅まきながら自覚し、ざあっと血の気が引いた。
やべえ。なんとは言わねえが、ヤバすぎる。
ベッドに横たわる病人(?)の手首をつかみ、無理やり抑えつけて唇を奪う。
これは世間でいう……。
「へんたいっっ!! 消え失せろーー!!!!」
ぼふん! と枕で胸やら腕やら無茶苦茶に叩かれて、その死にものぐるいの猛攻に思わず膝を折った。
なんだこの馬鹿力。
このちっこい体のどこにそんなパワーが。
「変態!! ヘンタイ!! へんたあああい!!!!」
ばしんばしんぼふんぼふん。ひたすら殴られる一方だ。
地味にいてえしどうする?
クソ大声で叫びやがるせいで、ひとりふたり野次馬すら集まってきた。
「水無月さん! どうしたの!?」
ナースの声。まずい、と思った時にはすでに体が動いていた。
ナオの攻撃をかわし壁際まで走る。
そして窓枠をつかみ……一気に飛び降りた。
「っっ、キャーーーー!!!!」
ナースの悲鳴を尻目に、俺は二階の病室からなんとか地面に着地し、そのままわき目も降らず走った。
――クソ。クソ野郎が。他の誰でもねえ。
俺が一番下衆野郎じゃねえか!!
……りん。
その時、鈴音がした。
りん、りん。
音が近づいてくる。
りんりんりんりん。
目の前に立つ、その存在。
こちらの瞳をまっすぐとらえる、その「紫の炎」に似た瞳。
「……みつけた。如月九狼――君をずっと探していたんだ」
この時、俺は知らない。「目の前の存在」が己にとっていかなる意味を持つことになるか。
ふいに「鳥」の鳴き声が聞こえた。――「鳴けない鳥」の鳴き声が。




