パシャリ
パシャリ。
で、
「え」
「あ、」
やべ、やっちまった。と思った瞬間に、急にじーわじーわと鳴き続ける蝉の声がこの夏の熱波に気付かせて、どっと背中に汗が湧いた。さっきから足に当たっているのがそのへんで伸びてる雑草のみならず、威勢のいいやぶ蚊の群れであるような気もしてきて、思いっきり身体をかきむしりたくなった。
「ちょっと。今のトーサツ?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
対照的に、俺と、俺の手の中にあるスマホを見つめる知らない女性の目線は冷たかった。今すぐゴミ捨て場に投棄してやろうかこの豚野郎って感じ。同年代だろうか。それとも俺より年下だろうか。あるいは童顔気味の年上? 一方俺は二十四歳。
ついさっき、絵面が良かったって、それだけの理由で知らない女性を無断でスマホで撮影した、二十四歳。
「け、景色を撮ってたんだよ。カメラ覗いてたら突然こんなとこに人がいたもんだから、びっくりしてシャッター切っちゃってさ。ごめんごめん、ほんと。すぐ消すから」
画面をタップして、言葉通りに写真は削除した。確かについさっきの一瞬、無意識にシャッターを押してしまうくらいには心に響いた風景だったけれど、未練はなかった。そんなことより綺麗な経歴の方がずっと大事だった。
「ふうん」
ま、いいけど、と。
それだけ言って、女性は釣り竿に向き直った。
ほっと一息、なんとか難を逃れたらしい。ついでに二、三の深呼吸。鼻から入ってきた空気が思ったよりずっと熱く湿っていて、ちょっと咳き込んで、喉元までせり上がってきた胃液らしきものを無理やり飲み下す。
それからようやく頭が冷静になって、まず疑問が浮かんできた。
なんでこんなとこに人がいるんだよ。
自分のことを棚に上げたのは、こっちはちゃんと理由があってここにいるからだ。
現在位置の確認。
ここは『裏野ドリームランド』、……の跡地。
裏野ドリームランドというのは、十数年前にこの裏野という寂れた地方都市に何を思ったか突如建設された遊園地のことだ。当時だってとっくにバブルは終わっていたわけで、こんな巨大施設の建設の背景には綺麗な補助金やら汚い裏金やら色々な流れがあったらしいが、おおよその人間が予想していたとおり、十年持たずにあっけなくつぶれた。
つぶれた理由は単純明快で、こんな辺鄙な場所に遊園地に行きたいからとわざわざ足を運ぶ人間なんてそれほどいないし、そのうえ周辺地域の開発が遅れて数少ない観光客も全然裏野に金を落としていかなかったから――、というのが定説。
異説、呪われてるから。
廃園になる前から妙な噂があった。
『子供がいなくなる』『ジェットコースターで事故があったらしいが、誰もその詳細を知らない』『ミラーハウスで別人に入れ替わる』『ドリームキャッスルに拷問部屋がある』『誰も乗ってないメリーゴーランドが勝手に廻る』……。
どれもこれも所詮はウワサ。寂れた地方都市と豪奢な建築のミスマッチがそんな雰囲気を醸し出していたのかもしれない。未だにこのウワサがオカルトマニアの間で定番レベルで流行っていて、『観覧車から誰もいないはずなのに声が聞こえてくる』なんて新作まで生み出されてるのは、この打ち棄てられた遊園地の廃墟っぷりがウケてるからだろうと思う。はっきり言って俺だってこんな珍説、まったく信じちゃいない。
だけど、ひとつだけ。
たったひとつのウワサだけ、真実でなくちゃ困るものがある。
『アクアツアーに謎の生き物がいる、廃園した今でも』
なぜかというと。
金がないからである。
写真に収めるつもりである。謎の生き物を。
そして売り払うつもりである。
一攫千金を、狙っているのである。
そういう訳で俺ははるばる県を跨いで高校のときに使っていたママチャリでこのド寂れた裏野ドリームランド跡地とかいう廃墟まで足を運んできたのだ。
翻って、目の前のこの女性。
廃墟となった遊園地の。
演出用の人工林の名残なんだか素で荒れ果てたのかわからないような環境の。
濁りに濁ってドブみたいな色になったアクアツアーの水場で。
そのへんの木の枝とタコ糸で作ったみたいな雑な釣り竿を前に、ぼうっと座り込んでいる。
なんだこいつ。
俺のリサーチ不足なだけで、このアクアツアー、今では釣りの隠れた名所にでもなってるのだろうか。誰もいないだろうという前提でこの場所にやってきたものだから、人がいると調子が狂う。さすがに人前でUMA探しなんて怪しさの極みみたいな行動を取るのは気が引けるのだ。
早くどっか行ってくんないかな。
「あんたさあ」
「はいっ?」
そんなことを考えていると狙いすましたように話しかけてくる。
思わず敬語で返事する。
「不審者?」
「…………」
こっちのセリフだよ、という言葉を飲み込んでいた。
UMAの写真目当てで廃墟に来た二十四歳(勝手に人の写真を撮る)は客観的に見て不審者に該当する。
「い、いや別に?」
「不審者はみんなそう言うんだよね」
わかんねえだろ、不審者である自分に誇りを持ってるタイプの不審者は我こそは不審者って名乗りを上げるかもしれないだろ、という言葉を飲み込んで、飲み込みすぎて若干の胸やけを感じ始めた。
「当ててあげよっか」
「は?」
「あんたがここに来た理由」
やたらに話しかけてくるのはお喋りなのか警戒されてるのか。「はあ、」と俺が気のない言葉で返すと、女性は言った。
「死体、棄てに来たんでしょ」
「…………は?」
「あれ、違った?」
「いや、違ったってか、え? 来んの? 死体捨てに? ここに?」
「聞いてんのはあたしなんだけど。違うなら何、廃墟マニア?」
お前がなんなんだよ。
まともな神経してる相手じゃなさそうだ、とあたりをつける。廃墟探索で一番怖いのは幽霊だとかそんなもんじゃなくてそこを溜まり場にしてる危険人物だと聞いたことがある。今まさにそういう恐怖を体感している。
「ちょっと、答えてよ」
返答催促。
当たり障りのない、刺激しないような答えを――、思いつかない。足元を見比べる。俺はスニーカー、向こうは固そうなブーツ。仕方がないからありのままに口にする、足に力を込めながら。
「『アクアツアーの不気味な生き物』……」
ノーリアクション。
続ける。
「探してんだよ。写真に撮って、出版社にでも売ろうと思って」
じりじり夏が迫ってきていた。
そういう風に錯覚したのはクマゼミの鳴き声が八方俺を取り囲むように聞こえていたからか。それとも日の照りがどんどん首の裏を焼いて、熱さが痛みに変わってきていたからか。
「なあんだ」
女はぽつり、と釣り竿から目線を逸らさないまま、独り言みたいに言った。
「目当てはおんなじか」
言葉の意味を理解するのに少しの時間を要した。
「そんなら別にいいけどさ。どたばた探し回ったりしないでよ。うっさいと逃げちゃうかもしんないし」
なるほど、と思った。
目の前にいるのは、俺と同じくこの怪しい遊園地の、怪しいウワサを聞きつけて、UMAを目当てにやってきた女。
しかも、UMAをボロ竿で釣り上げようとしてる、真性の馬鹿。
警戒を解いていいのかそうでないのか、いまいちはっきりしなかった。
ただ、わざわざ人の言うことに反抗する必要もない、と思う。元々UMAをどうやって見るかどうかなんて、考えていなかったのだ。一日適当にそのへんを回って、運が良けりゃ見つかるだろうとか、そのくらい。どのくらい深くて、どのくらい広いのかもわからない水の中をひっかきまわすなんてまず無理だ。それに目撃証言があるってことは、普通にしてりゃ目に入るってことだろうから。
別に。
「うわきも。なんであたしの後ろに座るわけ?」
「……ほかに座る場所がないから」
「いくらでもあるでしょ、ほらあそこ、あの岩のとことか。一方的に見られてるの気持ち悪いし近いのも気持ち悪いからあのへん行ってよ」
そう、別にカメラ片手に見てりゃあいいのだ。ただぼうっと。女が釣り上げるか、俺の写真に収まるか、待ち続けてればどっちかが起こるかもしれない。それでいいのだ。
「ほれしっしっ、あっちいけー」
……それでいいのだ。
言われたとおりに移動して、それからじっとスマホを片手に俺は水面を見続けた。三時間くらい。女も三時間くらいぼーっと、ポジションを変えることもなく釣り糸を垂らし続けていた。
その間、一切アクアツアーの水中に生命の気配は感じ取れなかった。たまに吹く夏の熱風が、表面を撫でるように揺らしていくのがせいぜいだった。
その三時間、俺は特にすることもなく、どうでもいいことばかりを考えていた。今日の晩飯どうしようとか、写真撮れなかったら来月どうしようかなとか、あとそもそも何の疑問を抱くこともなくここまでやってきたけどアクアツアーってなんだよ、とか。
特に三番目。
アクアツアーってなんだよ常夏の島でスカイダイビングか?とか適当なことを考えながらスマホで調べるまでした。とは言っても、もうここが廃園になったのも十年近く前の話だ。詳細な内容は検索してもなかなか出てこないし、代わりにオカルトまとめサイトがどんどん出てくる。裏野ドリームランド調査レポ、なんて黒字背景のサイトも出てくる。それを見ながら、廃墟動画モキュメンタリー配信で食っていけないかな、とか思ったりしていると突然首の裏にセミが飛んできてうおっと声を上げてびびり散らし、女がじろりとこちらを睨み俺はぺこぺこと頭を下げる。
それらしき情報は、画像検索の下限いっぱいあたりで引っかかった解像度の低い当時のパンフレットの写真だけだった。スキャナで取り込んであるわけじゃない。カメラで直撮りしたようで、背景にテーブルが映り込んでいる。SNSに上がっている画像らしかった。関連URLを踏むと、美白加工の施されたアイコンの実名アカウントが『こんなん出てきた、懐かしい』とコメントを添えている。目を凝らして画像を見てみると、おそらくこんな感じの言葉が書いてある。
《古来より水は××(※字が潰れてよく読めない、神秘?)と結び付けられてきました……。水の向こうに映るもの、映らないもの、目に見えるもの、見えぬもの。揺らぎのむこうに貴方は何を見る?》
何言ってるかわからん。
ドリームランド、というだけあって夢がコンセプトのテーマパークだったからこういう曖昧な文面になったのかもしれないが、具体的な中身がまるでわからない。廃園になった背景にはこういうことも関係してたんじゃないのか、と過去に向けての大きなお世話。
どういうアトラクションだったんだろうな、と想像する。
今、俺の目に映ってるのはえーっと……、溜池? プール? でかい水たまり? 何て言ったらいいのかわからないが、まあそんな感じのやつ。池って呼んじゃうか。周辺を目隠しするように木々が植わっていて、池の真ん中には孤立した島があって池はサーキット状に区切られている――、ように見えるが、そのサーキットの半分は茶色くカモフラージュされたふたつのシャッターで区切られていて、こちらから中を窺うことはできない。俺の座っているのは搭乗口のあたり。
俺の考えたのはこうだ。
まず搭乗口でボートなりいかだなりに客が乗る。それからぐるりと真ん中の島を回るようにして動き、景色を見せる。それから夢の世界へごあんな~いとか言ってシャッターの向こうへ入っていくのだ。
そして自称夢の世界では光と水のイリュージョンだ。ネオンだかイルミネーションだかLEDだかで象られた水生生物の影が、暗闇の中でゆらゆらと現れては消えていく――、
「ん?」
違和感。
じろり、と女は俺を見た。けれど、今度は頭を下げるのは後回しだ。
「なあ、ちょっと」
「あによ」
「そもそもUMAってこっちの池の方にいるのか? シャッターの向こう側にいるんじゃ」
よく考えてみれば、の話だった。
このUMAのウワサは、裏野ドリームランドのアトラクションに関連したウワサだ。そしてこのアクアツアーのアトラクションは、見たところシャッターの向こう側がメインだ。なにせこうして視界に入る範囲で大掛かりな設備が見当たらない。
となると、アトラクションのメインがシャッターの向こうなのだから、必然、そのアトラクションにまつわる怪生物もシャッターの向こうにいる可能性が高いのではないか。
つまり俺とこの女は炎天下の中ぼけーっと生き物のいない池で釣りをし続けたアホ二人なのではないか。
その疑問に、しかし女は眉を顰めて。
「ゆーまってなに」
「……未確認動物」
「……あ、そゆこと」
女は納得いった風だったが、かえって俺が納得いかなかった。
わざわざ釣り竿持って廃墟まで来てUMAすら知らないやつがいるか? ウワサについては知ってるみたいだったし、単にそういう用語を知らないだけなのか?
「あんたさ、」
「心配いらないよ。あんたの探してる謎の生き物ってこの池……池?の方にいるはずだからさ」
遮られる。
きっぱりとしていた。
ますますよくわからなくなる。
UMAって用語すら知らないのに、謎の生き物の居場所だけは知ってるのか?
と、ここで名推理が浮かぶ。
「もしかして、あんた、謎の生き物のウワサの出元……、目撃者か?」
「うーんにゃ」
そして即座に外れる。
じゃあ一体なんなんだこの女は。
お手上げのポーズを作ったのは無意識のうちで、
「そんならなんでわかるんだよ、謎の生き物がこっち側にいるって」
「突き落としたのがこっち側だから」
「つき……、なに?」
聞き返すと、女はしばらく釣り竿の先を見つめたまましばし沈黙し、それから口を開いた。
「十五年前にさ、あたしここで人を殺したんだよね」
どういう反応をしていいのかわからなかった。
逃げるべきなのか。
相槌でも打つべきなのか、とすればどんな言葉を使えばいいのか。
今ここで何をするでもなく言葉の続きを待ってしまった自分の行動は正解なのか。
「あたし子供のころピアノ習っててさ。個人教室に行ってたんだけど、そこの若い女の先生とそのとき結構仲良くて。そしたらその先生が言うわけよ。『最近新しい遊園地できたみたいなんだけど、行ってみない?』 あたしはすぐに返事したね。即答だったね。『もちろん行く行く連れてって』って。その先生が結構親とも仲良くてさ、とんとん拍子にふたりで遊園地に行くことになったわけ。
実際ね、ここの遊園地楽しかったんだよ? あんたは来たことある? 今にして思うと金に物言わせてんなー、って感じはするけどさ、その頃は小っちゃかったからそんなのわかんないし。本当に夢の世界みたい!ってなもんでその日は一日ゴキゲンよ。先生もにこにこ笑っててさ。
でもねー、先生が言うわけよね、『ちょっと疲れちゃったな』って。ここのアトラクションって当時もそんなに並ぶ感じじゃなかったしさ、上手くすれば一日で回れそうだったの。だからあたしも結構余裕あってさ、聞き分けよく、じゃあちょっと休もうって話になったわけよ。
で、来たのがこのアクアツアーのところだったってわけ。『水と緑があると癒されるねー』って。それ遊園地に来て言う感想?って感じだけど、もーそのころのあたしって素直だったからさ、『そーだね!』とか言ってアイスとかもっしゃもしゃ食べてたの。
そしたらさ、だんだん先生が搭乗口の反対っかわの方に歩いてくのよ。ここのアクアツアーって中が本番だったみたいでさ、外側は軽くささーって回る感じで流されちゃうのよ。で、雰囲気出しのための木とかで外からは見えないの。つまり人気のない場所でふたりっきりってわけ。
能天気なあたしは『楽しいね!』って言った……、言ったよね? 言ったと思うんだけどさ。そしたら先生も『うん』って頷いて、んで付け足したんだよね。
『お父さんと一緒だったら、もっと楽しかったわね』って。これまたあたしは素直だったからさ、『そーかも!』って答えたの。答えて振り向いたらさ、先生が両手をあたしに向けて来てて、こういうことを言ってたわけ。
『あなたさえいなければ』ってさ。
もー、なにがなんだかわっかんなくてさ。とにかく先生って人の身体に触るようなこともないような人だったからそういう動きしたのにびっくりしちゃって。びっくりして手に持ってたアイスを落っことしちゃったわけ。『あっ』と思って屈みこんだら、どういう体勢になっちゃったのかな。いまだにわかんないんだけど、何かしら先生とあたしの身体が強めに当たってさ。
ばっしゃーん、よ。
それでもっとびっくりしちゃって。『先生?』って呼んで周りを見たんだけど、先生どこにもいないし。落ちちゃったんだ、と思って池を覗き込んだんだけど、日差しが強くて深くの方まで見えないし。
で、池の波紋が消えても、先生は上がってこなかった。
二度と上がってこなかったってわけ」
そして、女は口をつぐんだ。
表情は、ひとつも変わっていなかった。
「……それ、どうなったんだよ。大事件だろ」
「いんや、どーにも」
「どうにも?」
「そ。人一人消えてもどうにもなんなかったの。ていうか、誰も先生のこと覚えてなかったんだよね」
「……今、俺、からかわれてるか?」
「どうとでもどーぞ。……そのあとの記憶ってなにしろもう十五年前だからさ、ほとんどないんだけど。でも『先生は?』って聞いたときに親が困った顔してたことは覚えてるんだよね。
誰も覚えてないうえにあたしも子供だったからさ、記憶に自信がないんだよ。だけど先生がいなけりゃできないはずのピアノは弾けるし、来たことないはずのドリームランドのアトラクションとか知ってるし。
だからさ、知りたいんだよ。
本当に先生はいたのかどうか。あの日あたしが先生を突き落としたのか。どうして先生はあたしを突き落とそうとしたのか。そのためにあたしはここに来たの」
なんだか。
聞いていて、わけのわからない白昼夢の中にいるような気がしてきた。
夏の日差しのせいか、視界も白んで、揺らいで見える。
不気味な生き物を探しにやってきた廃墟の遊園地。
ひとり釣り竿を持って佇んでいた女。
人一人が、突き落とされて消えた昔話。
乾いた喉で咳き込んだ。唾液を飲み下して、それから声を出す。
「……なんでも、いいけどさ。その話と不気味な生き物がどこに繋がるんだよ。その先生が跡形もなくその生き物に食われたってか」
女がこっちを見た。
瞳が驚いたように大きく開かれている。それから、ふい、とまた視線を釣り竿に戻す。
「あんたさ、」
いつの間にか、セミの声が消えていた。
「人間も生き物だって、忘れてない?」
女の声が水面を揺らした。
釣り竿が揺れた。
そんな、気がした。
「……ひっ」
声がした。
俺の声ではなかった。
「ひひ、ひひひひ……」
女の声だった。
「ひひひひっひひひひひひ」
今まさに、目の前の池から。
釣り竿をその手で。
「あーはっはっは! 信じてやんの!」
引き抜いて、それから腹を抱えて笑った。
「………………は?」
「あるわけないじゃんこんな話! あんた騙されやすいから気をつけた方がいーよ! 今の話嘘だから! ぜーんぶ嘘!」
ひー、笑える、と。
目元に涙まで浮かべる女の笑顔は本当に屈託がなく。それを見てようやく気付く。
騙された。
「なっ、おま……!」
「あたしもあんたとおんなじって言ったでしょ。ここにいる謎の生き物とかいうの釣ってマニアに売りつけようと思ってたわけ。でもぜんっぜん釣れないしさー。どーよ今の話。これどっかに投稿して原稿料もらった方がいいかな? 不気味な生き物の正体が人間ってのは結構イイ線いってない?」
騙されたあんたはどう思う?と話を振られれば、俺はほっとしたやら恥ずかしいやらで、ひとつ、熱い溜息をついて。
「ありきたり。三流」
「あーはっはっは! 恥ずかしがってんじゃん!」
指さされて笑われている。
すっげー身体が熱くなってきた。ドバドバ汗が噴き出している。
笑い転げる女は釣り竿をその辺に放り出して、それこそ本当にのたうち回るように、たっぷり二分くらい笑い続けた。笑いすぎだろ、と思ったしこれはこれでヤバイ女なのではという思いが過らんでもなかったが、それもいずれは落ち着いて、女は座り込んだまま、ふう、と一息、どこか遠くを見るような目つきで、今度は釣り竿ではなく、空を見た。
雲のない、曖昧な青白い空だった。
「ちなみにあんたはさ」
女が言う。
「不気味な生き物って、なんだと思う?」
「……モササウルス」
でかすぎ、と言った女は、もうすっかり俺に『うっさいと逃げ』るとか言ったことは頭にないようで、けらけら笑い声を上げている。
その不気味な生き物を釣り上げる気はなくなったのだろうか。無理もないと思う。これだけ長いこと居座ってかけらも手掛かりがないのだから。
細く吹いた風がぶるりと身体を震わせた。未だ夜は遠い。が、夕焼けはもうすぐ顔を見せそうだった。
「……帰るか」
腰を上げて尻を払う。すると女も、うん、と背伸びして立ち上がる。
「あたしもそうしよっかな。収穫なさそうだし」
そうか、と必要もない相槌を打った。二度とこの女に会うことはないだろうと思った。
変な女だったな。
一応いつでも反応できるように、と手に持っていたスマホをポケットに滑り込ませる。滑り込ませようとした。上手くいかなかった。
すかっ、と感触の消えた手、ポケットに重みはなく、
「やべっ」
落とした。咄嗟に反応。岩の上だ。ただでさえ画面割れが洒落にならない場所で、その上水辺だ。空中でキャッチしようと、慌てて手を伸ばす。
足が滑る。
「うおっ!? ……っつー、あぶねー」
何とか踏ん張った。手の中には奇跡的にスマホが握られている。心臓が跳ねている。ギリギリだった。
今のを見られてたら、また笑われそうだな、と思い、足場だけしっかり確保して、スマホを手にしたまま女の方を見た。
いなかった。
「え?」
周囲を見回した。廃墟の遊園地。投げ捨てられた釣り竿。
池に広がる波紋。
「おい」
可能性。
「おいおいおいおい」
岩から降りて駆け寄る。女のいた場所へ。
釣り竿が捨てられているだけだ。わざとらしく靴が残ってたりするわけでもない。もう一度周りを見回す。だが女の姿はどこにも見当たらない。
「またからかってんのか?」
声を張り上げる。あるいは釣り竿をここに捨ててさっさと立ち去ったのかもしれない。
だが、視線はどうしても、目の前の池に、波紋に吸い寄せられる。
十五年前。
あの話が、嘘じゃなかったとしたら。
覗き込んでも、濁り切った水は表面から先を決して見せない。咄嗟に思いついて釣り竿を手に取った。それを波紋の中に突き入れる。液体以外の感触はない。
「おい、沈んでんのか!?」
呼びかけた。
すると、ぶくり、と。
気泡が、水の中から浮かび上がってきた。
それを皮切りに、ぶくぶくぶく、と。
沈んでいる。
何がどういうわけかはわからないが、あの女は、今、この池に沈んでいる。
突き入れた釣り竿で水の中をかき回した。それでも何か身体に触れるような感触はない。
「……仕方ねえ!」
Tシャツを脱ぎ捨てた。
子供の頃にしばらく水泳を習っていた経験がある。今となってはどのくらい泳げるのか、人一人を抱えられるのかは全くわからない。
だが、見捨てることもできない。
スニーカーも脱ぎ捨てて、濁り切った水面を見て、ためらいは一瞬。やるしかない、と飛び込む体勢を取って。
違和感に気付いた。
気泡が、止まない。
ずっとだ。ずっと泡が上ってきているのだ。ぶくぶくぶく、ぶくぶくぶくぶくと、際限なく、ずっと。
――人の肺に、こんだけ空気が入るもんか?
伸びかけた爪先。つんのめるようにして引き留めた身体。
けれど今はそんな些細なことを気にしてる場合じゃない、ともう一度、戻した体勢を飛び込む形へと変えようとして。
ぶくり、と。
今度は、水辺じゃなかった。
池の真ん中の方で、気泡が上がった。
わけがわからなかった。混乱した。それからひょっとして、と。もしかしてからかわれてただけかと、あの女、潜水でもして池の中を泳いでるのかと、そう考えると呆れるやら不審に思うやら、とにかくどうしたらいいのかわからなくなって。
ぶくり。
次の気泡を見た。
なぜか、向こう岸の方で上がった気泡を。
よっぽど泳ぐのが速いのか。思ったのも束の間。
ぶくり。
ぶくり。
ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。
ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。
ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。ぶくり。
「――――」
夥しい数の気泡。
池全体が沸騰してるかのような。
池の下で土が呼吸しているかのような。
池の底に、数千人が、泳いでいるような。
「ひ」
出来損ないの呼吸で、自分の喉から、悲鳴みたいな声が出た。
逃げ出そうと思った。
同時に、助けようとも思った。
あの女はどこに消えたのだろう。この池の下にいるのだろうか。深くまで沈もうとしているんだろうか。
手は震えたし、足に力も入らない。
だけど、見捨てるだけの勇気もなかった。
もう一度、釣り竿を手に取った。
「い、いるならつかめよ!」
水の中で声が聞こえるはずがない。
思いながらも、釣り竿を突っ込んで、めちゃくちゃにかき回す。何かに当たることを期待していたのか、それともその逆か。
「おい! おい、おぉ、おぉっ!?」
何かが、釣り竿の先に触れた。
感触は水に紛れてよくわからない。けれど、俺はこれが女だと思い、だとしたらどうすればいいのか、とにかくその感覚を失ってしまわないように、ゆるゆると、けれどここにいるぞと確かにわかるように竿を振って、振って。二秒、三秒。
つかまれた。
「ぃぎっ……!!」
そして、次の瞬間、恐ろしいほどの力で竿が引かれた。咄嗟に握りこんで、思い切り、全体重をかけて後ろに引いた。
ものすごい摩擦で手の皮が千切れる感触がした。痛みが走る。尻から、肩まで、思い切り背中で倒れこんだ。
すっぽ抜けた。釣り竿が。
「だぁっ!」
まずい。
慌てて起き上がる。池の表面には再び波紋が引かれている。飲み込まれた。
池に沈んでるのは間違いない。危険覚悟で今度こそ飛び込むか、と池をじっと睨みつけ。
とこ、とことこ、と。
水の中から鈍い、妙な音がした。
さっきの妙な泡もあった。尻込みして、再びためらうと、そのわずかな間に、ぷかり、と。
原型を残さないくらいに細かくへし折られた、釣り竿が浮かんできた。
「なんだよ」
思考が追い付かない。
「中に何がいんだよ、おい」
誰に問いかけたわけでもない。
ひとり、ただ自分に言い聞かせるようにそう呟いて。
パシャリ。
池一つ、飲み込むような巨大な泡が上って、それに答えた。