おにぎりを選んだ男
「俺、浮気するからな。それでもいいなら」
それが交換条件だった。
梅田香は「それでもいいよ」と言った。
白で統一された小綺麗な部屋のベッドに腰掛け、煙草を燻らせながら岡一馬は香の顔を見た。
笑っているとも困っているとも言えない表情の裏側に何の思惑があるのか知る術はないが、理由だけは知りたかった。
荒梅雨が窓を叩いていた。情交を結んだ後の部屋は一層の湿り気を帯びている。
目の前の香は紅顔しながらフローリングの上に座っている。
ちらちらと顔ばかり見ているので、一馬は少し煩わしく思った。
「ただ何で今更言うんだ。付き合いは長いが割り切った関係には了承しただろう」
「特に意味はないわ。今まで通りたまに来て、たまにご飯食べて、たまに一緒に寝れればいいの」
「だったら尚更今まで通りでいいじゃないか」
「そうだけどね。でも一馬が振られる事ってあまりないから、たまには立候補してもいいでしょ?」
と香は笑った。
先日、一馬は恋人の女性から別れを告げられ、その足で香のアパートに上がりこんだ。
理由も目的も言わず香をベッドに押し倒し、身体中を弄んだ。香は何も言わず、ただその欲望を受け止めていた。
香は一瞬驚いた顔をしていたが、関係ないと言わんばかりにその昂りを香の中で鎮め、後はただ惰眠を貪るだけだった。我ながら酷い扱いだと思う。
「まあ確かに今まで女に困った事はなかったからな。でも条件は忘れるなよ。いい女がいたらそっちと付き合うからな」
「うん。きっとすぐそうなると思うけど、それまでは宜しくお願い致します」
やけに慇懃な言い草だなと思った。香は三つ指まで付いている。
「なんか気持ち悪いな。緊張するじゃないか」
「だって今までは肩書きが無かったのよ?今からは一馬の彼女です」
「そうだな。今からお前は俺の恋人だ」
一馬がそう言うと香は自ら唇を重ねてきた。
何度香と口付けをしただろう、と一馬は出会いを振り返った。記憶違いでなければ五年前であった筈だ。二十五歳になり仕事の展望が多少良くなった頃に友人の紹介で出会った。一馬には既に恋人がいたが、一夜限りの濡事を楽しもうと香を誘い、香が承諾したのが始まりだった。
最初不思議な女だなと思った。
ただ身体が交わうだけのドライな関係が築けるかと思った。香からの要望は全くと言っていいほど無く、ただ従うだけだった。「こんな関係でもいいか」との問いにも「いいよ」とだけ言い、都合の良い女にしては少々不気味にさえ思った。
それからは意味もなく家に上がったり、飯だけ食い帰った事も度々あった。
仕事のトラブルや女性関係の縺れで疲れた時もその身体で慰めようとしていた。
「お前、そのなんだ。何か言いたい事とか欲しいものとかないのか」
あまり言えた立場ではないが、あまりにも不憫に思えたので一度聞いてみた事があった。もちろん勘繰っていることはおくびにも出さない。
「特にないよ。こうしているだけで幸せだったりするから」
そう言った香の黒光りした濡れ髪が乾ききる前に、再び恵まれた双丘を一馬の指が這い、艶声が小さな部屋に谺するのであった。
そんな逢瀬を重ねながら、気付けば五年である。お互いに歳を食ったな、と一馬は思う。
香は器量良しではないと思う。眉目秀麗という言葉があるが、決してその類いではない。些か余った肉が全身の輪郭をぼやけさせ、スーパーモデルよろしく美人然とした雰囲気など微塵も感じさせない。部屋と同じで衣服にも無頓着な様子さえ思わせる。良く言えば落ち着いた印象。悪く言えば地味なのだ。
しかし何故だか、それが一馬にとって心地よく思えたのだ。
外では雨が一帯を煙り立たせているだろう。帰るのが億劫だな、と思った一馬だったが、翌朝行われる会議の資料を今日中に作り上げなければならず、帰宅を選んだ。
「悪いな。明日早いから今日は失礼するよ。また来るけど条件は忘れるなよ」
「はい。彼氏さん」
香の目は爛々としていた。恋人という肩書きがよほど嬉しかったのだろう。一馬は多少なりとも満更ではなかった。
「これ持っていって」
と一馬が玄関を出ようとすると、香が手提げ袋を渡してきた。どこか照れているようで、紅潮した頬がやけに色っぽい。
「なんだこれ」
「今日ご飯食べれなかったでしょう?だから貴方がシャワーを浴びている時に作っておいたの。夜食にでも食べて」
「ああ、ありがとう。確かに腹は減っているんだ。さっきまで激しいスポーツしていたからな」
と下品な冗談を言うと、「馬鹿」と顔を赤らめた香の手が優しく飛んできた。
「でも悪いな。今日帰ったら美味しく頂くよ」
そのまま一馬は部屋を出た。雨は止む気配はない。手提げを濡らさぬよう腹に抱え一馬は傘を差した。
翌日の社内プレゼンテーションは大成功に終わった。いつだか、「パワーポイントの味噌は字を少なくし、グラフと記号と最低限の重要単語を解り易く織り混ぜる事だ」と香に教えられた事を思い出し、実践した結果が成功に繋がった。他の発表者に比べスライドショーページ数が少なく、要点であるところを役員に凝望させた事が良かったのかも知れない。
「では早速明日から各課から何人か引き抜いて、プロジェクトを始めてくれ」
そう言った所属課長の山本は気分が良かったのか、未だに一馬のプレゼン資料を眺めている。
「はい」と一馬が返事をすると山本は、「あと、森部長が呼んでいたからすぐに行ってくれ」と言い、眼鏡を額に上げながらまだ資料を眺めていた。
「わかりました。ではすぐに行ってきます」
「醜聞は無いからおそらく悪い話ではないよ。閑話だろうから気楽に行きなさい」
「はい。ありがとうございます」
先程のプレゼンテーションに関してだろうか、部長級に呼ばれると背筋が自然と伸びてしまう。早歩きでフロアを進むと、後ろから山本の笑い声が聞こえてきた。
「失礼します。部長、お呼びでしょうか」
営業部長の森は会議の時の顔とは打って変わって、目尻に深い皺を作っていた。
「ああ岡くん。すまないね忙しいところ。先程のプレゼンテーション見事だったよ。その後の役員会議でも君の名前が出てね。是非新事業立ち上げは成功させてほしい」
「ありがとうございます。そのつもりで精進致します」
「はは、そう固くなるな。事業立ち上げ後は君には課長代理として私の下に就いてもらうのだから、優しいのは今のうちだけだぞ」
「はあ」と一馬は気のない返事をしてしまったが、閑話休題なのだろうか、少し険しい顔を戻した森は立ち上がり小さな声で切り出した。
「会議室に行こう」
その表情は硬く、皺が目尻から額に移っていたため一馬は嫌疑した。
「安心しなさい。私と二人だ」
森は会議室に向かい既に歩いていた。
逡巡していた一馬だが、部長直々の命令である。まさか断るなど出来ず暗鬱な気持ちのまま会議室に入った。楕円型のテーブルの正面同士になる形で座り、森が口を開いた。
「岡くん。君は今年で幾つになるかね」
「はい。三十です」
「そうか、結婚の予定はあるのかな」
「いえ、まだその予定はありません」
「お相手は?」
ふと香の顔が浮かんだ。決して反抗せず従順で地味なあの女は今頃事務作業をやっているのだろうか。
一瞬間ができてしまったが、
「いえ。ご縁遠く、今はおりません」
と言った。
「そうか。岡くんに良い女性がいたら諦めようかと思っていたのだが、幸いかも知れんな」
再び破顔した森が続けた。
「実は私の娘なんだが、去年一般職扱いで入社をしているんだが、知っているか」
「はい。私達営業の補佐ですから。非常にお綺麗で仕事も卒なくこなしていると評判ですよ」
「ありがとう。ならば話は早い。君がよければ是非どうだ。決して無理強いはしない。結婚なんてのもあれは巡り合わせのようなものだから、頼み込むことはしない。しかし営業のホープである君が独身というのも頷けない。だから話だけでもしてやってくれないか。その後どうするかは君たち次第だ」
「お話ありがとうございます。非常に嬉しいのですが、何故私なのでしょう。他に男性社員はおりますし、おそらく私の噂はお耳に入っていると思いますが……」
課長の山本は勘が鈍く知らないのだろうが、実際一馬は他部署の女性社員にもお手を付けていた。件の娘が所属している部署の女とも関係を持っていた。もう縁切れているが。
「ああ。聞いているよ。女好きだと言う声が専らだよ」
「正否は問いませんが、噂があること自体が問題ではないでしょうか。私には過ぎたお申し出だと思います」
「君は男だね。実は当の娘から聞いたんだよ。噂の出所がただの女子社員のやっかみだってね。出で立ちも爽やかで仕事もできる君の事だ。女子社員が放っておく筈もないだろうからね」
「はあ」とまたしても気のない返事をしてしまった。またしても地味な女が脳裏に現れた。
「ありがとうございます。前向きにお話を頂戴したいと思います」
「そうかそうか。すまないね岡くん。娘も以前付き合いをしていた男性と別れてからなかなか腰が重くてね。たまに君の話題が家で出るものだから、頼んで正解だったよ」
そう言い山本は席を立った。
そのまま会議室の扉に手を掛け、「宜しくな」と一言言った。
翌日からは新事業立ち上げの会議で連日残業が続いた。
就職情報の代理店である会社にあって、求人以外の広告を出すのは賭けでもあるが、地域密着をコンセプトに纏めればアイデア自体は次から次へと沸いてくる。
この日は選出した社員全員で出されたアイデアの精査と地域性との合致が可能かどうかを議論していた。横浜市という世界に名を轟かせる巨大都市ではそのアイデアを整理するだけで莫大な時間が掛かってしまう。
もう既に夜九時を回っていた。各々集中力が切れていたため今日はお開きにしようとなった。
もう梅雨は明けており、生温い風が通り過ぎて行った。
一馬は退社した足でそのまま香のいるアパートへ向かった。
香のアパートは横浜駅西口から歩いて二、三十分は掛かる距離にあった。
一馬の住むアパートは京浜急行線ターミナル駅の上大岡が最寄りである。
横浜駅近くにある会社まではドアトゥドアで賞味三十分程だ。
自宅に帰るのも香のアパートに行くのも結局同じ時間が掛かるのだが、最近は週の三分の一は香のアパートにいた。梅雨も明け、本格的な暑さが肉を茹だらせる直前のこの生温い季節が一馬は好きだった。
「また来たぞ」
一馬は部屋からドアを開けた香に向かってぞんざいに言葉を投げた。
「今日も遅かったのね」
「ああ。皆いいアイデアを出すもんだから纏まらないんだ。その割りに俺の意見は無視して会議を長引かせるんだよ」
「でも誇らしいって顔してるわよ」
ネクタイを無造作に弛めていると、香が飛び込んできた。
「なあ香。少しいいか」
「なあに」
一馬がネクタイそのままにソファーに座ると、香も倣いフローリングの上に敷かれている白いカーペットに座った。
「実は部長から娘さんを貰って欲しいと打診があった」
ゆっくり香に視線をやると、目を丸めぱちくりしていた。
「それでな、俺その話受けようと思う」
目を丸めている香の顔は相変わらず笑っているのか困っているのか分からない表情だ。
「そう。じゃあもうすぐお別れね」
「ああ。そうなるかもな。まだ正式に返事はしていないし、二人で話した事はあまりないから分からないが」
「それって逆玉ってやつじゃないの?」
いよいよ香の顔は笑いだしていた。この女にとって喜ばしいことなのだろうか、疑問である。
「部長がこのまま役員になればその可能性はあるだろうが、営業畑生え抜きだ。トップはどうだろう」
「よく分からないけど一馬にとって良いことなのでしょ?だったら是非受けるべきよ」
「振られたらまた頼むよ」
「了解。元彼氏さん」
「おいおい、まだ正式に振ってはいないからな」
へへ、と笑った香が再び一馬の体に飛び込んできた。
それを合図に接吻が始まり、粘着性のある猥音が不規則に響いていった。
衣服は乱雑に脱ぎ捨てられ、互いに何も纏わない状態になっても唇は重なったままだ。
猥音が大きくなり、一馬の吸引する対象が徐々に下の方に降りていった。二房の柔らかい急斜の先に咲いている小さな果実を口に含み、蜜を味わうように優しく舌で撫でた。
香は身体を仰け反り天に向かって悦びを吐いていた。
吐息と喜悦が交互に口を抜け、白い世界に薄紅色の息を撒き散らしていた。
大蛇のように絡まり合ったままソファーからベッドになだれ込み、そのまま二人は頂きに果てるまで何回も何十回も何百回も互いの昂りを互いにぶつけ合った。
ようやく二人が果て情事の余韻を楽しんでいる頃、ベッドの横から香が一馬に尋ねた。
「部長さんの娘さんといつ会うの?」
「予定では明日の夜なんだ。最初は部長も同席で食事に行くんだけど、その後は二人に任せるって言っていた」
「そのまま娘さんも食べちゃうんでしょ?」
「下品だぞ」
そう言うと二人で笑った。
「じゃあ明日は来ないのね?」
「おそらくな。久しぶりに定時で退社できるよ」
「体気を付けてね。良かったらお弁当作ろうか。今日泊まるんでしょう?」
「頼む」と言った一馬はそのまま意識を捨てた。
翌日の業務は狂ったほどに目が回った。
いかんせんこの繁忙期に定時上がりにするのだ。やることは山積だが、プライオリティを付けなくてはパンクをしてしまう。当然昼休みも返上、日に都合三度の会議を行い、廻ってきた議事録を読みそれを推敲し清書する。そうして出来上がった資料の束を持ち異なる議題の会議を行う。そしてマーケティングと称し外回り活動を行う。地域密着なのだから当然の事なのだが、超大手ではない弱味かマーケティングのノウハウを知らないため無駄足を踏む事も少なくない。
駆けずり回ってデスクに戻ると、もう十八時を過ぎていた。
「みんなすまない。俺今日帰るから、みんなも一段落ついたら退社していいからな」
あちこちで不満の声が漏れたが、一人の男が下劣な笑みを浮かべながら声を潜めた。同じ営業課から引き抜いた二年後輩の石田だ。
「課長代理。今日あの日ですよね」
「馬鹿。今言うな」
「でもね課長代理、うちの課だけじゃなく他の営業部署もみんな知ってますよ」
努めて平静を保ちつつ一馬が静かに周りに目をやると、すぐさま数人と目が合った。中には合った視線の先を部長である森に変える者もいた。
一馬は顔に熱が帯びていくのを覚えたが、何も悪い事はしていない。そう思う事にした。
「課長代理、いや敢えて前みたいに先輩と呼びます。先輩。この話、絶対に逃さない方がいいですよ」
「どうして?」
「だって営業事務の森沙織は営業部の華ですよ。あの通り美人だし、大学は上智。気立ても良くて裏の噂も聞かない。正にパーフェクトじゃないですか。しかも結婚までしたら出世街道まっしぐら」
そう言うと部下の石田は舌打ちを一つした。
「俺もお近づきになりたかったんですけどね。ほら部長のお嬢さんじゃ変に誘えないでしょう。だから独身の営業マンは皆悶々としてた筈ですよ」
確かに営業事務の沙織は美人である。眉はやや斜め上に綺麗に伸びており少し鋭い印象を受けるが、愛らしい黒目がちな瞳がうまいこと調和させている。涙袋もその可愛らしさに拍車を掛けていた。
特筆すべきはプロポーションだ。痩せ過ぎずしかし無駄な肉も無く、真っ直ぐ伸びた足を社内の男性社員はみな盗み見ていた。
営業のサポート内容も部長の森からあれこれ教えてもらったのだろうか、実に手際が良かった。
「まあ気負わずに食事してくるよ」
そう言い残し一馬はデスクを後にした。石田含め他の部下も囃し立てるように「いってらっしゃーい」と背中に声を掛けてきた。
一足先にシティホテルのフレンチレストランに着いた一馬は、遅れてやって来た森親子に深く頭を垂れた。お願いをされた側だが相手は直属の部長である。石田の言葉が脳裏に浮かび、粗相の無いようにしたつもりであったが、森は「ここからは普通の父親だよ」と笑っていた。
沙織の普段着は見たことがなかったが、今まで関係を持ったどの女よりも洗練された愛らしさがあり、艶かしかった。
「会社ではいつもお世話になってます。今日はお忙しい中ありがとうございます。私すごく今日楽しみにしていたんですよ」
と沙織は口の端を綺麗に上げていた。
その声も社内とはまるで別人で、直接脳に語り掛けるような柔らかさがあった。
一馬は部長の森と沙織を交互に見てみる。全く似ていない。社内では七不思議にも数えられている程だ。それを思い出し少し歯を溢した一馬は幾分気が楽になった。
三人は席にエスコートされ、晩餐が始まった。
当たり障りのない仕事の話や趣味の話、学生時代の事や最近の経済の話まで交わし、次々に注がれるワインも手伝い終始和やかな晩餐になった。
料理の味は覚えておらず、会話の端々で小さく頷く愛くるしい仕草に目を奪われていた。
可憐だ、と一馬は思った。
石田が言った通り、正にパーフェクトな女だった。言葉の中に教養の深さも滲み出ており、一馬を持ち上げる事も父親である森をおだてる事も忘れないのだ。
食後の苦いエスプレッソを飲み干し、森が切り出した。
「岡くん。今日は本当にありがとう。また一つ君の評価が上がったよ。会社にいるときとは違い、ずいぶんウェットな男のようだ」
と隣の沙織に笑い掛けた。
「いえ。会社では仕事で手一杯ですから余裕なんてありませんよ」
「それはそうだな」と森は大きく笑った。
「では私は失礼するが、二人はまだ飲み足りないかな。これからは二人に任せるが、明日も仕事だ。余り遅くならないように」
「パパ分かったから」
と沙織が笑っていた。
先に森がレストランを去り、一馬と沙織も少し遅れて店を出た。
「さて、沙織ちゃん今日はありがとう。楽しかったよ」
「私の方こそありがとうございました。岡さんて面白い方なんですね」
沙織は会話を思い出したのか、口を抑え忍び笑いをしていた。
「いや、別にこれっぽっちも楽しい男じゃないよ。それに君が思うような誠実な人間なんかじゃないんだ」
「そうですか?」
「ほら、社内で昔噂になったろう?俺が女癖悪いって」
「あんなのただの先輩のやっかみじゃないですか。気にする事ないですよ」
そう言いながら沙織は「もう一軒行きましょう」と腕を絡ませてきた。
「おいおい、もう酔ってるのか」
「あー息が詰まった」
「……どういう事?」
腕を絡ませてきた沙織からは薔薇だろうかフローラルの匂いが漂っており、一馬の鼻腔は官能的なそれに変えられていた。
「私本当はもっとはしゃぎたいんですよ。清楚でおしとやかであれ、とずっと言われていて。普通の女の子みたいに騒ぎたいのに」
沙織が頭を一馬の肩に乗せてきた。そして「私すごくもてないの」と言った。
「いやいや、何を言ってるんだ。そんな筈ないだろう。こんなに綺麗で可愛くて、男を立てる素敵な女性じゃないか」
「嬉しいな。私、岡さん……一馬さんの事好きになりますよ?」
「やっぱり酔ってるな。それは早いんじゃないかな。まだゆっくり話したのも今日が初めてだし」
どこに歩いているのか分からないが、初夏の風が酔いを覚まそうと爽やかに小さく舞っている。
一際大きな風が舞い、薔薇の香りを初夏の夜空に吹き上げていった。
「酔って……ますかね。分かりません。でも本当の事を言います。私、入社してから一馬さんの事がずっと気になってました。噂を聞いてからも。いえ、聞いてから尚更」
「君は変わってるよ。女癖が悪い男なんざろくな奴じゃないぜ?」
ゆっくりとした歩みはいつしか止まり、腕を絡めていた沙織は更に強く一馬の腕を抱いた。決して豊かではないが柔らかい二つが一馬の腕を締め付ける。
「だってそうでしょう。一馬さん程の男性なら女性の噂があってもおかしくはないわ。そんな醜聞があっても皆に優しいし、仕事に影響は出さないし。男らしい、って思ったの」
沙織は一馬の顔を見ずに続けた。
「私父の事を尊敬してるんです。大好きなんです。不器用だけど営業一筋で私を育て家族を大切にしてくれた。だから同じ会社に入りたかった。父は反対したんですけどね。大学生の頃はアナウンサーやモデルの話も聞いたんですけど、全く興味が無かったんです」
そして沙織はようやく赤みが失せた顔を弛ませ、
「父のような、父に認められるような人と一緒になりたいって思ったんです。そして今日分かりました。一馬さんがその人だって。一馬さんなら一緒にはしゃいだら楽しいだろうし、すごく素敵な方だなって再確認できました」
と言った。
健気で真っ直ぐな女だな、と一馬は思った。男女平等が盛んに騒がれ、フェミニストという言葉が一般的になった今日、珍しい女ではなかろうか。父を立て男を立て、公の場では一歩後ろに下がり、決して妬みも言わない。おそらく「女三界に家なし」を地で行く女なのだろう。同年代の若者と同じく騒ぎたいという茶目っ気も持ち合わせている。
「そんなに誉められると悪い気はしないな。歯が浮いてしまうよ」
「私、操は固いですが、一馬さんだったら……」
「え、まさか今まで……」
「まさか経験無いわけないじゃないですか。そこまで固い箱に入れられてませんよ」
明らかにシリアスな雰囲気を壊してしまったが、沙織は笑っている。怪我の巧妙とはこの事か、と一馬は胸を撫で下ろした。あの流れではいつものように強引に唇を奪っていたかも知れない。
しかし沙織は怯まなかった。
「一馬さん。私の事嫌いですか?」
「まさか。嫌いになるわけないじゃないか」
「じゃあ好きですか」
いつの間にか沙織は一馬の正面に立っており、両手で一馬のワイシャツを握っていた。反らさない瞳は少し潤んでいる。
「好き……だと思う。だけど俺やっぱりそんなに良い男じゃないし、きっと沙織ちゃんを傷付ける日が来ると思う。何よりまだお互いを知らないだろう。だから」
一馬が言い終わる前に沙織が唇を重ねてきた。少し背伸びをしているのが分かる。急に目の前に薔薇の香りが立ち込めたので些か驚いたが、沙織の唇が今までのどんなものよりも柔らかい事の方に驚いた。
一馬は目を閉じ、目の前の女を強く抱き締めた。沙織もまたその細い両手で強く一馬を抱き締めていた。
何秒経ったか分からない。お互いに顔を離すと
「キス、しちゃいましたね」
と沙織が俯きながら呟いた。
「ああ、そうだね」
「じゃあさ。一馬さん」
沙織は二歩下がり、照れているのかバッグの持ち手を指で遊ばせながら大きく言った。
「金曜日、同じレストランに来て下さい。そこで返事を聞かせてください。私八時にいます。遅くなっても私待ってます。返事聞かせてね」
そう言った沙織はくるりと翻り、乾いたヒールの音を響かせて一人夜闇に消えていった。
一馬もその姿が消えるのを確認し、反対方向に歩き出した。
帰宅した一馬は自宅のベッドに突っ伏して倒れた。
まだ柔らかい唇の感触が残っており、先程のやり取りを思い出していた。
「金曜日か。じゃあ三日間は残業だな」
また香に弁当を作ってもらおうか、いやこんなあやふやな状況で弁当を作ってもらうなんて鬼畜のすることだ、と懊悩した一馬は今日昼に食べる筈だった弁当を思い出した。
急いで鞄の中から手提げを取りだし、それを開けるとキャラクターがペイントされている小さなタッパーと銀紙に包まれた握り飯が二つあった。
香が弁当を作ると必ず握り飯があるのだ。お互いの名前から考えたのか具は決まって必ずおかかと梅であった。安直だが、堪らなく美味いのである。
一馬は握り飯を二つ食べ、すぐに眠りについた。
それから三日間はいつにも増して目まぐるしい忙しさだった。
紙媒体の製作を依頼する外注業者やWebページ作成の外注業者との打ち合わせと平行して、広告を載せてもらう営業もしなくてはいけない。更に同時平行で残りの誌面に何を載せるか会議をしなくてはならない。終電を逃しタクシーで帰宅する日もあったが、何とか格好が付き、金曜日は定時で上がれそうだった。
「悪いみんな。今日も先に上がるよ。明日明後日とゆっくり休んでくれ」
時計は十九時を指している。
周りからは不満は出なかった。それだけではなく、「早く行かないと部長に告げ口されますよ」と言われた。皆口々で一馬を冷やかしていた。
「うるさい。早く片付けて早く上がれよ」
そう言った一馬は急いで会社を出た。
八時まで十分時間はある。そう思った一馬は横浜駅南にあるバラエティーショップに立ち寄った。目当ての品を見つけるとレジに並び、包装を頼んだ。
暫く待ち紙袋を受け取ると一馬は走り出した。
息も絶え絶えになりながら走っていた一馬は、月曜日に来たフレンチレストランにようやくたどり着いた。腕時計に目をやるときっかり八時だった。
息を落ち着かせウェイターに沙織と待ち合わせだと伝える。ウェイターは「承っております」と一礼し、一馬を案内した。
沙織が座っている席に一馬が着くと、沙織は顔中を輝かせながら「ありがとう」と言った。やはり沙織は可憐で、美しかった。
一馬はウェイターに引かれた椅子に座らず、手でウェイターにもう結構だという意を示し退散させ、口を開いた。
「沙織ちゃん。今から俺は君に謝る。そしてその理由を話す」
沙織の顔から笑顔が消えていくのが一馬にも分かったが、一馬は続けた。
「今まで色んな女と付き合ってきたけど、沙織ちゃんは理想の女だ。何でこんな俺なんかと、って思うほどにね。森部長への恩や義理もある。だけど今になって気付いたんだよ。俺にとって何が一番大事か」
沙織は黙って一馬の言葉を聞いていた。それが一馬にとって痛いのだが、募った想いをしっかり伝えないといけない気がし、一馬はなおも一方的に話した。
「沙織ちゃん。ごめんなさい。俺には今恋人がいます。沙織ちゃんみたいに美人じゃないし気立てなんて言葉は知らないだろう。お洒落なんて口が裂けても言えない。だけど、だけどね」
一馬は涙を流していた。この想いにようやく気付き、理解し、認め、やっと自分に大事なものがあるんだと分かるまで五年も掛かってしまった事がものすごく後悔してならない。
香を思うと涙が止まらなかった。五年も待たせた。五年も待ってくれた。五年も悲しませた。その悔恨はあの地味な女の待ち焦がれた想いに比べたら、よっぽど些細な事なのではないだろうか。そう思うと涙は更に増してきた。
「ごめんね、嘘付いてて。俺は君を愛せない。俺には五年も待たせた女がいるんだ。いつも健気に一人で待っててさ。いつ俺が来てもいいように綺麗にしてて。何も言わずに、何も見返りを求めずに、ただ俺を抱き締めてくれた。そいつのさ」
鼻水で息が出来ない一馬に沙織はティッシュを差し出した。沙織は何も言わない。一馬の吐露を全て受け止める覚悟であろうか。
「ああ、ごめんね。こんな気遣いもあいつは出来ないんだろうな」
へへっ、と一馬は笑い鼻を拭った。
「あいつのさ。おにぎりがさ。美味いんだよ。いつもおかかと梅なんだけどさ。昔っからお弁当にはおにぎりを作ってくれてさ。美味いんだよなあ。沙織ちゃん。ごめんね。君を愛せないのは、このおにぎりのせいなんだよ」
沙織は目を丸くした。そんな顔ですら愛らしい。
「おにぎり……ですか?」
「うん。おにぎり。沙織ちゃん、君はこのレストランのフルコースそのままだ。味も見た目も雰囲気も何もかも完璧だよ。非の打ち所が無い感じかな。一方おにぎりはどうかな。見た目は地味だし、具もだいたい一つ。色んな具を味わいたいが精々三つか四つ。何とも魅力が無いんだろうね」
「じゃあ何で……」
「そんなおにぎりだから好きなんだ。昨日食べてても一昨日食べてても、今日また食べたくなる。今食べてもきっと明日食べたくなる。上手く言えないんだけど、あいつは……香はそんな奴なんだ。いなくなったら困るんだ」
周りでフルコースを楽しんでいる客は皆一馬を見ていた。一馬もその視線を感じていたが、構わない、と思った。
「本当に口が下手でごめんね。あいつのいる場所であれば俺は俺でいられる。沙織ちゃんと結婚しても多分あいつの元に行くだろう。あいつの横が一番心が安らぐんだ」
「ありがとう一馬さん。そこまで言われたら私は引き下がるしかないよね。気持ちのいい失恋です。実は私も嘘を付いてました」
「え。何を?」
「私実はもてるんですよ。あの日は一馬さんに否定してもらいたかったから嘘を付きました。あーあ、初めて振られたな」
と沙織はそっぽを向いて頬を膨らませていた。
「本当に何て言ったらいいか。部長にも合わせる顔がないな」
「大丈夫です。心配しないで下さい。私から適当に言っておきますから」
「ありがとう。じゃあ俺行くから」
「早く行ってあげてください」
一馬は沙織に深く頭を垂れた後、踵を返した。その時沙織が「それは?」と聞いてきたので、やおら振り返り、尋ね返した。
「それ、とは?」
「その紙袋です」
一馬はここに来る前に買っておいた紙袋を持ち上げ、渾身の笑みを作ってみせた。
貞女は両夫に見えず、と言う言葉はおそらく香のためにあるのだろう。あの地味な女に早く見せてやろう。
「お揃いのお弁当箱だよ」
でも毎日おにぎりは飽きない?