4 年末の準備とP子さん宅来訪
「こんなものでいい?」
とMAVOは東急ハンズの紙袋をがさがさと開けた。
「どうでした?人が多かったでしょう?」
マリコさんはリヴィングの真ん中のこたつにお茶を置く。おみやげ、とMAVOはリクエストがあったケーキ屋のパンプキンプリンを置いた。
「ありがと。人ひとひと。凄かった。でも去年よりは人が少なかったよーな気もするんだけど」
「『自粛』とか言ってますよ」
と買い物に付き合わされたP子さんが言った。
「じしゅく?」
「そう言いつつもハンズの近くの駅前では右翼団体がやかましかったですがね」
? とMAVOは首を傾げる。どうして? とマリコさんの方を向いた。
「…まあ別に自粛すること自体はいいんですけれどね…」
まあ二人とも座って、とマリコさんは上着を掛けるハンガーを渡す。MAVOはコートを、P子さんはスタジアムジャンパーを言われるままに掛けた。
「それが年末ライヴに響かなければいいんですが」
「ああ、そうですね…」
もぞもぞとこたつに足を突っ込みながらP子さんはあいづちを打つ。
「マリコさん『デル・モンテ』のケーキで良かったんだよね?」
MAVOは人数分のプリンが入った箱を指す。うすい黄色のケーキ箱には店名が流れるような字体で月のマークと一緒に印刷されていた。
「ええ。あそこの焼きプリンは逸品ですからね」
「デルモンテってどっかのケチャップか何かのメーカーじゃありませんかね?」
茶をすすりながらP子さんは訊ねる。
「嫌ですよP子さん、ドイツ語で『月』という意味ですってば」
「へー… 月」
「それでじしゅくって何ーっ」
MAVOが口をはさむ。
「あなたたまにはニュースくらい見なさいな」
「見てますよお、たまにだけど」
今は選挙戦もないことだし、と内心つぶやく。
「だったら天皇陛下が今病気だって言ってるのくらい知ってるでしょう?」
「ん? それで自粛? 自粛って、だって、どーして?」
「いや、誰が言い出したかは知りませんけれどね、そんな時に大々的にお祭り騒ぎするのは不謹慎だ、とか何とか言ってるんですよ」
「ばっかみたい」
「ま、ね、まあ確かに隣に病人がいるならそうかな、とワタシも思うんですがね」
「あーんなでかい、静かでただっぴろい、自然てんこもりの皇居の中にいる人のことで日々つつましく暮らす我々が『自粛』する義理はないと思うけど」
「なんかコトバはともかく、どっかの議員さんもそんなこと言ってましたなあ」
P子さんはMAVOにしては珍しい発言にふと思い出した。
「どっかの議員さん?」
「何って言ったか、名前は忘れましたがね」
本当に。何て言ったかなあ、女性議員だった気はするんだけど、とP子さんは首をひねった。
「まあ別にその位だったらいいですよ。過去の歴史をいいようにいいように解釈するどっかの政治家よりはよっぽどマトモですからね」
「過去の歴史?」
「少し言葉を変えれば全くニュアンスが違うってこともあるんですからね」
マリコさんは時々そういったニュースに本気で怒る。そしてそのたびMAVOはどうして、と訊ねるのだが、そのたびに、「それは自分で考えることですよ」と言われてしまう。
MAVOは正直言えば、政治そのものはどうでもいいのだ。だが政治に関わっている何処かの誰かのせいで関心を持たざるを得ない。
今「彼女」がどの位置にいるのか。
それは必ず自分が把握していなくてはならないことだった。例え直接的な戦闘状態になくとも、その間敵の状態を知らずにいていい、というものではない。
相手を「敵」と見なそうとするなら、自分自身もその「敵」に対抗するだけのものを持たなくてはならないのだ。
この一年で、自分はどれだけ「彼女」に対抗するだけの力を増やすことができただろうか?
ハンズの紙袋から次々と「クリスマス飾り」のモールだのリボンだのベルだのミニ・リースだの出しながらMAVOは昨年のクリスマスのことを考えていた。
昨年はこんな風に楽しくクリスマスライヴのことを考えるような余裕はなかった。
確かクリスマスライヴに出よう、と決めた直後に当時のメンバーが抜けたのである。結構それはキツイものがあった。
ただでさえ冬はナーヴァスと言うか、何やら落ち込むらしいHISAKAがさらに落ち込んだ。クラシックのレコードは毎日がんがん鳴っているし、ピアノの蓋は閉じたことがなかった。クリスマスは結局三人でやけ酒だったのだ。大半呑んでいたのはHISAKAだったが。MAVOは体質的にそう呑めないし、マリコさんはそんな二人を前にして酔える訳がない。
クリスマスの後、TVが除夜の鐘を打つ頃まで、何やら朝も昼もない日々だった気もする。HISAKAはそうだった。MAVOはそれに強制的に付き合わせされ、…その間マリコさんは大掃除していた。まあはっきり言って彼女にしてみれば、家事に関しては使えないHISAKAがスタジオにこもりっきりだったから作業ははかどったとも言えるが。
食事もスタジオに持ち込んで、ただただドラムやピアノと戯れたり、レコードやCDをかけまくったり、じゃれたり、このメロディを歌え、と強制させたり何やら滅茶苦茶だった。
だが初日の出を偶然見てしまった時、二人が目を覚ますと、カーテンの向こうの窓が綺麗だったのだ。
マリコさんはこのスタジオの窓も磨いていた。それがいつであるのかHISAKAには記憶がない。
それで結局、いい加減何とかしなくちゃね、と起きあがったのだ。
今年はまとめて見れば、MAVOにとってはいい年だった気がする。何はともあれ、ライヴの動員数もどんどん増えたし、オムニバスにも参加したし、おまけにスタッフまで増えた。
現在のスタッフは、エナ&マナミの高校生二人組と、ギター小僧の、F・W・Aのローディだったカトー君とサトー君の二人、それに十二月になってからオキシの店長エノキから紹介されたなかなかタフそうな女達。
自分達の周りにだんだんこうやって人が増えてくる。MAVOにとってはひどく新鮮な感覚だった。
はっきり言って、自分だけでは絶対に人など集まらない、とMAVOは思っていた。自分はそういう性格ではないのだ。
決してもともと明るい訳ではない。TEARのように明るくまっすぐ豪快に―――実際はどうあれMAVOにはそう映っていた――― はできない。FAVのように華がある訳でもない。P子さんのような「誰が何と言おうとマイペース」になれもしない。人の言葉ひとつに今だって傷つく。特に「あのこと」を指摘されるとそうだ。今でもあの時の落ちていく感覚を思い出すと全身に鳥肌が立つ。
自分の心が自分の感覚と一致しているのか果たして判らなくなるのだ。全てがその瞬間完全に他人事になった。まるで自分は既にその身体から抜け出しているかのように。
唇を噛む。その感覚を思い出すたびにMAVOは自分の身体をぎゅっと両腕で抱え込む。
離れないでよ。
目をつぶって、歯を食いしばって、唇を噛んで、抱え込んだ身体に爪を立てる。
痛い? そう、それなら大丈夫。
あたしはあたしで、ここに居る。
あたしはまだここに居る。まだ痛みを感じられる。血が出る?出ているならこれは現実。血が流れるだけの時間はきちんと流れている。あたしは生きてる。
冬はまだ大丈夫だ。寒いけど、それを我慢する方法は知っている。寒さならただただ耐えればいい。ずっとずっとずっと、風が止まるまで待てばいい。風が強い所だったら何も考えず歩いて歩いて歩けばいい。ただただ足を一歩一歩踏み出せばいい。そうすればいつか、目的地にはたどり着ける。
それだけの、こと。春じゃない。あの全身をなぶるような甘い暖かさで自分を油断させることはない。
まだだから冬の方がまし。ほんの少しの暖かさがすさまじく嬉しいものに感じられる。その暖かさに疑問を持つこともない。疑問を持つ自分に自己嫌悪することもない。
「ほらMAVOちゃんミニツリー」
袋からP子さんが高さ十センチ程度のツリーを出す。
「あ、可愛い」
マリコさんも見た途端そう感想をもらす。でしょ?とMAVOはにっと笑う。
「こういうの、好きですねアナタ」
「うん好き。P子さんはクリスマスって好き?」
「んー… まあ好きですね。パーティには酒がつきものだし」
「飲んべえ」
「ライヴの後、何処かへ行くんでしたっけ? マリコさん」
MAVOの感想にはかまわずP子さんは他のちまちまものを取り出しながら訊ねる。
「クリスマスですか? いや別にクリスマスはそこで解散ですがね、27日には後で『お食事会』しようってことはハルさん言ってましたけど」
「お食事会?」
「MAVOちゃん聞いてませんでしたね…? メンバーとスタッフで集まって忘年会しようってあのひと言ってたでしょう?」
「だって27日って横浜じゃない」
「何処だって大して変わりませんよ。それにクリスマスだのニューイヤーズイヴだのってのは皆それなりに用事があるでしょう? P子さんはないですか?」
「ワタシ? …ああ、そういう意味ではないですねえ」
そういう意味とは何じゃ、とMAVOは聞こうと思ったがあえて止した。代わりに出たのは、以前TEARに聞いたのと同じ質問だった。
「P子さんはクリスマスを一緒に過ごそうかって相手はないの?」
「それは恋人がいるかどうか、という意味ですか?」
MAVOはうなづく。
「どこまでが恋人なのかよく判りませんが… 世間一般で言う、『一晩を明かす』相手は今のところ居ませんねえ」
「そお?」
「そう見えませんか?」
見えるが。MAVOは答に詰まる。
「どーもワタシと会うと、男達はワタシが異性ということを忘れるらしいですよ」
「判らなくもない」
「こら」
P子さんはくすっと笑うと、ぽんとMAVOの頭をはたいた。
でも。
MAVOは珍しい彼女の笑顔を見ながら思う。
決して女だってことを忘れさせるような体型ではないのに。
P子さんは決して悪い体型ではない。TEARほど起伏に富んでいる訳ではないが、胸も腰もある程度はある。少なくともFAVのように「無い」部類ではないし、マリコさんのように巧みに隠している訳でもない。
考えてみれば、MAVOやFAVよりずっと大人の女性の体型と顔つきをしてはいるのだ。ノーメイクだからぱっとはしないが、細くはない眉だの、いつも眠そうだが、よく言えば動揺することのない目だの、結構一度見れば記憶できるタイプである。それほど頬に下手な肉がついている訳でもない。目と鼻筋のバランスも悪くはない。…決して欧米人タイプの派手なバランスではないが。
少なくとも、あたしはすぐに覚えたわ。
自分の素顔が「覚えにくい」ものであることはタイセイをはじめ、何人からも指摘された。そのせいか、MAVOは人の顔を「覚えやすい」か「覚えにくい」で分類するクセがついている。P子さんは「覚えやすい」タイプだった。いや、PH7のメンバーは皆そうだった。決して化粧はしなくとも、一度で覚えられる顔を持っていた。
だがそれは「男に好かれる」モノとはやや違うらしい。
「じゃあそういう経験は?」
「あるように見えますか?」
「…」
MAVOは詰まる。果たしてこの答は。
「もうその位にしときましょうよ、MAVOちゃん」
くすくすとマリコさんは笑う。
「んもう。そういうマリコさんはどーなのよーっ」
「私ですか? 学生の時には何人かと」
あっさりと言う。
「男も女も、上手い方も下手な方もいろいろいましたよ」
あまりにもしゃあしゃあと言うので、MAVOは真っ赤になる。P子さんは再び表情を消した。
MAVOは気付いているのだろうか?明らかにこれは嫌みが混じっている。
「経験豊富な方はいいわねえ」
「それでもいつも本命は手に入らないんですよ。人間なんてそんなものですかねえ」
「そういうものよねえ」
「MAVOちゃん」
P子さんはタイミングを見計らって声をかけた。
「はい?」
「今日はこれから暇ですか?」
「ん? 暇。HISAKAは今日いないし、あたしは暇」
「じゃあ、ちょっとつきあってくれませんかね」
「ん? さっき帰ってきたばっかなのに」
何なんだ、と目を見張る。
「いや、妹へのクリスマスプレゼントを忘れていたんですよ。でもワタシはそういうの選ぶの苦手で、アナタに頼もうと思っていたんですが」
「忘れてたっての?」
この寒いのに、と顔を歪める。
「で、たまにはウチに遊びに来ませんか、と」
「P子さんのウチ?」
「ええ」
P子さんはほんの少し口の端を緩めた。
「泊まり?」
「ええ。別にウチは女三人家族ですからアナタも大丈夫でしょう?」
「行くっ」
いいですね、とP子さんはマリコさんに目で訊ねた。マリコさんもうなづく。確かにマリコさんもこの緊張状態を作るのは好きではなかったのだ。だいたいその状態を作り出すのはMAVOだ。自分ではない。そんな軽はずみな真似は自分はしない。
「HISAKAにそう言っておいてね」
「はいはい」
玄関でマリコさんはひらひらと手を振る。
二人の気配が消えてから、マリコさんはぐっと歯を食いしばった。考えなくては。次の手を。こんなことで揺らされるような神経では勝てない。自分は勝つためにこの戦線に加わっているのだ。HISAKAのために。
考えなくては。
*
そして再び街中である。ただし先刻まで出ていた所ではなく、P子さんの家に最も近い「街」ではあるが。
「妹って幾つ?」
「アナタと大して変わらないと思いますがね」
「あたしと似てる?」
「いんや。アナタとは全く似てない」
「? でもあたしにプレゼント選ばせるの?」
ファンシーショップだの動物グッズだの、あまり「生活」とは関係ないフロアでMAVOは訊ねる。真っ赤な髪のP子さんと金髪のMAVOは明らかにこの中では浮いていた。こういう所へ来ると、そのテの恰好が如何にいる一地域でしか通用していないものかよく判るのだ。
MAVOは長いびろうどのスカートに、上はコートを着ていたので、あまり恰好と髪との違和感は夏程にはなかった。一方のP子さんは、ジーンズにジャンパー、秋の頃と大して変わらないが、ただ中にセーターが一枚増えていた。
「いやだって、HISAKAやTEARやFAVの好みってあまり『女の子』ではないでしょう?」
「まあそうだけど… でもP子さんの好みだっていいじゃないの」
「それも一応考えたんですが… どうもワタシが自分で選んでると、だんだん目が楽器だのレコード屋だのプロ野球グッズだのの方へ行ってしまいまして」
なるほど、とMAVOは納得した。それは確実に妹の趣味ではない訳だ。
「ま、わりあい女の子なひとに選んでもらった方が確実かなあと」
「へえ」
MAVOは感心したような声を立てた。何ですかその声は、とP子さんは訊ねる。
「いや、P子さんってそういうことも結構気が回るひとなんだ」
「気? 回ってます?」
「回っているように見える」
ありがとう、とまたぽんと頭をはたいた。
*
「ただいま帰りましたよ…」
「こんばんわ、お邪魔しまーす…」
「あ、こんばんわ」
P子さんとよく似た、高くも低くもない声が出迎えた。
「ごはんできてますよ。お客さん?」
「そ。ウチのヴォーカルのMAVOちゃん。MAVOちゃんこっちは妹のユウコさん」
「あ、はじめまして…」
「はじめまして。ごはんまだですね? 食べてきます? 食べてってくださいよ」
矢継ぎ早に飛び出してくる言葉ではあったが、社交辞令ではないな、と瞬間的にMAVOは感じた。
「母上は?」
「帰ってますがね。でもごはんは多く炊いてあるし、おかずも今日は汁物ですんで」
「それは好都合」
入って入って、とほとんど手を引っ張りかねないユウコの勢いに、慌ててMAVOは靴を脱いだ。家の中からはビーフシチュウかストロガノフか、そんな香りが漂ってくる。
「今日はハヤシライスですよ」
「先にワタシの部屋で服置いてくといいですよ」
あ、柔らかいな、とMAVOは思った。何が、と言い表せるものではないが、強いて言えば、この家に漂う雰囲気が、だった。
HISAKAやマリコさんと住んでいる「家」と自分の生まれた家と、どちらにも無い空気だった。確かにマリコさんの口調も柔らかいし丁寧なんだが、P子さんとユウコが喋り合うのとは違う。何処かに自分達には緊張感が潜んでいる。
ここには緊張感が全くない。
「母上ーっ、お客さん」
「あら」
玄関が騒がしいから、と廊下に母親が顔を出した。ぴょこんとMAVOは頭を下げる。
「あ、こんばんわ、はじめまして…」
「こんばんわ。お名前は?」
にっこりと笑って母親は訊ねる。初対面の人間と話をするのに慣れた口調だ。
「ウチの母上は先生なんですよ」
やや照れくさそうにP子さんは言う。先生。なるほど、とMAVOは思う。
「あ、え…」
言い掛けてMAVOははっとする。条件反射。何で今ごろ。
「…MAVOです」
「? 可愛い名。面白い名かな? 誰か美術に詳しいの?」
「え? 何で判るんですか?」
「学生のときのわたしの専攻は美術だったのよ。現代美術史」
「あれ、そうでしたっけ?」
「何を言っとる。わたしは何度も説明したぞ。覚えていない君達が悪いっ」
はて。MAVOはそう言って娘の頭を順繰りにこづく母親を目を丸くして見た。
「ま、とりあえずMAVOちゃんこっちおいでね」
P子さんは手招きをして二階へ向かう階段から声を掛ける。はーい、とMAVOは気を取り直した。
*
「うらやましいな」
P子さんの部屋の、彼女の隣に敷かれた客用布団の上で、枕を抱えて、ぺたんと座ってMAVOはつぶやく。
「はい? 何が?」
「うーんと… 何という訳でもないんだけど」
「何でしょうねえ?」
「変わった家族かなあ、と」
「ウチですか?」
そ、とMAVOはうなづく。
「変わってますかねえ」
「変わっている… でもあたし『普通』のってよく判んないし…」
「『普通』って?」
「一応ほら、『サザエさん』みたいな」
「ああ」
P子さんは苦笑する。
「アレは『普通』じゃあありませんよ。アレは作る側のこうあってほしいって奴じゃあありませんかね?」
「そうなの?」
「まあアレと比べれば確かにウチは『普通』じゃあありませんね。親父いないし」
「あ」
しまった、とMAVOは口に手を当てる。P子さんはその動作にすぐに気付き、
「アナタが気にすることじゃないですよ」
「んー… だって」
「MAVOちゃんはどういう家だったんですか?」
「うち…」
P子さんはさりげなく訊ねていたが、実はなかなかタイミングを見計らってこの質問を投げていた。MAVOが事情を抱えた子であることはHISAKAからもTEARからも少しは聞いている。
別に熱心に聞きたいということはない。家庭環境がどうあろうと、MAVOの声は気にいっている。MAVOも自分のことは気にいってくれているようだし、それはそれで充分だと思う。
ただMAVOが自分に訊ねたことで後悔しているようなのが少しだけ不公平かな、と思ったので。
言いたくなければ言わなくてもいい。ただ言いたいようなら存分に言えばいい。その程度である。
「変な家だった」
「ふんふん」
「あたしも父さんってのはいないの。知らない。生まれてから記憶がない。誰かも知らない。あのひとがそのことに言った記憶もないし… あのひとから話しかけられた記憶ってのもほとんどない」
「あのひと、というのはお母さん?」
「…とも言うわね」
MAVOはその単語を口にしたくなかった。自分が彼女を自分に対する役割で呼ぶのは「母様」である。HISAKAはそれを時代錯誤な単語だと言った。でも、そう言わなくてはならない気がした。MAVOの通っていた学校の友達は母親のことを必ずそう呼んだから、そう呼ぶものなんだ、とインプリントされてしまったのだ。幼稚園の時。それ以前に彼女のことを呼ぶ単語は自分の中にあっただろうか?いや、なかった。
「うちの親父は働きすぎで死んだんですよ」
「過労死?」
「ともいいますね。学校の教頭をやってまして。なかなかそれがホネの折れる仕事だったよーです。ワタシには判りませんが」
P子さんは布団に潜り込む。電気はどうしますか? と訊ねる。
「消していい?」
「どうぞ」
そして天井の電気のひもを引っ張る。部屋の中は真っ暗になり、相手の顔も見えない。
「先生稼業ってさ、大変だろうな、と思うよ」
「でも親父は結構それでもその仕事を好きでやっていたようですしね… まあ寿命が縮まったことは事実ですが… ある意味じゃあ充実した一生という奴を送ったんじゃないかと思いますがね」
「そお?」
「ワタシが思うだけですから、実際はどうか、何て墓の中に入ったひとには聞けませんからね」
「悲しかった?」
「どうですかね」
「だって家族を亡くしたら悲しいものじゃないの?」
「アナタのお母さんは亡くなったんですか?」
「ううん、あたしじゃないけど… でもそういうものじゃないの?」
「悲しい、という感情がまずよく判らないんですよワタシは」
は? とMAVOは見えないながらもP子さんの方を向く。
「そのひとがいない、というときに変な感じ、は受けるんですがね、だけど、それだけなんですよ。だから、どう、という感じがワタシにはないんです」
「だから、どう?」
「いなくなったから… 例えば食卓の食器が消えたり、靴が消えたり、いつも勝手に入ってきた声がしなくなったり… そうなっても、ワタシはこう思うだけなんですよ『そうか、無いんだな』」
「HISAKAとは違うんだ…」
「そうですか」
「HISAKAは違うの。いなくなったひとのことをずっと探してるの。そこにいないことが辛くて、似たものを探してるの。でも変なのよね。だっていなくなったひとには絶対にできないことを代わりにはするのよ」
「ふーん…」
「P子さんがどういう感情を悲しいと思ってて、それが自分には無いと思ってるかは判んないけど… 代わりだってことを感じる時ってのは、結構悲しい、という感情だと思うの。胸が締め付けられる」
「苦しいですか?」
「うん。でもそれがどうしてだか、あたしにも判らない」
「世界は難しいもので満ちてるんですよ」
「あたしもそう思う」
そこでMAVOは言葉を止めた。やがて止まった言葉の代わりに心地よさそうな寝息が聞こえてくる。
P子さんはMAVOの言葉の意味を考えていた。前半の、彼女の家族についても気にかかることはなくはないが、それ以上に後の話は気になった。
HISAKAは誰かを亡くした。
HISAKAはMAVOをその身代わりにしている。
だけど亡くしたひとは決して現在のMAVOのようには扱えないひとである。
MAVOは自分が身代わりであることが悲しい。
その四つがMAVOの話からは取れた。別にそこまで聞こうとは思ってはいなかった。MAVOが言うとも思っていなかった。だけどMAVOは言いたがっていたらしい。TEARも以前言っていた。MAVOは時々発作的に自分のことを喋りたくなるのだと。
それは判らなくもない。彼女に父親のことを話してしまったのは予想外だったが、自分の中にも彼女程ではないが、そういう部分がある。
眠気が迫っていた。だが今彼女聞いた部分は、忘れない方がいいことではないか、とP子さんは感じていた。




