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3 風邪っぴきとかじゃれつきとか。

 何故ロックをしようと思ったか。HISAKAはマリコさんにバンド結成当時、こう言った。


「一つはまあ、あの音が好きになった、ということもあるわ」


 一つ。まだあるのか、とマリコさんは訊ねた。


「だけど別の意味で重要なことがあるわ。彼女の関わりない所で、彼女以上の圧倒的な支持を受けること」

「そのルートがロックだ、ということですか?」

「カウンター・カルチャーだからね。まほちゃんの話からすると、『あのひと』はロックは嫌いということだわ。それでいて世代的には、わりあいカウンターカルチャーの力をどっかで信じている… 信じていたかった世代じゃあないかと思うの。と、いうことは、よっぽどその世界が彼女の属する世界に接近… じゃなかったら彼女の世界を脅かす存在にならない限りは無視する分野だと思うの」

「彼女の視界の外で力を持つことが大事だと」

「と、あたしは思うということ。本当に脅威になったら… どうかしらね」


 まあ方法としては、悪くないとマリコさんは思う。ただそれは机上の理論だ。

 何と言っても、感性が最も要求される世界である。感性と、技術と、運。これが揃っていれば、あとは自分もサポートできる。

 そこでマリコさんはその三つが自分と、当時の「ハルさん」と「まほちゃん」に揃っているかどうかを考え始めた。

 技術。

 これはおそらく大丈夫だろう、と思った。ハルは練習熱心だったし、もともと音感とリズム感はそれまでの生活で養われている。まほの方もそう悪くない。

 感性、という点。

 これはハルよりもまほの方がすさまじいものがあった。

 声。

 自分はどうやらそこに引っかかるものはなかったようだが、「コンテスト」の結果の話やら、ハルが「墜とされた」という感覚だのひっくるめて考えると、確かにまほの声には何か人を引きつけるものがあるらしい。ハルもセンス自体は悪くない。それに大柄で美人、というのは武器になるだろう、と思った。

 と、なると、後は運だが。

 こればかりはマリコさんには考えることが出来なかった。予想ができないから運、なのだ。

 上手く情勢を読んで、その波に乗る。これはテクニック的なもの。ただ、その波の到来を本当に掴むのは運だ。テクニックでは「おおよそ」しか掴めない。マリコさんは、自分が「おおよそ」の部類だということは知っている。だが「運」のいい方ではないことも知っている。

 それではハルやまほは果たして「運」がいいのか。良い方にせよ、悪い方にせよ、滅多にないようなことを呼び寄せてしまう体質だろうか。それは全く予想がつかなかった。

 だから、これは賭けだった。

 そして、長い長い戦争の始まりのような気がしていた。その戦争は、結局はたった一人に、致命的なダメージを食らわせることができるかどうか。そして、そこまでたどりつくには、すさまじい数の段階が必要だ、と。

 だがそこまでしてまほのためにする必要があるのだろうか、とマリコさんは思わなくもない。

 正直言って、時々自分が嫉妬しているだろう、と客観的に判る瞬間がある。

 だが、ハルが「そうしよう」と言うのだから、自分はやるだろう。彼女の決めたことを。この先MAVOを憎むことがあったとしても、とにかく。

 自分で決めたことなのだ。



 待ち合わせて、クラブ・フィラメントの下見に行こう、と誘ったのは相棒の方だった。

 会った瞬間、あ、居た居たと抱きつかれそうになったので、丁重に腕でガードしてやった。ここを何処だと思ってるんじゃ、と出しすぎた茶を呑んだ時の顔で相棒を見ると、さすがにTEARもそれ以上のことはしなかった。ただ顔にはにやにや笑いが張り付いていたが。


「今日のバンドあんた知ってる?」

「P子さんの友達のバンドが出るとか言ってた」

「へえ。何てバンド?」

「『LUCKYSTAR』。ゴリゴリのハードロックらしいけど」

「けど?」

「でもその半分が女。それも何だか女子プロレスラーのようなごつい女とかどーとか」

「…へえ…」


 女子プロレスラーと言ってもピンからキリまでいるが、何となくTEARの言いたいことは判る。


「最近それでも増えてるんかな」

「いや、そんなことはねーと思うよ。あっち(北関東)でも珍しいとか言われてきたとかだとか」

「珍しい、ねえ」


 その珍しい女達の一部に自分達も入るのだろう、とFAVは思う。外見がどうあれ、腕がどうあれ、ひとくくりにしたがる連中は存在する。

 待ち合わせた場所からフィラメントの最寄りの路線の駅まではやや距離があった。この時期は最も夜が早く、朝が遅い。五時になったばかりというのにもう周囲は暗い。

 通りのショウウインドウには赤のリボンと緑の葉、金のベルなどでデコレーションされている。何の曲だったかな、とFAVはふと耳を澄ます。その一番音がよく聞こえるところから離れた瞬間、「そりあそび」だったか、とようやく思いだした。


「サンタクロース、何歳まで信じてた?」

「…あー… あたしゃ五、六歳くらいかなあ」


とTEAR。


「早え… あたし小学校二年くらい」


 FAVは意外な気がした。


「クリスマスってのは、それが来るってことだけでブレゼントだ、って昔ラジオで聴いたことがあるんだわ」

「へえ」


 そう言ってTEARはある大御所ポップスバンドの名をあげた。


「あのバンドがまだ二枚か三枚くらいしかアルバム出してない頃だったかな」

「かなり昔じゃん?」


 FAVはややあきれる。


「別に日本人だからさ、キリストさんがどーとかなんてないけどさ、ただあの何か知らないけどうきうきするような」

「…まあコマーシャリズムに踊らされてると言やそれまでだあね」


 FAVは肩をすくめる。


「まーね。でもたとえそーだったとしても、誰かに何かしてあげたい、とか思える日ってのはやっぱり貴重さあ」

「そう思える訳?」

「そう思えない訳?」


 そう言われてしまうとFAVはぐっと詰まる。


「まああたしゃあんたには一年中いつでも何かしらしてあげたいなあ、と思ってはいるけど?」

「ああそーですか」


 ふと減らず口が止まったと思ってFAVは横の相棒を見る。何やら陽も出ていないのに眩しそうな表情になってる。と、大きくくしゃみをした。


「あーすっきりした」

「やだあんた風邪ひいたんと違う?」


 そう言えば、何か浮かれ具合が妙だとは思った。


「風邪? そんなのひいた記憶はないんだけど」


 そう言ってTEARは自分の手でFAVの額に触れ、ついでのように自分の額にも手を当てる。


「熱はないない。でもFAVさんは低すぎ」

「何言ってんのよ、ちょっと手離しなさい」


と、自分の額に置かれた手を取ると… 妙に熱い。


「ああ?」


 FAVは上目づかいで相棒を見る。


「帰んなさいっ! 帰って寝てろ!」

「一人じゃ淋しいんですがねー」

「たわけーっっ!!!」


 わざとらしくしなだれかかってくる奴には鉄拳を一発… くらわせてやりたかったが…


 結局送るはめになってしまった。その場で落ち合う予定のP子さんに電話をかけると、驚くことに「まだ」いた。

 事情を説明すると、いつもののんびりした声でいいですよ、と答え、自分一人で行くから身体に気をつけて、と付け足した。

 何となくそれだけ聞くとFAVは安心した。

 家に置いてあった電子体温計を無理矢理口に突っ込んで計ると、見事に三十八度五分あった。寝なさい、と一発怒号して、とにかくFAVはTEARを布団の中に押し込んだ。

 布団の中に入ってしまうと、この女は実に寝付きが早かった。しかも天下太平な顔をして眠る。熱があるなんて感じられないほどに。

 だが額に触れるとやはり熱いのだ。もともと自分なんかよりずっと体温が高いひとだから、同じ体温でも自分よりは楽なんだろうけれど。

 何でも高温期だといつも三十七度くらいが平熱なのだという。そうそう心配することないのかもしれない。

 でもついつい、四畳半一間についているキッチンの隅に置かれている冷蔵庫にあった氷を出したり、リサイクルコーナーで買ったんだよ、と自慢していた、なかなかこぢんまりとしたいい趣味のクローゼットの中にきちんと入っていたタオルを濡らしたり、FAVはこまめに動いてしまう。

 はっきり言ってどうしていいのか判らないので、とりあえず動くしかないのだ。

 一体どーしてこうなるんじゃ、とFAVは思わずにはいられない。出会って以来、自分のペースを思いっきり狂わされっぱなしである。

 だがその狂わされ部分はそう悪い気分ではない。

 会えば会うごとにTEARはFAVに雨あられと誉めコトバを降らせる。好き好き大好きと臆面もなく言う。スキンシップが大好きなので、気がつくと肩組まれたり、頭撫でられたり、背中から抱きついてくる。もちろんそのたびにFAVは暑苦しいだのうっとおしいだの言って振り払うのだが、それでもめげずに毎度やってくる奴には結局根負けする。何度か泊めたこともある。

 と、いうのも、FAVは何だかんだ言って、TEARのコトバだの行動だのが、本気であることだけは確信していたのだ。好き好きと言う言葉にしたって、何だかんだ言ってもTEARは自分以外の人間に降り注ぐようなことはないのだ。彼女を良く知っている昔からのベース関係の友人に聞いてもそうだ。たいてい最近の彼女のその態度を説明すると絶句する。

 ではさて、そう言われている自分は一体彼女のことをどう思っているのだろう。FAVはそれを自問する時、どうしても考え込んでしまうのだ。

 FAVは言いたくも認めたくもないのだが、自分は彼女のことがとても好きらしい。

 本当に、認めたくはないのだ。何となく負けたような気分がする。しゃくに触る。確かに狂わされっぱなしの調子は悪いものではないが、それとこれとは話が別である。

 無闇やたらに抱きしめられたりする時に、それをうれしがっている自分がいる。それが怖いのだ。このままずるずると、相手のペースに呑まれてしまうような恐怖。それは好き嫌いとは別の感情である。


 これはあたしじゃないんじゃないか?

 これでいいんだろうか?


 その思いが何処かでFAVにブレーキをかける。


「…どーしたの?」


 ぼんやりとしていたらいつの間にか目を開けた相手に手を掴まれてしまった。


「どうもしない。寝てなさいよ」

「のど痛い。あまりいい夢を見ない」


 珍しい、とFAVは思った。目がまだ半分寝ている。いつもなら起きぬけでもぱっちりとしている目が開ききらない。

 握りしめる手が汗ばんでいるのが判る。汗はすぐに周りの空気に冷えて、TEARの手を冷たくする。


「悪い夢?」

「どうって言い表せるもんじゃないけど」


 やはり半分眠っているな、とFAVは思う。言葉の調子が投げやりだ。いつもならある程度気を遣っている部分が消えている。


「ものすごく世界が尖っている」


 ?


「焦点が合いすぎる」


 ??


「何もかもぐぐっと迫ってくる。見ていて痛いくらい。それであたしはその尖った上から落ちる」

「何言ってんの」

「落ちたと思ったら、あんたがいた。よかった」

「…」

「居てよ」


 まだ熱い手がFAVの手首を掴む。思いのほか強い力に、FAVは身動き取れないのに気付く。


「離しなさいよ」

「やだ」

「どーしてよ」

「離したらいなくなる。居てよ」


 ちょっと待て、とFAVはちくん、と胸の真ん中に針を刺されたような気がした。耳を疑う。こいつがそんなこと言うか?


「ちょっと待てあんた今…」


 問い返す。だがその瞬間FAVはがっくりと肩を落とした。目を閉じて、相棒は再び眠りについていた。手を握ったまま。

 どうしたものか、とFAVは思った。とにかく離さなくては動きも取れない。はあ、とため息をつく。

 考えてみれば、今まで、この友人が弱音を吐いたところなど聞いたことがないのだ。弱音どころか、どういう暮らししてきて、何を思って今までやってきたのか、そういうことも聞いているようで全然聞いていない気がする。

 確かに何があって家を飛び出したかは聞いた。昔々はどういう女の子だったのか、も聞いた。どうして自分が気にいったのか、好きなのか、そういうことも聞いた。

 だけど、それでもまだ何も聞いていないような気がする。彼女は自分が聞けば、ある程度相手は答えてくれるということは判っている。だけど自分から訊くのは何となく口惜しい。

 TEARは自分にいちいちそれまでのことを聞かない。自分が今まで誰と付き合っていたとか、誰と寝たことがあるとか、全くと言って。

 関心がない筈はない。だって自分がそうなのだから。

 関心はあるのだ。自分が最初である筈がない。


 だけど。


 ぼんやりとしているうちに時間はたってしまう。頭を軽く振って、とりあえず握られていない左手の届く範囲にあったTVのリモコンを取ると、スイッチを入れ、素早く消音する。

 特に面白い番組もしていない。ゴールデンタイムという時間帯だが、少なくとも今の自分にとっては決してその意味の時間ではないな、とFAVは思う。

 幾つかチャンネルを変えて、ようやくローカル局に落ち着く。お茶にごしのようなクリップ番組、とバイト先の同僚は言っていたが、どう見ても自分にはその方が向いていそうだ。

 音楽専門の局があったらいいのになあ。FAVは思う。CSだのケーブルが普及するのはもう少し後である。あったところでそういう局がこの国で採算が取れるようにもこの時の彼女には思えなかった。

 FAVはHISAKAのような根拠のない自信を大量には持っていない。それはTEARとて同様だったが、TEARはそれを外には出さない。自分もそうしたいものだ、とFAVは思うが、さて人間、思ったことが全て行動に出せるとは限らない。


 出せるものだったら、こいつへの態度もやや変わっているだろーに。


 何となくしゃくに触って、太平楽な顔して眠っている女の額を軽くこづく。すると気付いていない筈なのに、握る手の力が強くなる。しまった、と思ったが後の祭りである。それまでは指一本一本引きはがそうと思えば可能だろうと思えたのに、それどころでなくなってしまった。


 あたしにどーせいというのよ。起きるまでじっと待ってろってゆーのか。


 はあ、とため息をつく。仕方ねーか。


 暇つぶしの最大の方法を取ることにした。


 *


 翌朝。寝覚めのよい女は起きた瞬間から目がぱっちりと開く。ん、と伸びをしようと思って、何やら腕に当たるのを感じる。


 あらら。


 妙に暖かいと思ったら、横で猫が寝ていた。だが着ているものはいい加減である。上着と、中に着ていたセーターだけを取っただけ、という有り様で、よくある「病人を温める」シチュエーションとは違うことが露骨にTEARにも判った。


 何しとるんじゃこいつは。


 滅多にこういうことにはならないことを知っている彼女にはなかなか楽しい状況だったが、どうやらそのまま放っておいたらまた後でどやされそうなので、とにかくつついてみる。


「もしもーし」


 つんつん。


「んー…」


 本当にこれ以上にない、というくらいに眠そうな声で猫がうめく。


「朝ですがあ…」

「へ」


 その瞬間、目は開ききらないが、意識は開いた。


「何時…」


 オクターヴいつもより低い声が普段の習慣だろうか、枕元に腕を伸ばす。目覚まし時計を探しているかのようである。


「七時」

「はい?」


 意識と身体は比例しない。のそのそとFAVは身体を起こした。起こすのに二十秒、起こしてから約十秒、目の前の相手を眺め、現在の状況を把握する。


「…」


 開ききらない目のまま、不機嫌という文字を顔に書いたような表情でどうやら解放されたらしい右手を確かめると、すっと相棒の額に当てる。


「下がっとるな」

「あん?」

「熱!」

「ああ、だいたいどーゆー熱でも一日寝れば治るけど」

「化け物…」

「それより何でFAVさん寝てたの」

「…」


 覚えていねーのかこのボケ、と悪態つきたいような気はしたのだが、何せ相手は(その時は)病人だったのである。成りゆき、と一言つぶやくと、FAVは顔を洗うべく立った。

 シャツが綿モノでなくて良かった、としみじみ思う。髪がぐしゃぐしゃになっているくらいだから、天然素材の服なぞ着ていたら同じくらい皺だらけになっていただろう。


「また熱出たらいかんから早く着替えな!」


 とりあえずそのくらいの言葉しか浮かばないのだ。


 *


「あらそーでしたか」

『うん、だからごめん』

「いーですよ別に。まあHISAKAに言われた程度のことは一応見てきましたし… でTEARアナタ、もう大丈夫なんですか?」

『まあいーけど』

「本当ですか?」


 P子さんは声の表情一つ変えずさらに追求する。数秒の沈黙。


『…P子さんにはかなわんなあ…』

「…」

『実は結構感動してしまして』

「はい?」

『いや、送っただけで後は帰ってしまうかと思っていたんですがね』

「そうではなかったと」

『まあそういうことですな』

「それは良かった」

『P子さんはさあ、変だとか思ったりはしないんだ』

「何を」

『あたしがFAV好きでどーのこーのっての』

「ふむ」


 P子さんは電話でそういう話をされるとは思っていなかったので、やや内心が動くのを感じる。


「珍しいですかね」

『自分については珍しいと思ってるさ。少数派だからね』

「ふーん…」


 気がつくと、電話のある食卓のテーブルの上に、湯気の立つ熱い茶が乗っている。いつの間にやら。


「別に少数派だのどーだの、と考えたことはありませんがね…ワタシは単純ですから、好きは好きでいいと思ってるだけですよ」

『そこのところが達観してるって思うの』

「達観ですか」


 そんな大それたものではない、とP子さんは思う。基本は単純だ。明日死ぬとしたら今日何をしたいか。ただその明日が延々引き延ばされているだけなのだ。

 何でそう自分の根っこで思うようになったかは知らない。だが、今日「したくない」ことを「明日のために」することを延々していたら、決して好きなことなど永遠にできないことをP子さんは気付いている。

 それは積極的に「好き!」と言えるものでなくともいい。

 今日はかったるいから眠い、でも今日はお金が要るからバイトに出よう。それは自分で選んだことだから「したい」ことなのだ。例え頭の上っ面で「こんなこと嫌だ」とか思っていても、本当にしたくないことだったら、身体が拒否するだろうとP子さんは思っていた。

 実際そうだった。その臨界点だけは知っている。知っているし、二度と知りたくないものでもある。


「TEAR」


 何、と電話の向こう側の友人は反応する。


「ワタシは別に達観している訳ではないですよ。ただ臆病なだけですよ」


 そう? と半信半疑の声が返ってくる。


「それより『LUCKYSTAR』ですけど、いいバンドですよ。アナタ達には合いそうですね」

『へえ』

「で、そこのベースのもくずが」

『え? 何って言った?』

「あ、すいませんね。そこのベースのあだ名なんですがね、ワタシの知り合い」

『何かどんでもねえ名じゃないの?』

「いや本名は静香とかそういう名なんですがね、名字が海野っていうんですよ」

『それで海のもくず、かよ』


 下手な冗談、とTEARは笑う。P子さんは茶をすする。


「ベースやってるんですがね、なかなか面白い音してますよ。あとステージで暴れる様とか」

『暴れるの』

「だから本名よりも本人はあだ名の方が気にいってるようですよ、咲久子ちゃん」


 なるほど、とやはりやや本名が気にくわないTEARはつぶやく。


「次のライヴはまだ向こうだってことだし…向こうもアナタに一度会えたらいいな、とか言ってましたがね」

『あれ、知ってるの?』

「アナタ結構有名らしいですよ。ベーシストだけでなく」

『…へえ… じゃああたしも一度会ってみたいな。あ、でも酒はパス』

「…それは残念」

『今結構金欠だからさ、もう少しチープな感覚で』


 そういえば、こいつはこのライヴにはちゃんとチケットの金出したんだっけ、とP子さんは思い出す。


「じゃ今度酒持ってアナタの部屋行きましょうか?もくずは結構ウチと近いから」

『あ、それありがたい。じゃ時間決めて。夜なら空いてるから』

「はいはい」


 それじゃ、とP子さんは電話を切った。残った茶を飲み干す。この日バイトは休みだった。冬には野球はない。さて何かすることはあったっけ。ぼんやりと記憶をさかのぼってみる。


 …あった。


 P子さんはギターのケースをごそごそと探る。あった。HISAKAにもらったテープを取り出す。ラベルには真っ赤な文字で二つの単語が書かれていた。

 「RED」と「MODERN」である。



「『赤』と『現代的』」


 仮タイトルをどれだけ外国語でつけようと、絶対に日本語に直訳してしまって呼び名にしてしまうのがMAVOであった。


「いいけど… どういう意味があるの?」

「ん? 言葉の通り」


 まあそれはそうだけど、とMAVOは首を傾げる。


「ま、でも、どっちかというと、警戒警報、とかそういう感じにしたかったんだけど」

「RED ALERTですか」


 マリコさんが口をはさむ。


「仮想敵国は何処ですか?」

「さあ何処でしょう」

「そしたらせいぜい匍匐前進して行くんですね。まだ早いんじゃないですか?」

「どっかというと、定番ナンバーにしたいのよね」

「定番」


 MAVOが繰り返す。


「どれだけ大きな会場で出来るようになっても、絶対この時のこういう場面で使いましょ、というナンバー」

「なるほど」

「…」

「そんな顔しないで」


 HISAKAはやや上目つかいに悲しそうな顔をしたMAVOの頭を撫でる。


「あたしはいーけど… HISAKA大丈夫?」

「え?」

「HISAKA最近ちゃんと寝てる?」

「寝てるわよ。あんたよく知ってるじゃないの」

「そういう意味じゃなくて」


 眠っているのか、と聞きたかったのだ。だがどうやら答える気はないらしい。マリコさんにしても同じ質問はしたかったらしい。


「睡眠は大事ですよ」

「判ってるわよ」


 またしてもここでその会話に関しては打ち切ろう、とするHISAKAの姿勢が見えた。マリコさんとMAVOは珍しく顔を見合わせてため息をついた。


 冬は嫌いだ、とHISAKAは思う。MAVOが春が嫌いなのと似ている。一番悪いニュースをもたらした季節。ついてない時期。その時の記憶が、大気の温度や風のにおいや肌に当たる感触とともに勝手によみがえる。

 外へ出なければいいか、というとそういうものでもない。そうしたらそうしたで、朝、起きたときに窓に付く水滴だの、窓から見える景色の色だの、そんなささいなことがちょっとしたはずみでスイッチをいれるのだ。

 それは仕方がない、と思う。起こってしまったことが自分をまだ支配していることも知ってる。だがだからと言って動かない訳にはいかないのだ。

 そういう時にはとりあえずがんがんにピアノを叩く。MAVOもマリコさんも心配するが、実はHISAKAの中では昔の「弾く」のとはニュアンスが違うのである。MAVOは昔のHISAKAの弾き方なぞ知らないし、マリコさんにはその二つの聞き比べはできない。

 弾いているのではないのだ。むしろぶちこわしているに近い。音は合っている。だが昔習った、「こうしたらいい」とアドバイスされたようには決して弾いていない。とにかく覚えている指づかいを、ただその時の、苛々とも恐怖とも焦りとも悲しみともつかない混沌にまかせて動かしているだけなのだ。そうすると、それまで絶対にできなかった弾き方になる。

 その時、何となく気付いたものがあったのだ。


 壊してみるのも面白いな。


「ねえ、あたしだって自分は可愛いのよ」

「そんなこと知ってますよ」


 マリコさんは即答する。


「あなたはずっとそうでしょうに」


 HISAKAは苦笑する。



「…あー全く」


 FAVは頭をかきむしる。横で相棒はのんびりとビールなど呑んでいる。

 寄っていけば、とTEARは言った。土曜の夜。練習は長引いて既に終わって解散、という時には十一時を回っていた。HISAKAの家から帰るには、既に乗りたい列車の時間は過ぎていた。だからそれでも帰る、と言い張る猫にTEARは提案し、…それは受諾された。


「よくあんたあたしの前でそんなにのほほんとしていられるねーっ!」

「そーだね」

「本当に聞いてんのあんた! 自分ばっかり早く終わって…」

「はいはい」

「だいたい曲がいかんのよーっ! あんな、運指、無茶苦茶に無視してるからどーゆうギターメロディつけていいか解んないし、指は慣れないからなかなかいい感じに弾けないし…」

「うんうん」


 HISAKAが持ち出した「とりあえず原型はあるんだけど」新曲は二曲あった。仮タイトルが「MODERN」と「RED」とある。何が「現代的」で、「赤」なのかよく判らないが、とにかく作曲者はそう言った。

 曲はテープにピアノで入っていた。テープには歌のメロディと、一応のベースラインが入っている。それがメンバー分ダビングされていた。

 綺麗な曲だ、とFAVは思った。だがHISAKAがFAVに言ったのはその「綺麗さ」をぶちこわすようなギターアレンジだったのだ。


「だから今回はこれだけ提示することにしたの」


 にっこりと女王様はそう言う。げげっ、とFAVはその瞬間思いっきり眉を寄せた。P子さんは、無表情にカウントをとっていた。


「あの曲のあのメロディってさ、あれだけで成り立っていまうじゃねーの… あれを壊せっての?」

「まあそういうこったろね」


 もちろんTEARも同様である。ただベースというのはギターほど前に前に出て、露骨にその結果が判るというようなパートではない。それにTEARはHISAKAがそう言ったことに対しては、「面白い」と思っていたのだ。

 HISAKAの曲は確かに綺麗なのだ。極上の、美しい衣装をまとったナイスバディのレディなのだ。最高の体型の女性が最高の衣装をまとい、美しい声で話し、美しい仕草で笑うようなものだ。

 それはそれでいい。それは最高の武器だ。

 だがTEARはそれだけでは違う、と考えていた。「それではロックではない」。

 もちろんTEARとて、何がロックか、と聞かれたら決して答えられない自分のことは知っている。だがAというものとBというもの二つを並べて、「どちらがあなたにとってロック的なものですか」と聞かれたら確実に答える自信はあった。理由は言葉にはならない。感覚なのである。

 そしてその感覚が、HISAKAの原曲だけでは「ロックではない」と判断したのだ。だからそれを「ロック」にするのが自分であり、FAVなのだ、と考えている。

 だが、そこまで考えると、自分の中でどうしても不透明な部分な、納得のいかない部分があるのに気付くのだ。


「だってあたしあの曲のメロディ好きなんだよ」


 さりげなくTEARは横の猫の毛並みを確かめる。


「それでいてHISAKAの奴、ギターの判断はあたしに任せんだから…」

「うんうん」


 髪に手を絡める。


「そりゃあたしに任せるってんだからあたしを信用してるんだけど… 考え出すと止まんないじゃない… 何処でいい悪いなんて判断できるよ… でも曲…」

「そーだね」


 そう言いながらだんだん髪に入れていた手を首に回す。そして気がつくと引き寄せられていた。


「何してる」

「別にい」

「暑苦しいでしょうに! よしなさいったら!」

「やだ」

「やだってあんたねえ」

「あれ、怒ってる」


 今気付いたような表情でTEARは言うと、よいしょ、と背中を抱え込んで力を込める。


「それで?」

「それでって… だから明日も何とかしなくちゃと…」

「そーだね」

「そーだねそーだねってTEARあんた聞いてるの?」

「聞いてるよ。でもあんたは『する』んだろ?」

「…」


 正直言って、FAVはこの体勢はそう嫌いではない。背中が暖かいというのは、どういうシチュエーションであれ、気持ちいいのだ。冬の寒い朝の毛布の中に似ている。


「そーだよ」


 そしてこういう時の表情は見られたくないから、ちょうどいいのだ。たぶんひどい顔をしていると思うのだ。苛々する。だけどそれはHISAKAでも曲でもない。本当に苛々しているのは自分に対してだ。

 TEARがそれを知っているかどうかまではFAVには判らない。だが安心はする。こんな風にひどく心配もされずに、ただいつものように、もしくはいつも以上に無意味にくっつかれていると。だがそんなことは絶対にFAVは言わないが。

 TEARは――― 判っては、いるのだ。

 この猫は、辛いと言っても、絶対に「だから甘えさせて」とは言わないということを。それはTEARが掴まなくてはならない。それが彼女を自分の横に置いておくための、自分に課せられた条件だと思っていた。つかず離れず、それでいて充分に愛情を注いでやること。相手がどう取るか、は無視してもいい。そうすれば猫は安心できる。要は何をしても、必ず居てもいい場所を確保させてやること。それが上手な猫との生活法。

 やっと手の中に時々入れることができるのだから、そのための努力は努力ではない。

 きっと泣きそうな顔をしている。見てやりたい気分もなくはない。だがまあそのくらいは我慢しよう、とTEARは思うのだ。

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