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エウセビオ・オロスコ

作者: 実茂 譲

 空と草原のあいだにはただガウチョと家畜のみが存在していた。いつの間にやら鉄条網が放牧地を区切りだし、川にあのスクーナー船が煙突から不気味な黒い煤をはいて船着き場に居座りだした。そのころから全ては変わっていった。

 以前はガウチョの衆が群れをまとめてブエノス・アイレスの精肉工場まで連れて行ったものだ。群れの数が千頭を越えると、町の人間はこぞって沿道にひしめきあい、ガウチョや牛たちを見物したものだった。レモン水の売店やギター弾きがいた。上流のお偉方もバルコニーから畏怖の念を持ってガウチョたちを見守った。そうして町に入ることがガウチョたちにはとても心地よかった。大軍を率いてラテン・アメリカを解放していったサン・マルティン将軍のようにえへんと胸を張り、牛どもを率いていったものだった。どんな狭い橋でも、どんなにぬかるんだ道でも牛を一頭も減らすことなく、ちょうど千頭ぴったり。群れは組み木細工のようにまとまって動いた。精肉工場の支配人は牛の数を数えずに千頭分の代金を支払った。他のガウチョならともかくエウセビオ・オロスコの衆が連れてきたのだ。千頭なら千頭、一万頭なら一万頭、きっちり数を揃えているに違いない。数えるのは逆に失礼なくらいだ。代金をもらうと、エウセビオとその仲間たちは派手に遊んだ。うまいもんを食い、うまい酒を飲み、女たちと寝る。やがて遊び疲れて草原が恋しくなるころにはまた新しい仕事だ。こんどはドン・イグナシオの牧場が牛を運びたがっている。するとエウセビオはマテ茶をすすり、行こうぜという。一緒に組むものはエウセビオのすすめたマテ茶をすする。

「こうして男たちは働いたものだった」年老いたガウチョのエウセビオは言った。

「プリフィカシオンに工場ができるまではな」相棒のフェルナンドがぽつりと言った。

 二人の老ガウチョはため息をついた。

 ある日、川沿いにあるプリフィカシオンという町に精肉工場ができた。それはイギリス人の所有する、かなり大きな建物で牛なら一日に二百頭くらいは屠れた。次に冷凍船がやってきた。それは製氷機を積んだ最新型のスクーナー船で牛や豚を凍らせたまま、ロンドンへ運ぶことのできる大発明品だった。

 そのうち鉄条網が大草原を区切り始めた。この鉄の茨はパイでも切り分けるように牧草地帯を切り刻み、それまで曖昧だった所有権の問題を解決してしまった。

「ここからは」と政府の役人が言った。「グリーン氏の土地だ。以後、勝手な放牧は禁止となる」

「でも、お役人さん」とエウセビオ。「この時期はいつもこの牧草地で食わせてきたんだ。この土地はロカ将軍からインディオ討伐の褒美にもらった土地なんだ」

「登記はしたのか?」

「いや。将軍が口にすれば十分だ」

「知らんよ、そんなことは。よそに行くんだな」

「よそじゃ駄目なんだ。ここで食わせないとブエノス・アイレスまで大きく遠回りしなきゃいけなくなる。でなきゃ牛が痩せちまう。期日どおりに届けるためにはここで食わせなきゃならんのだ」

「ここはグリーン氏の土地になったのだ、鉄条網を壊せば器物損壊で、ウマゴヤシの一本でも食わせたら窃盗罪でひっぱってやるからな」

 エウセビオは後ろにいた二人の仲間に顎で合図した。二人のガウチョは大刀を取り出すと、鉄条網をぶったぎり杭を外して巻き上げていった。牛たちは命ぜられるまもなく、グリーン氏の牧草地へ殺到した。エウセビオは役人に大切なことを思い出せるよう仲間を呼んだ。十人ほどの屈強なガウチョが馬を下りて、刀の柄をいじったり、指を鳴らしながら、がに股歩きでやってきた。

 役人には警官と痩せた書記の少年が一人ずついるだけだった。警官のほうは小さなピストルを持っていたが、エウセビオは相手が銃の取っ手に触れるまえに喉を掻っ切ってやる自信があった。

 エウセビオは親しげに役人と肩を並べると、ゆっくり噛み含めるように言った。「なあ、お役人さんよ。おれたちはなにも役所にたてつこうってわけじゃないんだ。ただここはおれたちガウチョが好きなときに使っていいと、ロカ将軍から約束された土地だってことを伝えたいだけなんだ。ロカ将軍のことは知っているだろ? 有名なお方だ。おれたちは将軍のインディオ狩りを手伝った。そのお礼として土地を使ってもいいと言われた。こりゃ男同士の約束だから、あんたが連れてきたガキに登記だの所有権だのをごちゃごちゃ書き連ねさせる必要はないんだ。分かるだろ。男と男。おれとロカ将軍。おれとあんた。男の約束だ。たぶんセニョール・グリーンは勘違いをしたんだ。そいつは別の土地に鉄条網をかけたってわけさ。まあ、ここは引き下がってくれや」

 二週間後、エウセビオは居酒屋で酔っ払い寝ていたところを警官隊に襲われて、しこたま殴られた末に治安判事の家の前庭に立てた棒杭に縛り付けられた。明け方になり物が薄ぼんやりと輪郭を持ち始めると、エウセビオは縛られているのが自分だけではないことを知った。暗闇から声がした。

「よお、エウセビオ」

「その声はサランカだな。他に誰がいる?」

「マクシミリアノやエスピノサ、マルドナード兄弟がいるぜ」

「なんてこった。名のあるガウチョが全員じゃねえか」

「お前も鉄条網でしょっぴかれたのか」

「まあな」

「こっちもそうさ。みんな将軍からもらった放牧地に牛を離そうとしたところで役人ともめてよ。鉄条網をぶった切ったときはへらへら笑って見過ごしたくせに、こっちが一人になったら途端におまわりどもをけしかけて、めちゃくちゃに殴りやがった」

「イギリス人びいきの政府の差し金よ」マルドナード兄弟のかたわれがぺっと唾を吐いた。「やつらの食肉会社がプリフィカシオンに港をつくってよ。何でも氷をつくりだせる船を送ってくるんだってよ」

「それと鉄条網と何の関係があるんだ」

「いくら腕のいいガウチョでもロンドンまで牛をつれてはいけねえだろ。ところが氷の船はそれができるんだよ。つぶした牛をかちんこちんに凍らせれば、何日船で運んでも腐らないからな」

「だからそれと鉄条網と何の関係があるんだ」

「あんたもとろいな、エウセビオ。イギリス人はこれまでブエノス・アイレスで牛を買っていた。それには牛をブエノス・アイレスの缶詰工場まで連れてくるのにガウチョの手を借りなきゃならないが、プリフィカシオンの氷の船までなら缶詰にせず肉のまま出荷できる。おまけに鉄条網で牧草地を区切って牛が逃げないように囲い込めば、どんな馬鹿でも牛をプリフィカシオンまで運べるだろ? そうやってガウチョを食肉取引から締め出すつもりなんだ」

「鉄条網に囲われたようなもんだな」

 エウセビオは全てのみこんだ。昔、ロカ将軍とガウチョがインディオを滅ぼしたように、今度は政府がガウチョを滅ぼすのだ。

「儲けは政府とイギリス野郎で山分けってことだな」

 翌朝、治安判事は寝巻き姿のままポーチに現れると、手にもっていた冊子の束をいくつかめくった。そして、ふむというとガウチョの頭目たちにたずねた。

「フアン・サランカ。マクシミリアノ・クルス。グレゴリオ・エスピノサ。バスケス・マルドナードならびにアレヤンドロ・マルドナード。そしてエウセビオ・オロスコ」

 へい、と全員が答えた。

「逮捕状が出とるな。窃盗、器物損壊、官吏に対する脅迫、反乱教唆。なにか言うことはあるか?」

「ありやせん」

「ねえです」

「お上には逆らえませんや」

 エウゼビオをのぞく全員が諦めたように罪を認めた。みなインディアン戦争で功のあるものばかりだから、神妙にしていればすぐに釈放されるかもしれなかった。そのくらいの裁量を治安判事は許されているのだ。ただ、エウセビオ・オロスコだけは体をもぞもぞ動かし、なにか言いたいことがあるように口を半開きにした。

「なんだね?」

「判事さま。一つだけ言わせてください」

「よかろう」

 エウセビオは血の混じったツバを吐いた。

「被告エウセビオ・オロスコを懲役五年とする」

 投獄されたのはエウセビオだけだった。ふん、と彼は鼻を鳴らした。ムショにぶち込まれるのも鉄の茨だらけの大草原に戻るのも閉じ込められることに変わりはないのだ。五年の監獄暮らしを終えて、草原に戻ってみると、彼の予感したとおり大草原は跡形もなくなっていた。道路と鉄条網が迷路のように張り巡らされ、あちこちに屠殺場、集合住宅、製氷工場、機械工場、カラス麦畑があった。古きよき時代を思い出させる旅籠や居酒屋、ガウチョが数人ほど腰を下ろし、ギターの伴奏で古い唄をやりながら休むための空き地すら残っていなかった。

 長年の相棒だったフェルナンドが来てくれなければ、彼は寂しさのあまり死んでしまっていたかもしれなかった。

「よお、フェルナンド」

「よお、エウセビオ。生きてたんだな」

「まあな。調子は?」

「いいわけねえよ。草原がどうなっちまったか見たろ?」

「ああ」

「みんな政府とイギリス人のせいだよ。いま牛の追い込みをやってるのはガウチョじゃねえんだ。移民してきたナポリ人だよ。やつらは銃を一丁とわずかな金で牛追いをやってるんだ。あんなの牛追いなんて言えないな。おれたちは土地が疲れちまわないように牛をあっちこっちに散らして食わせたもんだが、やつらのやりくちはこうだ。鉄条網で囲った一区画を丸ハゲになるまで食わせて、次の囲いへまた次の囲いへってやってる。最近じゃ餌場につれてくのも面倒になってでっかい飼料工場で餌をつくって狭い囲い場で食わせてる」

「それじゃ牛の肉は締まらんな」

「口に入ればどうだっていいんだよ。おれたちみたいに技をもって仕事やる善良なガウチョはお払い箱ってわけだ」

「寂しいな」

「ああ、寂しい」

 エウセビオは主なガウチョがどうなっているのか知りたがった。

「クルスは病気で寝込んでる。グレゴリオ・エスピノサはなんとか小さな牧場をやってるよ。マルドナード兄弟は殺された。鉄条網を切って、やつらの牧草地を食い荒らしてやろうとしたところを警官に撃たれた。フアン・サランカはウルグアイに行くってよ」

「ウルグアイ?」

「北のほうにまだおれたちみたいなのが残ってて、そのうち政府に戦争を仕掛ける気でいるらしいんだ。それでブラジルやアルゼンチンで追いつめられたガウチョ連中がウルグアイに集合してる」

「勝てるのか?」

「勝てるかもしれねえぜ。なんせウルグアイの政府だ。国がちっぽけなら兵隊もちっぽけだから、本物の男たちが集まって一旗あげれば、すぐにも白旗をあげるだろうぜ」

「そろそろヨーロッパかぶれの政府に思い知らせるときかもな。よし、おれは行くぜ。サランカに伝えてくれ」

 こうしてエウセビオとフェルナンド、サランカは国境を越えてウルグアイに入った。彼らは男らしくめかしこみ、小さな三角旗を結んだ槍を手にしてやってきた。槍はスペインからの独立戦争以来、戦うガウチョの正装と認められていた。

 ウルグアイでの戦争は彼らが参加したころには反乱軍の敗色が色濃くあり、むしろウルグアイのガウチョがアルゼンチンへ逃げている有様であった。三人は反乱軍の野営地に到着したが、目につくものといえばボロ雑巾のように捨てられたテントと遺棄された鉄砲、それにくすぶる焚き火だけだった。一人の老人が焚き火のそばで馬の肉を焼いていた。三人はいきなりあらわれて老人を脅かさないようわざと足音を大きく響かせて近づいた。

「なんじゃね、あんたら」

「反乱軍に加わりたくてやってきた」

「反乱なら終わったよ」

「なんだって? だって、サビエラ将軍はモンテビデオを」

「攻め落としきれなかった。政府軍が反撃してきてな。サビエラ将軍は戦死して、わしらはちりぢりに逃げるハメになった。あんたちもはやくお国に帰るといい。政府軍は捕虜をとるつもりがないようだ。それもそうだ。わしらの勢いがよかったときはわしらもそうした。捕虜の喉を畜生みたいに掻っ切って道に並べてやったもんさ。さぞ政府軍の連中は怒っただろうな。きっと復讐するだろう」

「じいさん、あんたは?」

「わしは馬を撃たれた。いま思えば、あの馬はよくやってくれた。あの場でやつが死んでいたら、わしは政府軍に捕まって首なし死体にされたところだ。ここに来るまではなんとか生きてくれた。まあ、死刑が少し遅くなっただけだが」

「おれたちと一緒にくるかい」

 老人は首をふった。「いや、やめておこう。わしはここで生まれたんだから。ここ以外で死ぬなんて考えられんよ。それにやつらも、ひょっとすると哀れな年寄りを不憫に思って見逃してくれるかもしれん」

 エウセビオとフェルナンド、サランカはアルゼンチンに戻った。槍は途中で捨ててしまった。一緒にガウチョであることを捨ててしまった。おれたちは必要とされていない。エウセビオはそう思った。まったくとんでもないお荷物だよ。

 気がつくと、古い地形が目に入った。インディオ討伐で戦場だった平野だった。月の光がふる、青白い斜面のむこうにはろくに人も住めない荒野が広がっているはずだった。エウセビオらは槍とカービン銃を手に雄叫びをあげながら、インディオを崖から突き落とすようにして荒野へと押し出していった。インディオたちは女子どもを抱えたまま、水も家畜も食べ物も陽射しを遮る影すらない荒地へと追放されたのだ。ああ、ちくしょう。エウセビオはうなった。月が照らし出した数条の道のなかに荒野へつながるあぜ道が見えた。

「おれはここらでいい」フェルナンドが言った。

 サランカはにやりと笑った。「おれはもう一度ウルグアイに戻る。それが駄目なら駄目で……」

 サランカが砂ぼこりを残して、ウルグアイ国境へと駆けていく。フェルナンドはエウセビオにたずねた。

「お前はどうする?」

 エウセビオは何も言わず、かつて彼が滅ぼしたインディオたちが辿っていった道へと消えていった。

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― 新着の感想 ―
[一言] いつも楽しく拝読しておりますまあいつも。 歌って踊る人らみたいに思ってました。牛を運んで、ただ移動さすだけではないワザも計画性もあると言うところに、感心しましたいい肉にする。(でも缶詰なん…
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