茜色の屋上で
高校生活最後の体育祭が終わろうとしている。
これからフォークダンスを行ないます、生徒はグラウンドに集合して下さい、というアナウンスが風に乗って校舎の屋上にまで聞こえてくる。だけど、私は行く気になれなかった。
私が出て行ったら困るだろうからなあ、あいつ。頬袋の中身を狙われているハムスターみたいに慌てる咲月を思い浮かべて、ひとりでくすくす笑った。
「わー、ひーちゃん思いだし笑い? 知らなかった、ひーちゃんってムッツリだったんだね」
ふいにかけられた声にびく、と肩が強ばる。だけど、すぐに力は抜けて行った。私をひーちゃんと呼ぶひとは、ひとりしかいない。……前はふたりだったんだけどな。なんて、それは未練がましかったか。
そんなことを考えながら振り向くと、思った通りのひとがいた。
「違うよ、これは思いだし笑いじゃない。だからムッツリじゃありません」
「じゃあ、なんで笑ってたの?」
茗は咲月そっくりの顔に、彼なら決して浮かべることのない落ち着いた笑みをのせて私に訊いた。当然だ。一卵性の双子だとは言っても、ふたりは別の人間なんだから。
「……ちょっと、ね」
「ちょっとって何? なーんか怪しいなあ」
「た、大したことじゃないってば」
咲月のことを考えていたと言うのは気まずくて、我ながらどうかと思うようなぎこちなさでごまかす。挙動不審な私に茗は何も言わずに苦笑して、屋上の柵にもたれた。
「ひーちゃん、フォークダンスは踊りに行かないの? 今年で最後だよ、こういうのは」
「行かないよ」
「えー、もったいない。青春してきたらいいのに。学生の特権だよ」
「そういう茗こそ青春してくればいいでしょ。きっとグラウンドでは、天下の元生徒会長様とフォークダンスを踊りたいって女子が大量発生してるんじゃない?」
「どうせ同じ顔のやつがいるんだから、咲月で間に合わせてもらうよ」
咲月の名前を出したときの妙に刺々しい声を聞いて、今度は私が苦笑した。茗が気にすることじゃないって言ってるのになあ。
「咲月は今年、彼女いるでしょ。ほかの子とは踊らないよ」
「だったら尚更、行きたくないね。咲月の分まで俺が踊る羽目になるに決まってる」
「あー、確かにそうかも」
例年の大盛況ぶりを鑑みれば、そうなるのも想像に難くない。去年も一昨年も、もう二度とフォークダンスなんかやりたくないとふたりして大ブーイングだったし、今年もそうなっちゃうんだろう。
「でもさ、ひーちゃんは遠慮なく踊ってきていいから」
「だから、いいってば」
「あんな馬鹿に遠慮することないんだよ」
怒っている茗の声に私はやっぱり苦笑するしかなくて、グラウンドでざわめきながら大きな円を作っている子たちへと視線を向ける。この雰囲気、いいな。みんな、楽しそうだ。
私は、咲月のことが好きだった。ずっと一緒にいた幼なじみで、なんの疑問もなくこれからもそうだと思いこんで、いつの間にか好きになった。だけど、実際に咲月が好きになったのは別の女の子だったというわけで。ほんと、ありきたりな話だ。
お相手は咲月と同じバスケ部の一個下の後輩で、私は誰よりも先に恋心を打ち明けられてしまった。その上、両想いになれるよう相談に乗ってくれって、咲月は私のことを信頼しきった目で見つめて頼みこんだ。そうして、私は自分の恋を終わらせることに決めた。だって、その後輩ちゃんも咲月のこと好きなのは火を見るよりも明らかだったから。
私の後押しの甲斐もあって、ふたりは去年のクリスマスにめでたくカップル成立の運びとなった。
これだけなら、私が口を噤めば全ては穏便に済んだんだけど。誤算だったのは、私の恋心の方も外野から見たら火を見るよりも明らかだったらしいってことだ。茗と共に校内の女子人気を二分する咲月が後輩に掻っ攫われたことに腹を立てた子たちが、私のことを可哀そうだって言い出した。
日香里はずっと前から咲月くんのことが好きだったんだよ。なのに、あんないきなり出てきた子に盗られて可哀そう。
噂がふたりの耳に届くのは私に伝わるよりも早く、それから咲月と後輩ちゃんのあいだはぎくしゃくしだした。そして、私と咲月のあいだもぎくしゃくした。
私が視界に入るだけであんまり慌てる咲月を見ていられなくて、今はもう近付きもしない。少なからずあった幼なじみならずっと側にいられるという計算も、あっという間に雲散霧消した。
別に私は可哀そうじゃないんだよって噂の鎮静化を図ろうとしても、誰もまともに取り合わない。挙句の果てには、ひとりだけいい子ぶろうとしていると言われる始末だった。
猛烈に怒った茗がその手の話題に関して緘口令を敷くまで、騒動は続いた。生徒会長さまさまだ。夏休み前に茗が生徒会を引退したときに、このお礼も兼ねて盛大に慰労会を開催するぐらい助かった。
噂が聞こえなくなってしばらくして、咲月と後輩ちゃんが仲直りした。そう、茗に教えてもらった。
「ひーちゃんは何も悪いことはしてないんだ。こんな、こそこそ隠れるような真似しなくてもいいんだよ」
「そこまで言うほどのものじゃないよ。ただのサボりでしょ?」
茗は眉根に皺を寄せて、らしくない険しい顔をした。
「去年も一昨年も、フォークダンスが一番好きだって言ってたひとがサボるなんて腑に落ちない」
「いいでしょ、今年はそういう気分なんだから」
「咲月に気を遣ってるんだろ。あいつらが心置きなくふたりの世界に浸れるようにってさ。間違っても自分の姿が目に入って変な空気なったりしないように、そもそもフォークダンスの時間はグラウンドから退場することにした」
「……そんな言い方されると、私がすごく健気な女の子みたいに聞こえるなあ」
茗の言う私と本物の私との間にあるギャップを思って、小さくため息をついた。別に、そんなつもりでここにいるわけじゃないのに。
「実際、そうなんじゃないの」
「違うよ。……ただ、見たくないだけ。咲月とあの子がふたりだけの世界ってのに浸ってるところなんか、見たくないんだ。諦め悪いよねー、私」
あんなことがあったのに、まだ咲月のことが好きなんだ。自分で自分に呆れる。諦めるって決めたのは、ほかでもない私なのに。どこかで期待を捨てきれない自分が本当に嫌い。
「きっとさ、私のこと可哀そうって言った子たちもその辺を見透かしてたんだと思うんだよね。だからつけ込まれた。咲月と後輩ちゃんはいい迷惑だよ」
言いながら、視線は夕日に照らされたグラウンドをさまよう。楽しそうなひとの波からたったひとりを見つけ出そうとしてしまう自分を、どうしようもなく自覚した。
「咲月のこと、好きなんだ?」
茗の静かな問いかけに、頷くのを躊躇する。この半年間、誰に訊かれても咲月が好きだなんて言ったりしなかったから。せめてそんな火に油を注ぐような真似はすまいって、それだけは決めてた。だけど、茗になら言ってもいいのかな。茗なら、言いふらしたりしないから。
「……うん、好き。ずっと好きだった」
情けない表情をしているだろうことは、鏡を見なくても分かった。それを見られたくなくて、顔を柵に押し付けるようにしてうつむく。
「じゃあ頑張ったんだね、ひーちゃん」
ぽんぽんとやさしく頭を撫でられる気配を感じて、ほんの少し泣きたくなった。もちろん、本当に泣いたりはしないけど。
「私、頑張ったのかなあ」
「すごく頑張ってたよ」
「迷惑かけたのに?」
「ひーちゃんのせいじゃないし、そもそもあんな馬鹿騒ぎになったのは概ね咲月の責任だと思うよ」
「そんなことないでしょ」
「最初に噂が噂がたったときに、うろたえてないで咲月がもっとしっかり否定するなりなんなりすべきだったんだよ。ひーちゃんと一緒に、馬鹿なこと言うなって笑い飛ばせばよかったんだ。ひーちゃんは自分の気持ちを押し殺して、そうしてくれてたんだから」
「咲月のいいところは、そういう計算ができないとこでしょ? お兄ちゃん、ちょっと弟に対して厳しすぎやしないですか」
思いっきり甘やかしてくれる茗に甘えて、ただ話した。いつの間にか鳴りだした軽快な音楽を無視するために。また、グラウンドの輪の中からひとを探したりしないように。
「お兄ちゃんとしては、弟の成長を願ってるわけだよ。いくら素直が取り柄とはいえ、もう少ししっかりしてくれないと」
「そっか。……うん、でもそうだね。もう彼女もいるんだし」
「ま、そういうこと」
それよりさ、と茗は打って変わった明るい調子で話題を変えた。
「ここでもフォークダンスの曲は聞こえるみたいだし、折角だから踊っておく?」
いきなりなに言ってんのと思って、顔を上げる。そして、固まってしまった。茗が、今まで見たことがないようなやさしい顔で笑っていたから。
それで、気付いてしまった。
多分、茗は私に本当の気持ちを言わせるためにここへ来てくれたんだってことに。
ほんと、馬鹿みたいにやさしいひと。兄弟そろって、馬鹿じゃない。
咲月がうろたえることしかできなかったのは、私に対する罪悪感からだってことは分かってた。私の気持ちなんて気付きもせずに恋愛相談を持ちかけるなんて、すごく無神経なことをしたって、きっと思ったんだろうなって。
そのやさしさは逆に私を傷付けたけど、やっぱりやさしさには変わりなくて、私は咲月のことを好きなままだった。
私が好きになった咲月は、そういう人間だから。
ほんと、馬鹿なんじゃない。お人よしにもほどがある。私の気持ちなんか知らんぷりして、なかったことにしてればいいのに。どうしてふたりとも、絶対そうはしないんだろう。
「……そうだね。最後だし、記念にね」
精一杯の笑顔を作って、差し出してくれた手を取った。そして、音楽に乗って踊りだす。
放送部がふざけて音楽を早くしたり遅くしたりするのに付き合って踊っていたら、すぐに疲れてしまってふたりして地べたに座り込んだ。
「受験生は、あれだね。運動不足すぎるね」
「そーだね。受験終わったら運動しなきゃ」
ぜえはあ言いながら息を整える途中、どちらからともなく笑い声が漏れる。ひとしきり笑ったあと、そう言えばというふうに茗は口を開いた。
「訊いたことなかったけどさ、ひーちゃんはどうしてフォークダンスが好きなわけ?」
「みんな笑ってるから、かな。お祭りのクライマックスだから、羽目を外して騒いで楽しむ。こういう雰囲気、いいなって思わない?」
「なるほどね。そういう考え方もあるのか」
茗はいいこと聞いたと言って笑う。それから、すっと表情を引き締めて背筋を伸ばした。
「ひーちゃんにずっと言いたいことがあったんだ。今、聞いてもらってもいいかな」
「いいけど」
急に改まった調子になった茗にとまどいつつも、私は頷いた。
「日香里のことが好きだ」
え、と思った。何を言われているのか分からなくて、混乱する。急に日香里って呼んだりしてさ。これ、なんかのドッキリ? でも、茗がそういう性質の悪い悪戯をする人間じゃないことはよく知ってる。何よりも、茗の怖いくらいに真っ直ぐな目が本気なんだと告げていた。
「本当は言わないでおこうと思ってた。日香里の好きなひとが俺じゃないってことはとっくの昔に気付いてたし、しかもそれが瓜二つの顔した双子の弟だからさ。日香里が失恋してたとしても、俺のことを選んだりしてはくれないだろうって思ったよ」
それにさ、と茗は言葉を続ける。
「咲月のことで色々とありすぎたし。これで日香里が俺と付き合いだしたりしたら、またどんな噂をたてられるか分かったもんじゃない。日香里は言ってくれなかったけど、結構きつい嫌がらせに遭ったりもしてたの、知ってるから」
苦しそうな眼差しをする茗を、夕焼けが照らす。色素の薄い髪が、金色に光って見えた。
「俺じゃないほうがいいって、分かってるよ。だけど、やっぱり好きなんだ」
「……全然、気付かなかった」
茫然とする私を、茗はどこまでもやさしい目をして見ていた。
「当たり前でしょ。これでもかなり頑張って隠してたんだから、そうじゃなきゃ困る。だから、日香里は気にしなくてもいいんだよ」
そう言われてしまったら、もう何も言うべき言葉を見付けられなくなった。ごめんって言葉は、きっと茗だって求めてない。
「ねえ、日香里。俺のことも考えてみてくれないかな」
「でも私、まだ咲月のことが好きだよ」
「分かってる。別に、今すぐに答えを出せって言ってるわけじゃない。日香里が咲月を吹っ切れるまで待つから」
「そんなことさせられないよ!」
「いいんだ、俺がそうしたいだけだから。……それとも、考えることすらしたくないぐらい俺のことが嫌い?」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど、でも」
茗は大切な幼なじみだけど、そんなふうに考えたことはなくて、困惑ばかりが先に立つ。そのことを、きちんと言わなきゃいけないはずだ。茗はずっと、咲月のことを見ている私のことを支えてきてくれた。そのしんどさは、私も少しは分かるつもりだから。これ以上、宙ぶらりんにするような真似はしたくない。
「そうじゃないなら、考えて。幼なじみのめーちゃんじゃなくて、ひとりの男として見られるかどうかさ」
「どれくらい待たすかも分からないのに?」
「いいんだよ、待ってるのはこっちの勝手なんだから。それに俺、待つのは得意だよ」
日香里が咲月を好きになる前から、日香里のこと好きだったんだから。そう言って、茗は私の頬に掠めるようなキスをした。
「日香里の二度目の恋の相手は、どうか俺にしてね」
茗はあまりのことに身動きできずにいる私をおいて立ち上がると、先に屋上の出入り口へと歩いて行く。
「フォークダンスも終わったみたいだし、そろそろ閉会式だから。俺は先に行ってるけど、ひーちゃんも遅れないようにグラウンドにおいでよ」
ドアの前で平然と振り向いてそう言うと、茗は本当に屋上を出て行った。
取り残され、私はつっこまずにはいられなかった。
さっきのあの台詞、なに? あんな気障ったらしい台詞さらっと言えるなんて尋常じゃないでしょ。なんなの、あれ。なんなの、あの顔。すごい色気だったんだけど。あいつ本当に高校生なの。いつの間にこんな非常識なテクニックを身につけたんだよ。
……茗のあんな笑顔、知らない。あんなに淋しそうな茗なんか、知らなかった。
心臓がうるさいくらいに鳴っている。顔が熱い。夕日のせいだってごまかすこともできないくらい、真っ赤になっているに違いない。
確信して、思わず口をへの字に曲げた。このまま閉会式になんか出られるわけないでしょ。茗の馬鹿。
体育祭の日の夕方、私の二度目の恋が始まったのかどうか。
それはまだ、神様しか知らない。