第四章―05
「『さぁ、手がかりは揃った。二人の名前を当ててみせよ』ですか……」
志ヶ灘は読みかけの文庫を伏せて、メッセージカードを読み上げた。
雨の日の部室はどうも湿っぽくて不快だ。天井に吊された白熱灯が、部屋の中に俺たちの影を落としている。
「多分それ、封筒の謎はこれで終わりだっていう意味合いだと思うんだけどさ。十枚の封筒と、十個の品物をもって」
「そうですね。私も同意見です。これで暗号解読に必要な手がかりは揃った、ってことなんでしょう」
志ヶ灘はそこらにあったまっさらなコピー用紙を長テーブルに置いて、ペンを取った。そこに、今まで俺に送られてきたものをすべて書き付けていく。
俺の証言を元に完成した表は、このようになった。
番号 中身
1 吹き流し
2 金銀砂子
3 五色の短冊
4 ろうそく
5 そうめん
6 七夕人形
7 夏の大三角
8 笹の葉
9 浴衣
10 カササギ
「さて。これがせんぱいに与えられたすべての品々です。これが恐らく、送り主の名前を表す暗号になっているんでしょうね」
「うん……」
その表を眺めながら、俺は何となく思う。
仮に、この表の暗号を解き明かすことが出来て、俺に犯人の名前が分かったとして。
だから、一体どうなるっていうんだろうか。
俺は既に、この封筒の謎がコウライさんのおまじないであることを知っている。コウライさんのおまじないがラブレターに類似するものであることも知っている。そして、遠からぬ将来この犯人が俺の元に現れ、その想いを告白するだろうということも分かっている。さらに言えば、そのことによって俺と真結の今の関係が崩れるということも。
そこまで分かっていて、わざわざ暗号を解いて犯人の名前を明らかにする必要が、果たして俺にあるのだろうか。
「暗号解読のために、せんぱいには手がかりがいくつか与えられてますね。
一つ目が、この中身について。これらの品々はすべて七夕に関係のあるものです。でも、だったらどうして七夕に関係がある必要があったのか。もっと言えば、どうして中身がこれらの品々でなければならなかったのか。
二つ目が、番号について。この番号にはどんな意味があるのか。一から十までありますけど、どうして十番までなのか。
三つ目が、封筒が送られてきた場所について。どうやら、この封筒はせんぱいの家のポストとせんぱいの学校の靴箱に交互に入れられているみたいです。それにどんな意味があるのか。
四つ目が、メッセージカードについて。『二人の名前を当ててみせよ』とありますけど、どうして二人なのか。多分、二人ってのは送り主とせんぱいのことでしょう。でも、せんぱいからしたら自分の名前なんて明らかなんだから、『当ててみせよ』ってのは不自然です。それなのに、どうして『二人の名前』なのか。
暗号を解くヒントは、どうやらこの四つみたいですね」
「あのさ、志ヶ灘」
献身的に謎の整理をしてくれる後輩には申し訳ないが、俺はやっぱり言うことにした。
「ここまでやってもらって悪いんだけど、やっぱいいよ。その暗号、解かなくても」
「……どういうことですか」
「結局、これの正体が分かっちゃったからさ。俺のことを好きな子がどこかにいて、その子は俺に告白したいと思ってて……って、そこまで分かったら、別に暗号を解く必要もない気がしたんだ。今さら犯人当てなんかしたところで、しょうがないでしょ」
「しょうがない……とは、思いませんけど。私は」
「別にいいんだよ。今さら、暗号を解いたって誰も救われないんだから」
その犯人の子も、俺も、真結も。
俺の言葉の意味が志ヶ灘にも伝わったのか、彼女は少し表情を曇らせた。
「まぁ、せんぱいがそう言うんだったら仕方ないですけど……。元はと言えば、せんぱいに送られてきた謎だったんですし」
「悪い。でも、もう気にしないことにしたから。だから、志ヶ灘もそんな暗号のことであれこれ思い悩まなくていいよ」
「……分かりました」
志ヶ灘は頷くと、さっきの内容を整理した紙を引き裂き、丸めてごみ箱に投げ捨てた。ことん、と寂しげな音が部室の空気をわずかに揺らす。
探偵ってやつは警察じゃないし、司法でもない。
警察や司法は、真実を究明し、犯人を裁くことにこそ意義を持つ。だから彼らは事件が起これば問答無用で探求するし、裁定を与える。たとえそのことによって誰かが救われなくても、彼らは正義の名の下に真実を明るみに引き摺り出すだろう。
でも、探偵は違う。私的な存在である探偵に正義は存在しないし、だからこそ探偵は私的にしか機能し得ない。
探偵は、誰かのために謎を解き明かす。逆に言えば、探偵は誰かのためじゃなければ謎を解き明かさない。
だから、もし、謎を解いても誰も救うことが出来なかったのなら――。
探偵なんて無意味、謎解きなんて無価値。
それが、今回の事件の正体だ。
謎が解けようと解けまいと、俺と真結の関係はどうせ破綻する。
「……せんぱいは、」
気詰まりな沈黙の中、志ヶ灘が伏し目がちに呟いた。
「篠田先輩のことが、好きなんですか?」
ぞっと、震えが全身を駆け抜けたような気がした。
奥歯に苦味が広がっていくのを感じながら、俺は答える。
「難しいな、好きってやつを定義しないといけないけど……。でも、少なくとも俺は真結と一緒にいるのは好きだよ。今みたいに、休日に一緒に出かけたり、一緒にごはん食べたりしてさ」
「結局、そうやって誤魔化すんですね。せんぱいは」
志ヶ灘の声は冷ややかだった。
「せんぱいの悪い癖です。傷つけ合い、痛み合うのを避けて物事を曖昧なまま放って置く。問題はすべて時間が解決してくれる。せんぱいはとても優しい人ですけど、ちょっと優しすぎるんですよ。それさえなかったら、せんぱいは本当に――」
「うん?」
「……何でもないです」
志ヶ灘は視線を落とした。部室の窓ガラスに、彼女の憂鬱そうな横顔が映されている。何だか今日は憂鬱な人間が多いみたいだな、と俺はどうでもいいことを思った。
傷つけ合い、痛み合うのを避けて物事を曖昧なまま放って置く。俺の悪い癖。
分かってるけど、そんなこと。
「そういえば、もうすぐ納涼祭ですね」
空気を切り替えようと思ったのか、志ヶ灘がそんなことを言った。
「今週の日曜日でしたっけ。せんぱい、どうせまた篠田先輩と一緒に行くんでしょ?」
「まぁね。志ヶ灘も一緒に来る?」
軽い調子で尋ねてみたら、志ヶ灘が俺を横目で睨んできた。
「……どうしてせんぱいは、そう分かりきったことを訊いてくるんですか。私が入れる場所じゃないってことぐらい、せんぱいだって分かってるのに」
「……ごめん」
志ヶ灘は鼻を鳴らして、怒ったようにそっぽを向いてしまった。中途半端な善意は人を傷つけるって分かっていたはずなのに。俺って結局そんなのばっかりだ。
志ヶ灘はむすっと黙り込んでいたが、しばらくすると神妙な表情になり、頬杖をついて部室の窓から外を見やった。
暗い街を、雨が覆っている。
少しだけ憂鬱そうな志ヶ灘は、その様子を見て、独り言のようにぽろっと呟いた。
「……日曜日、晴れるといいですね」
俺は何とも答えることが出来なかった。
 




