第三章―20
文芸部のパソコンにあった『後輩の皆さんへ』というファイルには、次のような文書が残されていた。
後輩の皆さんへ。
皆さんがこれを読んでいるということは、私の用意した暗号が解かれてしまったということでしょうか。悔しい一方で、嬉しくもあります。作ったのに解いてもらえない暗号ほど、寂しいものはありませんからね。
これを書いている今は、高校の卒業式を終えたまさにその直後です。久しぶりに訪れた文芸部の部室で、私は懐かしさに浸りながらキーボードを叩いています。卒業という言葉は、新しい季節のさわやかな息吹と、過ぎ去った季節の寂しげな余韻とを含んでいるようで、何だか複雑な心境です。
さて、皆さんに託した二つの掌編は、コウライさんのおまじないに使うもの――使おうとしたものでした。
知らない人のために解説を加えておくと、コウライさんの伝説とは、好きな男の子に想いを打ち明ける勇気のない女の子が、その勇気をもらうためのおまじないです。この高校で生まれたおまじないが、細々とではありますが、脈々と現在まで受け継がれているのです。
私も、そのおまじないを使おうとしました。
中学生の頃から、ずっと気になっている男の子がいたのです。私の高校生活は、その人のことをぐずぐずと想うだけの生活でした。夏休みが明けたら、文化祭が終わったら、と考えながら、結局私は先延ばしにして、ついに三年生になってしまいました。
部活が終わり、受験勉強が始まり、私も本格的に悩みました。大学生になったら、彼とは離ればなれになってしまう。その前に、たとえ失敗してもいいから、想いを打ち明けなければ。そうじゃないと、私はこの先ずっと後悔することになる。そんなふうに思い続けて、そうして私はついにコウライさんの伝説に頼ることに決めたのです。
コウライさんのおまじないが成就したら、きっと告白しよう。そんな意志のもと、私はあのような二つの掌編小説を作り、封筒に入れました。あとは、靴箱に入れて結果を待つだけでした。
でも結局、私はその封筒を彼に渡せなかったのです。
もし、おまじないが失敗したらどうしよう、どうしよう、とそんなことばかり考えて。告白しなければ後悔すると思いながらも、失敗を怖れて、私は最後の一歩を踏み出せなかったのです。
そうして結局、彼に想いを告げないまま、今日の卒業式を迎えました。
後悔の海に深く沈みながら、私は思います。
もし、私にもう少しだけ勇気があれば。あと一歩、前に踏み出すことが出来れば。
今の私の人生は、これからの私の人生は、もしかすると大きく変わっていたかも知れません。
悩んで苦しんだ高校生活で、結局なに一つとして答えを出せなかった私は、きっとその負い目を抱えながら、これからの道を歩んでいきます。
正しい選択を出来なかったという後悔にさいなまれながら、それでも私は思います。
今まさに高校生活を送っている皆さんには、私のようになって欲しくない。少なくとも、卒業式の日に高校生活で成し遂げられなかったことを悔やみ、こんな文章を書き連ねるような人間にはなって欲しくないのです。
だから私は、皆さんに言葉を贈ります。
失いたくないなら、悔やみたくないなら、行動しなさい。
喪失し、後悔してばかりだった私の高校生活が、皆さんの中で少しでも価値を保ち続けられることを祈ります。
西高文芸部OB
夜島海帆
「なんつーか……。解決したわりに、さっぱりしない事件だったな」
夕暮れのミステリ研の部室。文芸部の一件を片付けて俺たちの根城に戻ってきて、最初に出たのはそんな感想だった。
部室の窓ガラス越しに、飴色の夕焼けが部屋を照らしている。明かりに染め上げられたパイプ椅子を引いて、俺は腰を降ろした。
「私も正直、夜島さんの文書の内容があんなのだとは予想してませんでした。もう少し、明るい内容のものだとばかり思っていたので」
志ヶ灘は俺の対面の椅子に腰を降ろした。正面から、俺と向かい合うような形になる。
「結局、あんな掌編と文書を残した夜島さんの動機は、後悔ってことなんでしょうね。高校生活で何も成し遂げられなかった彼女は、せめて一つでも意味のあることをしたかったから、あんな文書を後代の文芸部員に託したんだと思います」
「後悔ねぇ……。何だか、不思議な気分になるよな。他人の人生の過程を垣間見ちゃったような感じがしてさ」
「それだから謎解きは面白いんじゃないですか。人間の心の中には、たくさんのミステリが隠されているものです」
俺は今まで解き明かしてきた事件のことを思い出した。
小田切さんのために降霊会を企画した古川。照れ隠しで誘拐事件を自作自演した真結。後悔を紛らわすために文芸部に謎を託した夜島さん。
みんながみんな、何かしらの意志を持って謎を作っている。それを生み出すのが人間の心であるならば、人間の心の中にこそミステリが隠されているというのは、あながち間違いではないのかも知れない。
ちょっとだけ感傷に浸っていた俺に、志ヶ灘が「でも」と悪戯っぽく話し掛けてくる。
「せんぱいには、おあつらえ向けの言葉なんじゃないですか? 『失いたくないなら、悔やみたくないなら、行動しなさい』っていう、あれ」
「どうだかな。そもそも、俺は失うようなものを最初から持っていないかも知れない」
「そんなことありませんよ」
志ヶ灘は珍しくも、柔らかに微笑んだ。
「せんぱいは、たくさんのものを持ってます。まだ失いそうになっていないから、気付かないだけ。本当に大切なものは、失うまで気付かないって言いますしね」
「さぁてな……」
俺はうそぶき、目を泳がせた。
行動しなさい、ね。
およそ何も成し遂げないまま、流れに流されているだけで過ぎる俺の高校生活。実際に行動できず失って後悔した先輩からの忠告は、やっぱりそれなりに耳に響く。
どうなんだろう。
俺は、このまま何も行動しなくていいのだろうか。
「それと……せんぱい」
自分の影を覗き込んでいた俺に、ふと志ヶ灘が声を掛けてきた。顔を上げると、志ヶ灘は神妙な表情でテーブルの角を見つめていた。
「今回のこと、その……ありがとうございました」
「え?」
聞き間違いかと思った。よもや志ヶ灘が俺に礼を言ってくるとは。
志ヶ灘は実に言いづらそうに続ける。
「せんぱいに何だか迷惑かけて、色々言われて、それで私の中でもちょっと整理が付いたような気がします。だから……どうもでした」
「別に。事件を解いたのは志ヶ灘だし、俺はちょっと手がかりを持ってきただけだ。特に何もしてねえよ」
「せんぱい、本当はあの『太陽の尻尾』っていう小説を持ってきた時点で、気付いてたんじゃないですか? ホモニムのことにも、犯人が誰かも」
「……いや」
きっちり見破られていやがる。ていうか、そこは見破っても黙っておくのが俺に対する礼儀ってもんだろ。
志ヶ灘は、小さく笑った。
「せんぱいは、ずるいですね。人に気を遣っておきながら自分では黙っていて、相手が気付くまで待ってる、だなんて。一番巧妙な優しさの売り方です」
「別に俺はそういうわけじゃ、」
「分かってます。ただ、そういうのがずるく感じられてしまう時もあるってことですよ」
志ヶ灘は達観したように言って、帰り支度を始めてしまった。どうしてそれがずるいのか訊いてみたが、志ヶ灘はやっぱり教えてくれなかった。まぁ、それはそれで構わないのだが。
夕陽が、校舎の影を伸ばしていく。
今日は、志ヶ灘と最後まで一緒に帰られるといいな、とか。
そんなちっぽけな願い事を呟いてばかりで、俺の高校生活は過ぎていくのだ。




