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Canonシリーズ

ホワイトトパーズとビターなチョコレート

作者: 藤夜 要

 二月十四日。普通ならばバレンタインデーの日ということで、男性が女性からチョコレートを始めとした贈り物をいただける日。

(大概の男はモノより送り主ご本人を召し上がりたいもんなんでしょうけどねえ)

 小さな小さな辰巳の呟きは、某ホラー映画で熱演している端役の絶叫に掻き消された。

 我が家に限り、この日は別の意味を持つ。バレンタインというよりも、克美の暫定誕生日。今日で一応克美は二十四歳になる……多分。

 戸籍がなかった彼女と出逢った日を誕生日にしたのは自分だった。彼女の本当の誕生日は加乃しか知らなかったから。今思い返せば訊けば済むだけの話だったのに。遠い昔を思い出し、辰巳は若かった頃の自分に苦笑した。


 ――生きるとか死ぬとかいうことを、じじばばになるまで考えなくて済む世界。

 三人一緒にそういう世界で生きてみないか――。


 生まれ変わりたくて、生き直したくて。そして克美を人として一から生き直せるよう生まれ変わらせてあげたくて。最初は加乃を手に入れるための方便だったはずなのに。気付けばそれが本当の目標に変わっていた。結果それが加乃の信頼を得られたとも言い換えられるが。

 そんな加乃も、今はいない。迷うことなく鼻息を荒げていた若い頃の自分は、今の辰巳にとって「馬鹿だ」と心の中で苦笑する存在と化している。


 目の前で上映されているホラー映画に関心を戻す。人の恐怖心を煽ろうと、簡単に血をぶちまける。そんな批難がましい偏見で映画を見ている自分に気が付いた。

(何が悲しくてリクエストがホラーなんだか)

 スクリーンで見たいという克美の意向を汲んで、雪の降る中、映画館まで付き合わされた。館内ががら空きなのは、今日という日にこんな作品を鑑賞するカップルなどほとんどいないせいだろう。内容と悪天候に加え、平日ということもあるのだろうが。

 巷で絶賛されたリアリティのある作品の続編らしいが、辰巳の目にはちゃちなB級スプラッタにしか見えなかった。確かに映像技術や話の構築など決してまずくはないと思わせはするものだが、辰巳が恐怖の「き」の字も感じないのは、そこに臭いが少しもないからだろう。

 辰巳の腕に巻きつく克美の細い腕がビクンと一度大きく揺れて、ぎゅっと力強く締まった。その横顔を瞳だけで盗み見れば、歯を食いしばってへの字を口でかたどり、しかめっ面でスクリーンを凝視している克美が映る。猟奇的な連続殺人を犯す犯罪者に囚われた犠牲者が、犯人の宣言したタイムリミット内に罠から脱出することが出来ず、首に嵌められているアイアンメイデンを模した拘束具によって首を吹き飛ばされた瞬間だった。

 視線を戻した先、スクリーン一面に紅い華が咲き乱れる。だが辰巳の目には、造花の牡丹にしか見えなかった。




 手打ちうどんと蕎麦の店『一茶』はお気に入りの店なので、別にいいと言えばいいのだが。

「ねえ。何が悲しくて折角の誕生日なのにディナーがうどんな訳? 和風ステーキ店の庄やとかさー、焼肉の高麗苑とかさー」

 鍋焼きうどんの肉を頬張りながら、辰巳は張り合いのなさを露骨にアピールした。

 確かに一茶はこの辺りで美味いと評判の店だ。映画館からほど近いからとは言え、誕生祝いとしてはかなり質素なメニューの夕食だと思わずにはいられない。

「肉系はムリ! 思い出す……ってほらっ、思い出しちゃったじゃんか、辰巳のバカっ」

 そんな克美のオーダーは哀しいほどヘルシーなかっちんうどんだ。せっかく頼んだ天ぷらの盛り合わせも、海老や豚天などのたんぱく質系は辰巳が一人で食べている。

「そこまでグロいのが苦手なのに、なんでまたホラー映画ばっか見たがるんですかね」

 克美が辰巳のその言い草に反論するとばかりにうどんを勢いよくすすり上げた。汁がぴしゃりと辰巳の伊達眼鏡に飛び散り、克美の姿が汁で部分的にゆがんだ。

「お前さんね」

「時々ああいうのを見ないとね、自分がゼータクになっちゃうのっ」

「は?」

 麺を挟もうとした辰巳の箸が一瞬止まった。克美の言おうとしていることが、解らない。いつの頃からかそんなことが日を追うごとに増えていた。

「毎日が優し過ぎて、ボク、ゼータクになって来てるって思うんだ」

 彼女が器用に苦手なワカメを除けて餅だけを挟みながら、たどたどしく語り出す。

「殴られるとか、叩かれるとか。痛いとか苦しいとか怖いとか。そりゃないほうがいいに決まってるんだけど、ない生活が当たり前になっちゃってから、もっともっと、って、ボク……どんどん欲張りになってる気がするから」

 克美は今にも泣きそうな顔をして、眉間に深い皺を寄せた。彼女が何を気にしているのか、なんとなく解ったような気がした。

「まだ北木クンのこと、気にしてるのか?」

 一年前の今日、今頃の時間、彼女と北木の間であったことを思い出し、くしゃりと彼女の頭を撫でた。

「次に会うときは笑って迎えるんだろう? 甘え過ぎないように、友達として」

 大きな吊り目が、餅を咥えたまま瞳だけを恨めしそうにぎょろりとさせて辰巳を見上げた。

「ほにょほほひゃないほん」

「何言ってるかワカリマセン」

「はにひふらふんなひょっ」

「いいから早く噛み千切りなさいっつの」

「ふーッ」

 多分克美が今猫に化けたら、例えでなく全身の毛が逆立っているんだろうな、と思った。


 腹ごしらえが済んだあとは、時間の許す限りプレゼントの物色タイム、らしい。

 昔ならとっくに閉店している時間だが、今ではこんな田舎でも随分遅くまで店を商っている。旧伊勢町商店街で買ってもらうのだと拘る克美に付き合い、薄暗い屋根つきの商店街をのんびりと練り歩いた。

「ボクらの店は駅前に近いから今一つピンと来ないけどさ」

 そんな前振りで彼女が口にしたのは、新伊勢町商店街の再開発や、それに伴う区画整理で旧伊勢町商店街の撤去計画議案が議会に提出されたといったような話だった。

「弱い立場の人の声なんか聴いてくれない、って商工会長さんがこの間の会議で愚痴ってた」

 会議とは、この辺一帯の個人商店を営む面々で集まる井戸端会議に近い定例会議のことだろう。

「それで一茶で飯が食いたいって言い張ったとか?」

「肉食う気にならなかったのもホントだけど、最初から飯食うならここの中のどっかにしようって決めてたのも確か」

 これ以上大切なモノを失くすのはイヤなんだ。

 そう零す克美の表情は俯いていたので解らなかった。

「あ、よかった。宝珠堂もまだ開いてるっ」

 避けたい話題に思考が向いたのか、克美は突然顔を上げてジュエリーショップの名を口にした。

「え、服じゃなかったの?」

「ほぼ毎年服ばっかだから、飽きたっ」

「飽きたってお前さん」

 自分がリクエストしていた癖に、という辰巳の繰り言は見事にスルーされた。


 宝珠堂に飛び込んだ彼女に遅れて、辰巳も出入り口の自動ドアをくぐる。

「あ、来た来た」

 と馴れ馴れしく口にするのはこの店の女性店主。商店街では「お母さん」の愛称で知られている古株だ。辰巳は意味深な顔でにやりとする彼女に、目を細めて牽制を掛けた。

「ども」

「今日は克美ちゃんと(・・・・・・)一緒に来たのね。会議にはほとんど来ないのに」

(この……っ)

 愛想笑いの引き攣れるのが自分でも嫌というほど分かった。

「あ、お母さん。今日はこいつ、ボクの財布代わりだから。ボクが無理やりしょっ引いて来たんだ」

 幾つかのジュエリーを見比べながら、何も知らない克美が辰巳のフォローを入れるのが辛い。

「そ~ぉ、お誕生日にお兄さんしか相手がいない、ってこと。相変わらずシスコンブラコン兄妹ね」

(ほっとけ)

「ほっといてよっ」

 心の中で毒づいた辰巳の言葉が、克美のそれと重なった。

「あら、私は克美ちゃんを心配して言ってるのに」

「お母さんは瞳ちゃんを基準に考えちゃうからそう感じちゃうんだぞ。自分の娘が独立心旺盛だからってね、みんながそうだと思っちゃダメだ!」

 店主の彼女は大袈裟に肩をすくめ、「はいはい」と克美をいなして大きな溜息を一つついた。

「瞳も心配してたわよ。“あのままじゃガチで克美ちゃん、行き遅れるよ”って」

 彼女は誰に言っているのか曖昧な口調で、誰とも視線を合わせないままチクリと皮肉った。

「別にいいもーん。辰巳の嫁さんが決まってから考えても遅くないもん、多分」

「こら。そうなると逆に焦ってろくな男を掴まえられないってのが定説なのよ」

「あ、そうだ。瞳ちゃんが店に来てくれたときに頼んでたんだ。ホワイトトパーズって」

 辰巳はそのとき既に面倒な会話を避けて別のショーケースを眺めて距離を取っていた。だが、克美の希望した宝石の名前があまりにも意外で、つい鬼門に向けて視線を上げてしまった。

「トパーズって、誕生石はアメジストだろう?」

 辰巳の問いに答えたのは、店主でも克美でもなく。

「星座にも宝石ってあるのよ、マスター。みずがめ座の誕生石がブルートパーズなの。トパーズにも色々あるからって見せてあげたら、ホワイトトパーズがいいって克美ちゃんが言ったのよね?」

 店の奥から出て来て克美にそう促したのは、今話題に出ていた店主の一人娘、瞳だった。

「こんばんは。カラーレストパーズとは違うの?」

 つい負けず嫌い根性が顔を覗かせる。母親に似て気の強いこの娘も『Canon』を愛用してくれる常連客の一人だが、互いにそれぞれのジャンルのプロだと解っていて言い負かそうと足掻く、言ってみれば幼稚なディベート相手に持って来いの娘でもあった。

「さすが。でも今はホワイトトパーズって呼ばれることが多いわね。ほら、“レス”ってなんかネガティブな響きを感じない?」

 やんわりと包むような柔らかな乳白色の光沢があるのに、色がない、なんて否定的じゃないかしら、と瞳が得意げに私見を述べた。

「なるほど。今回は反論の余地なし、完敗だな。で、それって在庫あるの?」

「もちろん。カットや大きさも色々あるからと思って幾つか取り寄せておいたわ。克美ちゃん、奥へ見に来て」

 そんなにあるのか、と一瞬頭の中で電卓を弾いたものの、母娘のアイコンタクトに何か策略めいたニュアンスを嗅ぎ取り、予算を弾き掛けた脳が別方向へシフトチェンジしてしまった。

 店に残されたのは、三十路のおっさんとバツイチの五十路の商売上手な曲者の熟女のみ。

「お母さん、克美に仄めかしたでしょ」

 何をと問われると答えに窮するわけだが。

「このみ、だっけ? あの女の源氏名。あんたが花街にいた頃と違って、今は金のために覚悟の上でお水に入る子よりも、ちやほやされることで寂しさをごまかしたいとか、出会い系と勘違いしてとか、そういう中途半端なバカもいる、っていうこと、解った?」

 アフターでも客とホステスであることに変わりはない、だけどそう割り切れないバカも今はいる。そう言い切る店主にぐうの音も出なくて、促された椅子に腰掛けたものの、ガラスの向こうに輝く宝石に視線を落としたまま無言を貫いた。

「巧く化けてるつもりでも、女の勘ってのは見抜くものだからね。あの子、キレたら『Canon』へ押し掛けかねないキャラしてたから、あの子の連れて来た金回りのよさそうな客何人かに発破かけておいた」

「……」

「今はそっちを巻くのに四苦八苦しててあんたのストーカーする暇がなさそうだからいいけど。花街通いも大概にしときなさいよ」

「……」

「まだ、克美ちゃんのお姉さんとやらに操立てしてんの? それもココロだけ」

「……」

「三十五にもなって、何やってんだか。いい加減、克美ちゃんの為にも次のいい(ひと)を見つけなさい」

「……」

「ちょっと、心配して言ってるのよ? 何か言いなさいよ」

「……俺、去年の半ば頃までは上客だった方でしょ? それに免じて、トップ以外をサービスしてやってよ」

 プレゼントを値切るなという言葉とゲンコツが辰巳の頭上にめり込んだ。




 人通りの少なくなった夜の公園通りを二人で歩く。克美は短めのチェーンを通したトップに何度も目をやり、それを摘まんではにんまりと笑ってまた放す。

「そんなに引っ張ったり放したりしたらチェーンが切れちゃうよ」

「そしたらまた買う~」

「って、お前さんね」

「だって、ずっと欲しかったんだもん」

 ――女の子ちっくなプレゼントを、辰巳から。

 ことん、とどこかで音がした。身の内からのような気がしたのだが、車を停めておいた立体駐車場から空き缶が一つ転がって来た。

 カラカラと転がり、それがグレーチングのずれた側溝へ、ことんという音を立てて落ちる。

(プランターからあれが落ちたのかな)

 辰巳はそんなどうでもいいことを考えながらポケットから車のキーを取り出した。

「……ねえ、辰巳?」

 そう呼ぶ声が、後ろから聞こえた。

「ん?」

 振り返れば克美が俯いたまま立ち尽くしている。

「どした?」

「……」

「まだもうちょっと、どっか行く?」

「……もう、いいよ。今日はバレンタインデーでもあるし、お誕生日会はもう、おしまい」

「は?」

(もう?)

 よぎったそんな疑問が、克美の紡いだ次の言葉で音にされる前に呑み込まされた。

「ボクに一日って時間をプレゼントしてくれたから、たまにはちゃんとバレンタインのプレゼントをボクからも、あげる」

 小さな小さな克美のそんな声を聞いて、またどこかでことんと小さな音がした。

「えーっと……意味が解ってないんですけど、俺」

「今年からは辰巳にフリータイムを、あげる。飲むんだろうから、車はボクがもらってくよ」

 そう言う間にも彼女のブーツがカツカツと舗装に靴音を響かせる。呆然としている辰巳の手から、ランドクルーザーのキーが乱暴にむしり取られた。

「ちょ、待って」

 横を通り過ぎようとする彼女の腕を思わず掴む。

「瞳ちゃんから、何を言われたの?」

「……ホワイトトパーズの宝石言葉ってね、“感情的すれ違い”って言うんだよ」

 だからこれに決めたんだと言われても、ますます意味が解らない。

「トパーズには、大切な人とのすれ違いや、疎外感とか虚しさとか、そういうのをやらかくしてくれる効果があるんだって。ごめんね、辰巳。ボクがなかなか大人になれないせいで、辰巳にばっかりずっと我慢をさせちゃっていた。もうお誕生日会は要らないから。これでもいい大人なんだし」

「や、だから意味が分かんないってば」

「ホワイトトパーズをお守りにすると、誰かに頼るんじゃなくって、自分でなんとかしようって気持ちが育っていくんだって。強い辰巳がくれた、強くしてくれる石だから。だからボクもう大丈夫だよ」

 人の質問にまるで答えず一方的にしゃべりまくった彼女がようやく顔を上げた。そこにある彼女の表情を見れば、辰巳はたった一つの言葉しか出せなかった。

「……ごめん。もう絶対嘘はつかないって約束してたのに」

 十三年も前にした約束を嫌でも思い出させられる。口角を微かに上げて微笑むのに、今にも消えてしまいそうなそれは、まるで声と心を失ったまま眠り続けた、あの頃の幼い“克也”を思わせた。

「コーヒーでも飲みながら、ちゃんと解るように話をしようよ」

『Canon』へ行こうと促しながら、彼女の頭を抱え込む。彼女の顔に掛かった髪を梳こうと頬に触れると、頬を濡らす生ぬるい湿気が熱を奪い、より冷たい感覚を辰巳の手に伝えて来た。彼女の手から取り返そうとキーを握ると、細い指が辰巳の手を引き止めた。

「歩いて行ける距離だよ。歩こう?」

 細い指がそのまま辰巳の指に絡みついてくる――遠慮がちに。

「……いいけど」

 人通りのなくなった公園通りを二人で歩く。どちらも何もしゃべらず、ただ互いに指を絡ませたまま、『Canon』へ向かって歩き続けた。




 ミルクが気持ちを和らげるから、淹れるのはホンジュラスで作るカフェオレにした。“克也”が好きだったメニューの一つ。ミルクに油膜が張らないよう注意しながら、心をこめてカフェオレを作る。

 心――たくさんの「ごめんね」という気持ち。苦いコーヒーよりも一割多く、「ごめんね」の代理を注ぎ込む。

 差し出したそれをゆっくりと口にしながら克美が語ったのは次のとおりだった。


 宝珠堂の店主母娘は、旧伊勢町商店街撤去に反対する一方で冷静に事態を見て予測した結果、仲町通りへの移転を考えいい物件を探しているという。

『克美ちゃん、移転したら家で働かない?』

 瞳がそんな打診をして来たそうだ。婚約者がいる彼女だが、母の行く末を案じていて、身の置き所が確定するまで嫁ぐ気になれないらしい。彼が転勤族なので、結婚すれば店番が出来なくなるどころか、なかなか母を訪ねることも出来なくなるかもしれないという。

「瞳ちゃんの都合だけで話してるんじゃなくってね」

 ――いつまで『Canon』でマスターのお人形をしているつもりなの?

 そう言って辰巳の秘密を暴露したらしい。

「辰巳、ボクは辰巳のお人形なんかじゃ、ないよね?」

「にん、ぎょう?」

 紙が墨を吸うように、不快な感覚が広がっていく。酷く嫌な記憶が胸の奥深くから顔を覗かせる。牧瀬が翠を揶揄した言葉。そのとき克美が辰巳に対し、辰巳から見た自分も翠と一緒だと謗った言葉でもあった。

「突き放したりベタベタに甘やかしたり、辰巳は極端過ぎて、そんで気紛れだ、って。辰巳の中途半端な責任感は、見ててイライラするんだ、って。振り回されてへこんでるボクを見ていられない、って……振り回されてるつもり、ないんだけど、巧く言い返せなくって」

 湧き始めたどす黒い感情が、ずきりとした痛みにすり替わる。瞳の言葉が克美自身からの言葉と錯覚させる。それが辰巳を「兄」の位置へと引き戻してくれた。

「……そっか。一応守秘義務があるし、と思って結果を伝えてなかったんだけどね。この間高木から請けた案件のこと、ちょこっと話したのは覚えてる?」

 数ヶ月前に解決した案件の内訳に触れざるを得ない気がした。

「高木さんの大学時代の同期だか先輩って人の、奥さんの不倫調査って奴?」

「そう。あれは奥さんと相手の男を別れさせたいって依頼だったんだけど、結果としては協議離婚になったんだ」

「……揉めたの?」

「依頼人がね、原因が自分にもあったことに気が付いた、って調査結果の報告だけで終わっちゃったんだ」

「で、愚痴られたんだ」

「まあね」

 予期せぬ依頼完遂と支払いの連絡をもらい、東京へ赴いた時に依頼主から愚痴られたことをそのまま克美に話して聞かせた。

「大事にして来たつもりだった、って。だけど、大事にするということの意味が解っていなかったんだろう、って。大事にしていたつもりが、実はただ単に家という鳥かごに彼女を閉じ込めていただけだったと気が付いたって言っていた。彼女は飛びたい人だったんだ。独立して、夢を追いかけて、自分の力で生きたかった。それを理解してくれる人が欲しかったんだろう、ってさ」

 彼は言った。

『小鳥を鳥かごから飛び立たせてやることが大切にすることであれば、まあ私も離婚の合意にやぶさかではない、と思い直してね』

 彼の妻は相手の男とも別れたらしい。そう口にした彼の表情は、無力感でゆがむ癖に、妙に誇らしげで清々しいものさえ漂わせていた。皮肉なことに彼の妻は、本当に「小鳥」という名前だった。

「彼の話を聞いていて思ったんだ。俺もお前さんを『Canon』っていう鳥かごに押し込めちゃってるんじゃないか、って」

 ミルクをたっぷり入れたはずのカフェオレが妙に苦く感じる。

「どうすることが大切にすることなのか、よく、解らないんだ」

 静かな『Canon』の店内に、克美の喉がコクリとカフェオレを飲み下す小さな音が響いた。

「あいつは、俺の弱点が加乃とお前さんだってことを知ってるから」

 嫌な顔を思い出す。自分とよく似た、だけど自分以上に冷たい瞳を持つ男。最も殺してやりたい男の顔。

「誰も信用出来ないし、誰のことももう巻き込みたくないから」

 貴美子の憎悪に満ちた視線を思い出す。加乃の最期を思い出す。

「誰にも克美を近付けさせたくない、って、思ってこれまでやって来た」

 気付けばいつの間にか、煙草に手が伸びていた。

「でも、もう十三年、なんだよね」

 カチリとライターが音を立てて煙草に火をともすと、克美が無言で灰皿をカウンターキッチンの上に差し出して来た。

「……克美の好きにしたらいいよ。ここは大切な場所だけど、晃さんや愛美ちゃんの宝物でもあるけれど、俺が守れる間は守るし、無理になった場合のことを考えて、今のうちに段取りをつけておいてもいいことだし」

 望んでもいないことを口にするたびに言葉が途切れ途切れになる。見上げる彼女に返した笑みが、ほんの少しだけ引き攣れた。

「克美を人形だなんて思ったこと、ないよ。お前さんの自由にしたらいい」

 ゆるりと立ち上がる彼女に合わせて、視点を上げながらそう告げた。

「出来の悪い兄貴でごめんね。克美を泣かせてばっかだな」

 濡れた彼女の頬を拭うと、その手をそっと包まれた。

「キレイに飾ったまんまの人形なんかじゃない?」

「うん。ちゃんと生きた人間。自分で自由に動いて、自分で決めていいんだよ」

「じゃあ」

 克美が次の言葉を紡ごうとした唇が、一度閉じて食いしばる。それが再び開くと同時に、外でカタリと音がした。

「!?」

 二人の視線が同時に入口へ向かった。辰巳が時計を見れば、もうすぐ零時という時刻。深夜に空いているテナントなどこのビルには一つもない。

(泥棒?)

(見て来る)

 小声でそっと言葉を交わし、辰巳は足音を立てずに格子扉へ近付きガラス越しに外を見た。

「え?」

 思わず頓狂な声が出てしまった。『Canon』の扉の横にうずくまった大きな影が、その声のせいでビクンと大きく跳ねた。かと思うと、いきなり彼が立ち上がり、辰巳の視点もそれに釣られて自分の目線の高さとそう変わらないところまで上がっていった。

「待って」

 辰巳は慌てて扉を開け、店の外へと飛び出した。乱暴な足音を立てて階段を降りる影のあとを追い掛ける。

「辰巳!?」

 からんというドアベルの音と一緒に、克美の声が辰巳のあとを追って来た。

「逃げるなってばっ」

 見覚えのある大きな影。自分が彼を見間違えるはずがない。辰巳は階段を降り切った場所で、ようやく彼の腕を捉えた。

「す、すみませんっ。まさか誰かいるなんて思わなかったからっ。離してください、お願い」

 悪いと心の中で詫びながら、抗う腕を後ろに回して関節を固める。

「いたたたた痛いっ。辰巳さん、勘弁っ」

「じゃあ逃げるなよ――北木クン」

 通路の非常灯が仄かに映し出した彼のつぶらな瞳をまっすぐ捉え、命令口調でそう告げた。




 向かいのビルの段差をベンチ代わりに、男二人で腰掛ける。北木がどうしても店には入りたくないと言うからだ。

「アオヤギシュウジって、キミだったのか」

 その名は昨年末のクリスマスにも『Canon』の開店前に店先へ置かれた贈り物に記された送り主の名前だった。

「『ハンネを言うと身バレするから、本名を書いておきます』なんて。怪しい者じゃないと伝えたかったんなら、店の開いてるときに直接克美に渡せばよかったじゃないか」

「相変わらず意地悪ですね、辰巳さんは」

 北木はそう毒づいて、自販機で買ってやったミルクティーをくいと一気に飲み干した。

「あんな別れ方をしたきりなのに、合わせる顔なんかあるわけないでしょう。それに、辰巳さんや克美ちゃんが思ってくれるほど、僕は全然いい人なんかじゃ、ない、し」

 語尾が、震え出す。まるで十数年前の、自信がなかった学生時代の北木に戻ってしまったかのようだ。

「なんか、あったの?」

「……僕が前向きになって、笑えるようにならなくちゃ、と思って。克美ちゃんのことを諦めて、恋人を見つけて、次に会うときは恋人を連れて、笑って克美ちゃんや辰巳さんに紹介しようと思って……けど」

 克美が前に言った「自分で思っている以上に女性は北木に関心を寄せている」という言葉を信じてほかの女性とも付き合ってみたらしい。

「やっぱり、無理なんです。どうしても克美ちゃんと比べてしまう。その女性に悪いと思うのに、どうしても、その……いつも別れ話を切り出されたときに言われるんです。“好きになろうって努力されるほうが屈辱だ”って」

 それは北木が克美に対して強く抱いた気持ちとまるで同じだったらしい。自分の存在や気持ちそのものを負担に思われることほど辛いものはない、と言う。

「ただ、笑っていて欲しいだけなんです。『Canon』のお客の何人かが家の会計事務所を使ってくれてるんで、話を振られることがあるんですけど、このところ克美ちゃんが元気ない、って聞いて。匿名なら、それで悪意がないって解るなら、少し謎解きを楽しんでくれるかな、って」

「……北木クン、らしいね」

 辰巳がそう言って苦笑を零すと、何本目かの煙草からぽとりと灰が落ちた。

「常連客の情報から、しまいにゃ役所データのハックまでして“アオヤギシュウジ”を調べちゃったじゃないか。まったく。該当人物はいないし、却ってブキミ度が増したっつう……ねえ、克美」

 向かいのビルから、どうせ階段の影に隠れて聞いているであろう克美に向かって同意を求めた。横から小さな「え」という声が聞こえた瞬間、辰巳はもう一度彼の腕を力強く掴んで逃げるのを封じた。

「……北木さんの、バーカ」

 おずおずと克美が顔を出す。カツカツとアスファルトを軽快に踏み込んで近付いて来た彼女は、北木の前に佇むと、バッグから取り出した平たい包みを彼の前に突き出した。

「友チョコ! トモダチに会ったら渡すつもりで幾つか持ち歩いてたんだ、今日」

 差し出されたそれを受け取るのも忘れ、呆然と見上げる北木に、克美がさらにまくし立てる。

「ボク、いつでも店で待ってるから。ボクにはここで待ってるトモダチが北木さんのほかにもいっぱいいるしっ。ボクが待つ場所はココしかないしっ。みんなもそれを知ってるから、ヨユーで自分のこと頑張ってるしっ。だ、だからっ」

 ――気が向いたらいつでも、北木さんも北木さんのまんまで、好きなときに気楽に来てよ。

 深夜の小さな小路の片隅で、オレンジの笑みが弾け零れた。北木と一緒にそれを見上げていた辰巳も、思わず声を失った。克美のそんな笑顔を見たのは、一体何ヶ月振りのことだろう。

「CD、ボクが欲しかったアルバムだった。ありがとっ。お礼に辰巳を貸してあげる。ボク、先に帰ってるね」

 克美は一方的にそれだけ言うと、店の鍵を辰巳に放り投げ、そのまま駅方面へと走り去った。

「……俺は、レンタル商品か?」

 遠い昔に誰かへ皮肉った克美の言葉が、なんとなく口を突いて出た。


 今度は北木のためにコーヒーを沸かす。今日のオーダーはマンデリン。甘いチョコレートには、酸味の利いたこの豆がいいだろう。相変わらず口の肥えている北木のオーダーを聞いた瞬間、張り合いを感じて笑みを零した。

 辰巳がコーヒーを淹れている間、北木は克美が乱暴に寄越した平たい小箱の包装を解いていた。

「……辰巳さん、マンデリンをやめて、ウィンナコーヒーに変えてもらってもいいですか」

 彼専用のウィンナコーヒーのレシピは、生クリームにたっぷりのパウダーシュガーを溶かし込んだもの。怪訝に思ってカウンター席の向こうへ視線を遣ると、彼の前に広げられた包みの中身がその理由を教えてくれた。

「ビターチョコレート、だったのか」

「一列だけミルクってところが克美ちゃんらしいですよね」

 北木が克美から贈られたのは、ゴディバのダークチョコレートの詰め合わせ。ミルクの右に並ぶシンプルなビターチョコのカカオ配合率が、五十パーセントカカオ、七十二、八十五と右へ向かうほどビター度が濃くなっている。甘党の北木には、恐らく五十が限界だろう。

「これ、本当は辰巳さんに贈るつもりだったんでしょうね」

 そう言ってチョコを見つめる北木から、コーヒーネルに視線を移した。

「コーヒーにも少し砂糖を溶かしておくね」

 辰巳は北木の言葉を聞こえない振りでやり過ごした。


 結局鉢合わせしてしまったから、とでも思ったのだろうか。北木は別れたという彼女との復縁の相談をするでもなく、かと言って毎年恒例だったはずの合コンについての依頼でもなく。ただ克美の近況だけを尋ねて来た。

「――そんな訳で、また俺がへこませちゃってたみたい。さっき和解したつもりだから、もう大丈夫だと思うよ」

「辰巳さん、ホントに相変わらずっていうか。それじゃ去年とほとんど変わらないじゃないですか」

 去年。北木の気持ちを克美に気付かせようと、合コンを抜け出す手伝いに便乗させて二人の時間を作ってやったことを指しているのだと思う。

「だって、雛を巣立たせてやるのが親鳥の役目、なんじゃないの?」

「親なら、ですけど、辰巳さんは克美ちゃんの親ではないでしょう?」

 彼がそう反論しながら、ミルクチョコレートを一枚摘まむ。辰巳も釣られてなんとなく、差し出されるまま八十五パーセントを手に取った。

「兄貴だけど、親みたいなもんだし」

「血が繋がってませんよ。本当はとっくに気付いてるんでしょう?」

 マンウォッチングが趣味の北木は、わざと主語と目的語を抜いてそれだけ言った。彼の口に運ばれたチョコレートが、パキンとよい音を立てて彼の歯に割られた。

「俺が克美の呼び方を変えてからよく言われるアレを言ってるのかな」

 ――兄と妹なのに禁断の愛に走っちゃったらしいよ、あそこの兄妹。

 店の常連客、特に若い子達がそんな噂を立てているらしい。

「克也から克美に呼び替えたのは、そんな理由からじゃないんだけどね。退屈な日常よりも、傍から見る非日常のほうが刺激的で面白いんだろうからカモにされてあげてるだけなんだけど」

 自分達の事情を知らない店の客はともかく、古い付き合いの北木にまでそう思われているのは心外だ、と彼の憶測を笑いながらやんわりと非難した。

「なかなかスローな育ちの子でごめんね。隠れて生きて来て、酷い仕打ちに遭う中で育って来て、こっちに来てからやっと普通に生き直してる、まだその途中なんだ。やっと十四歳の女の子」

 手にした一枚を食うでもなく、指と指の間をくるくるとスライドさせて弄びながら、辰巳はただじっとコーヒーを見つめて俯く北木に弁解めいた謝罪を口にした。

「まだ女性にまでは育ってないから、なかなか俺から巣立てないけど、きっとそう遠くないうちに」

「辰巳さん」

 彼が辰巳の言葉を阻み、不意に顔を上げた。話を遮られたからというよりも、面を上げた彼の表情に黙らされた。

「僕の趣味が人間観察だってこと、知ってますよね」

 克美が言うところの“布袋様を思わせる温和で優しいふくよかな顔”が北木を示すもののはずなのに。今の彼からはそんな表情を欠片ほども見ることが出来なかった。

「僕の数少ない自信の一つなんですけど、多分観察眼はそう悪くないと思ってるんです」

 辰巳は彼の射抜くような視線から目を逸らし、手にしたチョコレートの包みを無造作に解き始めた。

「人間大事なのは中身だよって……あなたがそう教えてくれたのに」

 小さな四角いビターチョコに歯を立ててパキリと割る。口いっぱいに広がる味は、ほろ苦いを通り越して、ただただ苦かった。

「僕はあなたを目指して、ポジティブに考えようと努力して、そういう形で自分を磨いて来ているつもりです。外見がこんなだから、せめて中身は自分が誇れる自分になろう、って」

 北木が苦しげな呟き声で「僕にまで嘘をつかないでください」と口惜しげに訴える。彼は知らない。ここでの辰巳という存在そのものが、既に“偽り”でしかないということを。

「……俺はお前さんが思っているほどいい人じゃあないんだよ」

 北木が克美や自分に言った言葉を、そっくりそのまま彼に返した。

「前にも言ったでしょ。俺なんかを基準にするんじゃなくて、北木クンが北木クンらしく、そのままでいいんだって」

 ビターの味が遠のいてゆく。もっとビターな想いに割合を占められ、辰巳の笑みが醜くゆがむ。

「甘党には甘党がお似合い、ってこと。腫れた惚れたみたいな甘ったるいの、俺はあまり好きじゃないんだ」

 恋に恋している甘党なお子さまが年相応な大人になるまで待ってやってね。

 辰巳が述べた心にもないその言葉を、北木は辰巳の目をまっすぐ見据えて無言のまま聞いていた。




 北木は「諏訪まで送る」と申し出た辰巳に「車で来ているから」と辞退して帰っていった。そんな彼を見送ってから店の戸締りを済ませ、辰巳もアパートまでの家路を辿っていた。

『二人が並んで立っているのを見て笑えないうちは、まだこの店に来るのが辛いから』

 嫉妬が募る自分の醜さを克美の前に晒すのは嫌だから、と彼は力なく笑って言った。

 彼の言っていることが理解出来なかった。

(違うな。言ってることが、じゃあなくって)

 なぜ彼が自分などに嫉妬しているのかが解らなかった。

 嫉妬。

 その言葉に過剰反応している自分がいる。北木はまるで解っていない。辰巳が克美に施したくても施してやれないものを、自分がああも簡単にやり果せているということを。

「ばっかだなあ、北木クンは。結局自分で勝手にネガってるだけなんじゃん」

 わざと嘲る言葉を口にする。無理やり小馬鹿にするような笑いを交える。

「……人のこと、鈍感とか言えないじゃん、北木のばーか」

 無理やり笑うのに疲れ、それを最後に考えるのをやめた。


 克美はてっきり先に寝ているとばかり思っていたのに、部屋から灯りと何やら物音までが漏れていた。彼女がまだ起きていることを知って軽く戸惑い、辰巳はためらいがちにそっと玄関の扉を開けて部屋に入った。

「こんな夜中に何してんの?」

 キッチンを覗いてそう声を掛けると、克美が異常なほど驚き何かを後ろ手にして台所周りを隠した。

「は、早かったねっ」

「ゃ、もう二時になるんですけど」

 よく見れば頬と額に黒っぽい何かが飛んでいる。辰巳がついとキッチンへ一歩踏み込むと、克美が阻むようにずいと一歩近付いて牽制を掛けた。

「た、立入禁止」

 そう凄んで睨み上げてくる顔は、出産直後の母猫を思わせる勢いだ。だが。

「ここの家主は俺でっす」

 別に怖くも痒くもない。辰巳は難なく克美の頭を襖よろしく脇へ押しやり、その向こうへ視線を飛ばした。

「あーっ! あー、ダメってば!」

「……」

 所狭しと散らばるのは、コンビニでよく売っている市販のチョコレートとその包み紙。コーヒー豆が絹挽きで少々。カップケーキの型に、かじり掛けた完成品。

「……何してんの」

「……チョコ、甘いのしかコンビニに売ってなくって、だからその」

 ことん。またどこかで音がする。もう空き缶なんかどこにもないのに。

「で、ビターチョコのケーキを作ってくれてたの?」

 小さくこくりと頷いたまま、顔を上げない克美の前髪をそっと掻き上げた。

「淹れたコーヒーを練りこんだら失敗しちゃって、そんで」

「作り直してたのか」

「……うん」

 ごめんね、とお門違いな謝罪を告げる唇に、そっと“ただいま”のキスをする。

「また変なところで謝る」

「だってさ」

「慌てて作ってたんだろ。顔にいっぱいチョコが跳ねてる」

 くすぐったいものを感じながら、そう言って今度はチョコのついた額にキスをする。舌に残るどろりとしたくどい甘味が、意外と食えないものでもないと辰巳に妙な勘違いをさせた。

「食えないことないよ。この甘さなら」

 言いながら彼女の頬についたチョコレートに舌を這わせる。

「……辰巳?」

 震える声が辰巳の鼓膜を揺らすのと、辰巳の視覚がカウンターに広げられたメッセージカードの文面を読むのとが重なった。


『辰巳へ

 おかえり。妹渾身の処女作だぞ! 泣きながら有難く食いやがれ!

 まだまだお子さまな妹より』


 ――妹。イモウト。克美ハ 加乃ノ 妹ダ。ダカラ 俺ノ 妹ダ――。


 そんなフォントが脳裏を過ぎる。いつかどこかで描いたフォント。


「……帰って来るの、早過ぎた。もっかい出掛けて来る」

「はぁ!?」

 克美のそんな声を背に受けながら、辰巳は逃げるように玄関から飛び出した。


 まだ少しぬくもりの残っているランドクルーザーを駈り出して、行く当てもなくただ走らせる。

 汚い自分にまた一つ穢れを上乗せした気がし、自己嫌悪が止まらない。

 高価な自分好みのチョコレートより、必死な顔と努力の塊を見た瞬間のほうが堪らなかった。

 北木のことを、その瞬間忘れた。彼に一瞬抱いたどす黒い負の感情が、その瞬間ある種の優越感にすり替わったせいだと今なら解る。克美が自分を見て浮かべる瞳の色が恋に恋するだけのものだと解っている癖に、それを利用しようとしていた自分というものも、今なら客観的に見て取れる。

「サイテー」

 そんな自分に反吐が出た。

 いつの間にか犀川に沿った国道まで走らせていた。高速道路の側道を目指して左折する。豊科インターの手前を右折してしばらく走ると、『白鳥湖』への案内の看板が見えた。

 以前カメラが趣味の客から白鳥が群がる写真を見せてもらったことがある。撮影場所がここだと聞いていた。辰巳は無性に白いものが見たくなり、そこへ辿り着くと車を降りて石だらけの河川敷を忍び足で歩き、慎重な足取りで川べりに近付いた。

 ピークは過ぎたが、まだ北へ飛び立っていない白鳥も多かった。固まって眠りに就いている彼らを起こさないように、距離をとって河川敷に膝を抱えて座り込む。

 どちらが子で親か解らないほど成長しているのに、まだ親鳥に寄り添って眠る子白鳥や、そんな子達を囲んで眠りに就く親白鳥達をぼんやりと眺めた。

(加乃)

 誰も答えることのない独りぼっちの空間で、今一番会いたい人の名前を呼ぶ。

(お前の課題、俺には難し過ぎるよ)

 ――克也に普通の暮らしを、お願いね――。

 闇夜に浮かぶ加乃の幻は、相変わらずやっぱり辰巳の問いには答えない。ただ儚い笑みを零すだけだ。

 ただ笑って過ごしていて欲しいだけ。

 その願いは、辰巳こそがほかの誰よりも長い時間、強く抱き続けて来たものなのに。先に北木が口にしてしまった。克美にそれを与えてやれそうな奴が、ああもあっさりと言葉にしてしまった。自分がなかなかそれを言葉に出来なかったのは、自分が叶えてやれそうにないからだったと気付かされてしまった。そのことが。

「……悔しいなぁ……」

 警戒役だったのであろう白鳥の一羽が、突然首をもたげて警戒の鳴き声を上げた。それを受けてほかの白鳥達が一斉に目を覚まし、次々と辰巳の前から飛び立って行く。

「どうせ泣かせることしか出来ない、ってか」

 白いものたちにまで見限られ、辰巳は半ば諦めたように独りおどけてみせた。繰り言に近いその言葉とともに漏れた息だけが、辰巳に純白を見せてくれた。

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