見習い魔法使いⅠ
「アルノー様、私……魔法について、ちゃんと勉強したいです」
そう口にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
ユリとリウスに「学校に行きたい」と宣言した翌日。
わたしは半ば勢いのまま、アルノー様の執務室に押しかけていた。
「……本来なら、まずはマナーから講師をつけるつもりだったのだが」
アルノー様は書類から視線を上げ、静かにこちらを見る。
「なぜ、いきなり魔法なのだ?」
「それは……」
言葉を探しながら、指先をぎゅっと握りしめる。
「私、魔法をもっと上手に使えるようになりたいんです。
魔法が使えたら……その、きっと、この家の役に立てることも増えると思って……」
――だめだ。
これじゃ、まだ弱い。
(もっと……もっと、私に価値があるって伝えなきゃ)
アルノー様は小さく息を吐いた。
その仕草だけで、胸がざわつく。
(……やっぱり、失望した?
住まわせてもらってるだけで、十分すぎるのに)
「ごめんなさい……」
思わず、声が小さくなる。
「衣食住まで用意してもらっているのに……わがまま、ですよね……」
「ノエル」
不意に名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
「こちらへ来なさい」
――いやだ。
心臓が、早鐘を打つ。
叩かれるのだろうか。
二年前の記憶が、嫌というほど鮮明によみがえる。
私を“拾った”というあの人は、気に入らないことがあるとすぐ手を上げた。
小さな体は簡単に吹き飛ばされて、床を転がった。
……あの痛み。
あの恐怖。
恐る恐る、アルノー様のそばへ近づく。
伸びてくる手。
怖い。
叩かれるのには慣れているのに、体は正直で勝手に強張ってしまう。
ぎゅっと目を閉じた。
――でも。
いつまで経っても、痛みは来なかった。
恐る恐る目を開くと、
そこには、少し困ったような、寂しそうな顔をしたアルノー様がいた。
「……私が、怖いか?」
初めて聞く、そんな声色。
「ち、違います……」
慌てて首を振る。
「その……大人の人の手が、少し怖いだけで……
叩かれるのは、まだ……痛くて……」
その瞬間、
アルノー様の表情が、明らかに変わった。
伸ばしていた手を、ぐっと握りしめ、目つきが鋭くなる。
「……ごめんなさい!」
思わず、床に膝をついていた。
反射みたいなものだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
頭を下げ、体を小さくする。
――次の瞬間。
ふわり、と体が浮いた。
「……っ!?」
「誰に教えられた。
そんなふうに謝ることを」
低く、怒りを押し殺した声。
「私は君に、痛いことはしない。
これから先も、ずっとだ」
「君を傷つける者がいるなら――
私は、決して許さない」
そっと床に降ろされ、そう言われる。
「家の役に立とうなどと思わなくていい。
侯爵家の娘だからといって、魔法が使えなくても構わない」
「君はただ、君の望むままに生きればいい。
そのためなら、私は何でもする」
……ずるい。
そんなこと、言われたら。
「どうして……」
気づけば、涙がこぼれていた。
「どうして、そんなに優しくしてくれるんですか……」
「当たり前だろう」
アルノー様は、少しだけ笑った。
「大事な娘を、愛さない父親など――
それこそ、失格だ」
その手が、そっと頭に触れる。
あたたかい。
怖くない。
……初めてだった。
誰かの手が、こんなにも優しいなんて。
涙が止まらなくなったわたしの目元に、
いつの間にかハンカチが添えられていた。
「ノエル」
低く、穏やかな声。
「君が本当にやりたいことは、何だ?」
「……わたし……」
一瞬、言葉に詰まる。
それでも――信じたい。
「魔術学校に、行きたいです」
「……そうか」
「それから……」
勇気を振り絞る。
「恥ずかしくないように、マナーも学びたいし……
最低限の常識も、ちゃんと身につけたいです」
「だから……」
深く頭を下げる。
「勉強させてください!」
アルノー様はしばらく黙っていたが、
やがて、優しく目を細めた。
「国で一番優秀な教師をつけよう」
「えっ!? い、いえ、そこまでじゃ……!」
「遠慮はいらん」
くすりと笑う。
「頑張りなさい」
「……はいっ!」
胸の奥に絡みついていた不安が、すっとほどけた。
何かにならなくても、役に立たなくても、
ここにいていいのだと――
初めて、そう思えた。
これ以上仕事の邪魔をしてはいけない。
ハンカチで涙を拭い、軽くお辞儀をして、ドアへ向かう。
――でも。
扉を開ける直前、どうしても、振り返ってしまった。
(……言いたい。
今なら、言える気がする)
「……ありがとう……」
小さく息を吸って。
「……パパ」
言った瞬間、顔が一気に熱くなる。
慌てて扉を開け、廊下を駆け出した。
両手で頬を押さえながら、ひたすら走る。
――そのころ執務室では、
顔を赤くし、片手で口元を覆ったまま、しばらく動けなくなっている父の姿があったことなど、
知る由もなかった。




