黒髪の魔法使いⅥ
「おはようございます、エレノワール様」
「おはよう。アンナ」
目をこすりながら、ゆっくりと上半身を起こす。
サイドテーブルにはすでにティーセットが用意されていて、
アンナがカップに紅茶を注いでいるところだった。
カップを受け取り、音を立てないように口をつける。
寝起きの乾いた喉に、じんわりと染み渡っていく。
まだ紅茶の本当のおいしさは、正直よくわからない。
だから砂糖は多め。
これくらい甘くしてもらわないと、私の舌にはまだ早い。
(……この生活に慣れていく自分が怖い)
路上で朝を迎えていた頃には、
こんなふうにベッドの上で紅茶を飲むなんて考えもしなかった。
まだ不思議で、少し落ち着かない。
飲み干してベッドから降りると、次は今日の服選びだ。
――とはいえ、実際に選んでいるのはアンナだけれど。
毎朝「着たい服はありますか」と聞かれて、
そのたびに「アンナの好きなので」と答えていたら、
最近は起きる前から、アクセサリーや靴まで揃えて置かれるようになっていた。
今日は暑いからと
半袖の白いブラウスに、ふわりと広がる黄色いスカート。
髪は高めの位置で二つに結われ、
スカートと同じ色のリボンが結ばれる。
最後に宝石のついたリボンタイを首元に。
どうやら、それで完成らしい。
どこかへ出かける予定があるわけでもない。
それなのに宝石を身につけるなんて。
(……侯爵家って、やっぱりすごい)
もう感心するしかなかった。
大きな姿見の前で、そっと一回転してみる。
映っているのは、どう見ても令嬢だった。
「今日もよくお似合いですよ。
こちらのお洋服も、ヴァレリウス様がお選びになりました」
「……リウス」
外出もあまりしたがらないし、
仕立て屋を屋敷に呼ばれても恐れ多くて服を選ばない私に、
リウスは「それじゃもったいない!」と頬を膨らませながら、
次々と服を買い足していく。
何度止めても、
「父上からちゃんと許可もらってるし!」と、
服や靴、装飾品を置いて行ってしまうから、
結局止めることはできていない。
(しかも――やたらとセンスがいい)
家具も服装も、こだわりが強いタイプだ。
「自分のを買えばいいのに」と言うと、
「僕はもう、自分の“好き”はちゃんとわかってるから!」
と胸を張る。
「でもノエルは、まだ自分の“好き”がわからないでしょう?」
そう言われると、何も返せなくなってしまう。
服なんて、着られればそれでいい。
本当はそう思っているけれど、
そんなこと絶対にリウスの前では口にできなかった。
(そんなこと言ったら軽く一時間は説教されそうだ……)
ノクス家では、朝食は必ず家族そろって食べるらしい。
それを決めたのがアルノー様だと聞いたときは、正直かなり意外だった。
長いテーブルには、料理がずらりと並んでいる。
パンにスープ、卵料理に果物――
どれも量が多くて少し圧倒される。
「もっと食べなきゃだめだよ」
隣から、すかさず声が飛んできた。
「ちゃんと食べてる? その量じゃ足りないでしょ」
……リウスだ。
監視、と言っていいくらいの視線がずっとこちらに向けられている。
心配してくれているのはわかるけれど、少しだけ落ち着かない。
でも実際、私はまだまだ瘦せすぎているらしい。
何かと「ちゃんと食べてる?」と言われてしまう。
言われるままにパンをちぎって口に運ぶ。
その途中ふと視線を上げると、
シアン兄さまと目が合った。
にこっと、やさしく笑ってくれる。
……昨日会ったばかりなのに、
本当に優しい人だなと思った。
アルノー様はというと、黙々と食事を進めていた。
その動きは無駄がなくて、静かで、
いかにも侯爵様という感じがする。
私はというと――
相変わらず、テーブルマナーがよくわからない。
フォークはどっちの手だっけ。
パンはこのまま食べていいんだっけ。
周りの様子をこっそり見ながら、
それっぽく真似して口に運ぶ。
……たぶん、そんな様子が目に留まったのだろう。
「ノエル」
アルノー様が、静かに声をかけてきた。
「マナーを学びたいか?」
一瞬、手が止まる。
学びたいか、と聞かれて、
胸の奥が少しだけぎゅっとした。
せっかく養子に迎えてもらったのに。
いつまでも、よそから来た子のままではいけない。
ここは、私ももう――ノクス家の一員なのだから。
「……はい!」
思わず、食い気味に答えていた。
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
アルノー様が、ほんの少し目を見開く。
隣のリウスも、一瞬きょとんとした顔をしたあと、
「まだゆっくりしてていいのに」
そう言いながらもどこか嬉しそうだった。
初めて、ちゃんと自分の意志を伝えたからだろうか。
アルノー様も、驚いたようでいて、
どこか満足そうに小さく頷く。
「頑張り屋だね」
シアン兄さまはそう微笑んで、
それ以上は何も言わなかった。
朝食の後、
アルノー様は執務へ、
シアン兄さまは鍛錬場へ、
リウスは渋々ながら勉強の時間へと向かっていった。
私はというと、まだ特にやることがない。
「でしたら、お庭でお過ごしになりますか?」
アンナにそう勧められて、
せっかくいただいたスケッチブックを抱えて庭へ出た。
芝生の端、花壇がよく見える場所に腰を下ろす。
白い紙を前にして、クレヨンを走らせると、
不思議と時間を忘れてしまう。
「日差しが強くなってきましたね。
パラソルを取ってまいります」
アンナがそう言って、屋敷の方へ戻っていった。
ひとりになった庭は、
さっきより少し静かだ。
その直後だった。
ふわり、と風が強く吹き抜ける。
「あ……!」
かぶっていた帽子が、
ひょいっと頭から持っていかれた。
芝生の上を転がっていく。
慌てて立ち上がろうとした、その前で。
「これ、君のかな?」
帽子を拾い上げたのは、
見知らぬ青年だった。
ふと顔を上げると、
淡い黄色の瞳がこちらを映していた。
(まるで、光を閉じ込めたみたい)
威圧されるわけでもないのに、
背筋が、すっと伸びる。
白い髪が陽の光を受けて、きらきらと揺れていた。
どうしてだろう。
それだけで目を離せなくなる。
今まででいちばんきれいなものを見た気がして、
胸が、きゅっと音を立てた。
「す、すみません……ありがとうございます」
受け取ろうとすると、
青年は少しだけ目を細めて笑った。
「飛ばされなくてよかったね」
そう言って、帽子を差し出してくる。
その仕草が自然で、
不思議と警戒心は湧かなかった。
「絵を描いていたの?」
足元に置いていたスケッチブックに、
ちらりと視線を落とす。
「はい。落書きみたいなものですけど……」
「へえ」
興味深そうに、
けれど踏み込みすぎない距離で、
青年はそう相槌を打った。
――そのとき。
「ノエル様!」
アンナの声が、少し遠くから聞こえた。
振り返った一瞬の隙に、
青年はすっと距離を取る。
「じゃあ、これで」
そのまま屋敷の方へと歩いていった。
「あ……」
呼び止める間もなく、
その背中は木立の向こうに消えてしまう。
胸の奥がまだ落ち着かなくて、
鼓動が少し速くなっている。
どうしてか、頬までじんわりと熱い。
(……誰だったんだろう)
帽子を胸に抱えながら、
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。




