教頭先生は鏡の中(上)
天神杜小学校の教頭先生は、毎朝とても早く出勤します。ひとけのない職員室で授業の準備をした後、児童たちの登校を見守るからです。校舎の目の前の坂は車通りが多いので、先生たちや保護者の人たちがかわるばんこに旗を振って、みんなが安全に横断歩道を渡れるように気をつけています。
児童がだいたい登校し終えたら、今度は職員室で朝の会議です。たいてい司会をするのは教頭先生でした。魔法の先生たちも交えて、行事予定や授業の目標などについて話し合います。
会議が終わって、学級担任の先生たちは自分の教室へと向かいました。一限目から授業のある先生たちも、慌ただしく準備を始めています。教頭先生は、これからお客さんと会う予定でした。
ところが、職員室の中を歩いていた時、不意に教頭先生は派手に転んでしまいました。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あいたたた……」
教頭先生は、周りから心配の声をかけられながら、ゆっくりと起き上がります。強くぶつけた膝が、ずきずきと痛みました。
床の上を見回しても、つまづくようなものはありません。まるで見えない誰かに足をひっかけられたかのようでした。
膝の痛みがひくと、ズボンの汚れをぱっぱっと払って再び歩き始めましたが、どうも誰かに袖を引っ張られている気がするのです。
それで教頭先生もようやく気がつきました。最近、ひょんなことから先生には「おばけ」がとりついているのですが、きっとそのおばけがいたずらをしているのでしょう。
教頭先生は、歩く方向を変えて職員室の側のトイレに行きました。
鏡をのぞきこむと、教頭先生そっくりの姿をした「おばけ」が、にやにやと見返しています。
「何か言いたいことでもあるのかな?」
教頭先生が問いかけても、おばけは「あっかんべー」をするだけでした。いつもそうです。教頭先生は「おばけ」と言葉を交わしたことはまだありません。ただおばけが一方的にちょっかいを出してくるばかりでした。
「君はちょっとしたいたずらのつもりかもしれないけれど……俺はもうそんなに若くないんだ。怪我をしたらなかなか治らないこともあるし、それで仕事を休むことにでもなったら困るよ。退屈なら皆が帰った後で遊んであげるから、今は大人しくしていてくれないかな?」
おばけは、ちょっと口をとがらせてうなずきました。
いたずらをするわりには、おばけは物わかりがいいのです。最初にした約束の通り、児童や他の先生にはちょっかいを出しませんし、この日以来教頭先生を転ばせたりすることはなくなりました。教頭先生は、おばけをいたずら好きの児童のように思い始めました。きっと、元々素直なおばけなのでしょう。悪いことをしたら、きちんと叱ってやれば分かってくれるのです。そのうちおばけが学校に慣れてきたら、ゆなちゃんやベートーヴェンのように学校公認のおばけになるかもしれません。(公認のおばけは、時々おやつをもらえたり、学校行事に参加することができます)
あくる日、教頭先生は風邪を引きました。朝から体がだるく、熱を測ってみると38度もあったので、学校を休むことにします。電話で連絡してから、医者で薬をもらい、その後はずっと家で寝ていました。おばけも具合のわるい先生に気をつかっているのか、その日は全く気配を見せませんでした。
翌朝平熱に下がったので出勤すると、児童たちが集まってきます。
「おはようございます!」
「はい、おはよう」
教頭先生がにこにことあいさつを返すと、児童たちは顔を見合わせました。
「あれ、元の教頭先生に戻ってる!」
一体何のことでしょう。首を傾げる先生に、児童たちが言いました。
「先生、昨日すっごくヘンだった!」
「昨日?」
昨日は一日休んでいたはずです。
「体育のとき、ぴょんぴょん飛びはねてきて、今日はダンスをしましょうって。ほんとはドッジボールをやる日だったのに。だから、みんなでずっとダンスしてたんだよ」
「しかも先生、おばけダンスだって言ってた」
口々に言う児童たちを見下ろして、教頭先生は凍りつきました。
職員室にかけこむと、先生たちが声をかけてきます。
「おはようございます、教頭先生。昨日はなんだかとても陽気でしたね」
「一回風邪で休むって電話されてから、やっぱり来てくださったから、熱で変なテンションになっていたんじゃないですか?」
「でも、PTA役員の方々をダンスにさそって、一緒に踊っていたのはさすがでした」
「うわああああ……」
教頭先生は耳をふさぎ、次々と聞かされる覚えのない醜態から逃げました。
さあ、犯人が誰かは、分かりきっています。
夜遅く、他の先生たちが皆帰ってしまうと、教頭先生は音楽室に向かいました。シューベルトとピアノで連弾をしていたベートーヴェンは、先生が来ると手を止めました。
「おや、教頭先生。どうしたね?」
「今夜は、おばけ君と徹底的に話し合おうと思いまして。お立ち会いをお願いします」
教頭先生は、全身鏡を持ってきて目の前に据え、おばけに向かって怒鳴りつけました。
「なんてことをしてくれるんだ!! 俺のいない間に勝手になりすますなんて!! めちゃくちゃじゃないか!」
おばけは、鏡の中で身を縮めました。ベートーヴェンがなだめます。
「まあまあ、おばけも悪気があったわけじゃないんじゃないか? 教頭先生が風邪を引いていたから、代わりをしてあげようと思ったんだろう」
「そんなことは分かっています! だが非常に迷惑だ!!」
おばけはしくしくと(声は聞こえませんが)泣きだしてしまいました。教頭先生にとっては自分とそっくり同じ姿のやつが泣いているので、なんだか怒る気も失せて、あきれ顔で眺めるしかないのでした。
「……ま、二度としないでください」
ベートーヴェンが、にやにやと笑っています。
「いっそ、おばけを影武者にしてやったらどうだ? 一日交替くらいでおばけに仕事をしてもらったら、いつも忙しいあんたも楽になるだろう。授業のやり方も、教えてやればいい」
鏡の中のおばけは、こくこくと何度もうなずきました。
「影武者……?」
教頭先生はうたぐり深くおばけを見ました。しきりに自分を指差してアピールするおばけ。やる気は十分のようですが……。
「1+1は?」
先生の問題に、おばけは指を4本突き出します。
「ダメだこりゃ」
頭を抱える教頭先生でした。
その夜のことがきっかけで、教頭先生はおばけに勉強を教え始めました。国語に算数、理科社会。体育は、もう十分のようです。鏡をもう1つ使って、ちゃんとした向きの字をおばけに見せられるように工夫しました。場所は、例によって音楽室です。ベートーヴェンや他の音楽家たちの肖像が、いつも身動きしたりささやきかわしながらその授業を見守っているので、まるで毎日授業参観をしているみたいでした。
別に、先生はおばけに自分の影武者となってもらいたいわけではありません。でも、おばけにとって、いろんなことを勉強するのは決してわるいことではないと思ったのです。せっかく学校に来たのですから。おばけも、授業を楽しんでいるようでした。時々先生はテストを出して、おばけの理解度を確かめました。おばけはなかなか覚えるのが早く、一ヶ月ほどでもう1年生の勉強は終わってしまいました。
そんな授業を続けていたある日、教頭先生は廊下でマリコ先生に話しかけられました。
「教頭先生」
「ああ、お久しぶりです」
教頭先生はある出来事がきっかけで、マリコ先生のことを少し怖がっていたのですが、マリコ先生はそんなこと気にもとめずにずけずけと言いました。
「教頭先生から、おばけの気配を感じます。とりつかれましたね?」
「は……はい」
「わたくしが除霊してさしあげましょうか」
そう言われた時、とっさに教頭先生は首を振りました。
「いえ、結構です」
「どうしてですか? おばけにとりつかれたままは、嫌でしょう?」
「ええ、ああ、いや」
よく分からない返事をしてから、教頭先生は笑いました。
「それが、なかなかいいおばけなんですよ」
「おばけに気を許すと、痛い目を見ますよ」
マリコ先生は冷たく言いました。
「まあ、私の手が必要であれば、おっしゃってください。この世から消し去ってあげましょう」
マリコ先生が立ち去ると、教頭先生は身震いしました。
「ああ、怖い」
それから、おばけがどうしているのかふと気になって鏡をのぞきにいきました。
ところが、鏡には何も写りませんでした。
「おばけ君?」
いくら呼んでも、鏡を叩いてみても、おばけの姿はどこにもありません。
きっと、おばけはマリコ先生の話を聴いていたのでしょう。それで怖くなって、逃げ出したに違いありません。
先生は、学校中を探し回りました。トイレにも、階段の踊り場にも、職員室の蛇口のところにも、おばけはいません。夜になって、教頭先生は公認のおばけたちや外にいる動物たちに聞いて回りました。けれど、鳩も、猫も銅像も、トイレのゆなちゃんも裏天神杜小学校の教員たちも、ベートーヴェンも、図工室の絵も、理科室の人体模型も、図書室のぬいぐるみも、教頭先生のおばけがどこにいるかは知りませんでした。
「きっと、明日になればもどってくるさ」
そうベートーヴェンはなぐさめます。けれど、たった一人でいるおばけがマリコ先生に見つかってしまったら、問答無用で除霊されてしまうかもしれません。
教頭先生は、夜ふけになっても学校の中を探し続けました。夜の散歩をしていた人体模型が、たびたび顔を合わせる教頭先生を心配して、こう言いました。
「もう、あらかた見て回ったのでしょう?」
「そうだね。鏡という鏡は、全て……」
人体模型は、ちょっと何かを考えていましたが、やがてためらいがちに言います。
「開かずの部屋の中は、見ましたか?」
「開かずの部屋……」
それは、一階の図工室にある、とても小さい部屋のことです。なぜかいつも中から鍵がかかっているので、誰も入ったことがないのです。
教頭先生は諦め半分で、開かずの部屋に向かいました。人体模型もついていきます。
部屋の扉を引いてみると、驚いたことにするすると開きました。教頭先生は人体模型と顔を見合わせます。もう何十年も、開いたことのない部屋のはずなのに。
電気のつかない部屋の中は暗く、廊下から差し込む月の光だけが頼りでした。ここは物置がわりに使われていたようで、雑多なものが置いてありました。
ほこりくささに先生がくしゃみをした時、何かがきらりと光りました。
「教頭先生!」
人体模型が指さす先には、画板ほどの大きさの鏡が、むき出しで壁にたてかけてありました。
教頭先生がかけよると__鏡の中に、しょんぼりした表情のおばけがいました。
「ああ、よかった」
教頭先生はほほえみ、よびかけます。人体模型が、手を振って廊下に出ていきました。
「おいで、授業をしよう。大丈夫、除霊なんかさせないよ」
おばけの目が、きらきらと輝きを取り戻します。おばけが手を伸ばすので、教頭先生も手を出して、鏡の面に触れました。
その瞬間、教頭先生は鏡の中に引っ張り込まれてしまいました。
気がつくと教頭先生は鏡の中にいて、かわりにおばけが開かずの部屋にいました。
茫然とする教頭先生を、おばけはきらきら光るひとみで見つめ、くるりと背中を向けました。
それっきり、教頭先生がいくら叫んでも、鏡を叩いても、その声や音は学校には届かないのでした。
(つづく)




