Day 9
「伊澄さん、今日の放課後残る?」
1組との合同体育の翌日、HR直後のざわついた教室で、カバンを背負った脩也が声を掛けてきた。
「……うん、残ると思う」
「帰り、少し話せる?」
「…わかった」
クラス中の視線がこちらに向けられていることを気にも止めず、いたって普段通りの様子で、脩也はそのまま教室を後にした。
脩也が教室を出ると、次は残された遥の反応を伺うように、クラスの視線が遥に集中する。
戸惑いでその場で固まっていると、ポケットの中でスマホが震えた。
「見てたよー♡ ついにはるにも春到来??」
「悔しいけど梁瀬効果まじテキメン」
「あした朝イチ報告よろ」
見ると、清佳からの怒涛のLINE。やけにリズムのいい文面に思わず笑いがこぼれると、そんな遥の反応にクラスが再びザワつきはじめた。流石にいたたまれず、騒ぎが落ち着くまで待とうと教室を離れた。
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夕方、脩也から「用具庫まで来れる?」とLINEが届いた。
外ではまだ、自主練を続ける野球部の声がまばらに聞こえる。言われた場所に行くと、まだ練習着姿の脩也が用具庫脇の壁に背をもたれていた。
その姿を見つけるなり、自然と駆け足になる。
「あのっ、…ごめん!拓海が嫌な絡み方してるの、緋本くんと私の間違った噂聞いたみたいで、それで…」
「付き合ってるの?」
予想外の質問に驚き、体が一瞬固まる。
「ただの幼馴染だよ?!拓海は他校に彼女がいるし…」
「は?かのっ……マジか、あいつ…ッ」
脩也は目をまん丸にした後、膝に両手をつき、小さく悪態をついた。
「なに、拓海に何かされた?あいつは私のこと揶揄うのが趣味みたいなもんだから…緋本くんに何か恨みがあるとか、そういうんじゃなくて……っ」
「わかってる。大丈夫だから。あーー…恥っずい…」
怒っているのか照れているのか。てっきり拓海のことで何か話があるんだと思っていた遥は、目の前の脩也の様子に困惑するしかなかった。
「あー、ごめん伊澄さん。すごいキョトンとさせてる」
「あ…そうだよ。拓海も、緋本くんも、何が何だか…」
「ははっ…そうだよな」
脩也は視線を落としたまま小さく笑うと、顔を上げながら右腕で前髪を掻き上げた。
「……噂、間違ってないよ」
親指で目元を拭う脩也と、目線が交わる。
「俺、伊澄さんのこと好きだよ」
清々しい顔をして遥をまっすぐ見つめる脩也の前髪が、僅かな風にそよいだ。
「….…うん。私も、緋本くんが特別」
思わず目頭が熱くなる。
この3ヶ月、脩也と過ごす時間が遥にとってどんどん大きな意味を持つようになっていた。それと同時に、名前のつけ難い関係性は、包まれるような安心感と正体が見えない不安がいつも隣り合わせだった。
自分のなかでずっと曖昧だった感情が、脩也の言葉で輪郭を持った気がした。
「あーーー」
脩也はその場にしゃがみ込み、両膝に頭を埋め込むようにして、長くうめいた。そのまま動かないので、遥は戸惑いながらも隣に腰を下ろす。
「……でも、今は駄目」
しばらくして顔を上げると、口元で両手を合わせながら、脩也は真っ直ぐ前を見据えた。
「今、このまま付き合ったら、気持ちが全部伊澄さんに持ってかれる。そしたら、野球に集中できないかもしれない」
グラウンドから聞こえる白球の音が、さっきまでよりもやけに鮮明に響く。同時に、初戦で泣き崩れていたチームの姿が遥の脳裏に蘇った。
「….…待つよ。私、待ってる」
気持ちを確かめ合えただけで、今は十分だった。
夏の訪れを告げるような、生暖かい風が吹く。
グラウンドからは、まだ野球部の練習音が響いていた。