第9話 亡霊のレンズ
ベンチの上に鎮座していたのは、最新型のミラーレスカメラだった。
翔太は息を呑む。Canon EOS R5。プロ仕様のフルサイズ機。市場価格は60万円を下らない。それが、なぜこんな廃駅に。
恐る恐る手を伸ばす。指先が、ボディに触れる。
冷たい。だが、埃は積もっていない。つい先ほどまで、誰かが使っていたかのような状態。
持ち上げる。ずっしりと重い。レンズは、RF24-70mm F2.8 L IS USM。これだけで20万円はする。
「なんで...こんなところに...」
ストラップを見て、翔太は凍りついた。
革製のストラップに、見覚のある刺繍。筆記体で綴られた名前。
『@ruins_seeker』
「本物...」
声が震える。3週間前に失踪した廃墟写真家の機材が、なぜ今ここに。しかも、まるで今朝置かれたかのような状態で。
震える指で電源ボタンを押す。
ピッ。
起動音と共に、背面の液晶モニターが点灯する。バッテリー残量を示すアイコンは、満タンを表示している。
「ありえない...」
3週間も放置されていたカメラが、フル充電のはずがない。
再生ボタンを押す。保存された画像の一覧が表示される。撮影日時を確認すると、最も新しいものは3月20日。@ruins_seekerが最後に投稿した日付と一致する。
最初の数十枚は、彼の作風そのものだった。廃墟の朽ちた美しさを、光と影で巧みに表現した芸術的な写真。錆びた鉄骨に差し込む陽光。崩れた天井から覗く空。蔦に覆われた窓枠。
だが、スクロールしていくにつれて、写真の雰囲気が変わっていく。
撮影対象が、徐々に「猫」に偏り始める。
路地裏でうずくまる三毛猫。 廃屋の屋根に佇む黒猫。 瓦礫の上で毛づくろいをする白猫。
最初は風景の一部として写り込んでいた猫たちが、次第に主役となっていく。そして、ある時点から、猫しか写っていない写真ばかりになる。
何か違和感がある。
猫たちの姿勢だ。普通の猫とは、微妙に違う。四つ足で立っているが、背筋がやけに真っ直ぐ。まるで、二足歩行を無理やり四つ足に矯正したような不自然さ。
そして、瞳。
どの猫も、カメラを真っ直ぐ見つめている。それも、ただ見ているのではない。何かを訴えかけるような、知性を感じさせる眼差し。
「なんだよ...これ...」
さらにスクロール。写真の撮影間隔が短くなっていく。まるで、何かに取り憑かれたかのように、狂ったようにシャッターを切り続けたような。
そして、最後から10枚目あたりから、異変が始まる。
写真がブレている。手ブレではない。被写体ブレだ。猫たちが、高速で動いている。いや、違う。よく見ると...
「立ってる...?」
一瞬、二本足で立ち上がった猫の姿が写り込んでいる。次の写真では、また四つ足。その次は、中途半端な姿勢。まるで、人間と猫の間を行き来しているような。
最後から3枚目。
夜の撮影。フラッシュが焚かれている。画面の大部分は真っ暗だが、無数の光る点が写っている。
猫の目だ。
数十、いや数百の猫の目が、暗闇の中から一斉にこちらを見つめている。
最後から2枚目。
画面が大きくブレている。地面すれすれの角度。まるで、カメラを持ったまま転倒したような。画面の端に、人間の手が写り込んでいる。@ruins_seekerの手だろう。その手に、赤い筋が...
血だ。
そして、最後の1枚。
真っ黒な写真。いや、よく見ると、真っ暗な中に何かが写っている。目を凝らすと、それは...
翔太は、思わずカメラを取り落としそうになった。
暗闇の中に浮かぶ、巨大な猫の顔。いや、猫というには人間じみている。人間というには猫じみている。その境界が曖昧な、グロテスクな顔面。
口が、大きく開いている。人間の言葉を話そうとしているような口の形。そして、その奥に見える、無数の小さな顔。まるで、たくさんの何かを飲み込んだ後のような。
「うっ...」
吐き気が込み上げる。
慌ててカメラから目を離し、深呼吸を繰り返す。冷たい空気が肺を満たす。少しずつ、正気を取り戻す。
ふと、ふと思いついて、もう一度カメラを手に取る。今度は、ファインダーを覗いてみる。
レンズ越しに見える廃駅の風景。さっきまでと同じ、朽ちた建物があるだけ...
いや、違う。
ファインダーの中では、別の世界が広がっていた。
半透明の猫たちが、ホームの上を歩いている。実体を持たない、幽霊のような猫たち。ある者は四つ足で、ある者は二本足で、ある者はその中間の奇妙な姿勢で。
そして、その猫たちは皆、一様にファインダーの向こう側を見つめている。
つまり、翔太自身を。
「!」
反射的にカメラから目を離す。現実の風景に目を向ける。何もいない。静まり返ったホームがあるだけ。
もう一度、恐る恐るファインダーを覗く。
猫たちは、まだそこにいた。
そして、さっきよりも数が増えている。姿も、より鮮明になっている。まるで、見られることで実体化していくかのように。
一匹の大きな黒猫が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。その歩き方は、完全に人間のそれだった。背筋を伸ばし、肩を揺らしながら、一歩一歩。
猫が、カメラのすぐ前まで来た。
そして、口を開いた。
『み...つ...け...た』
声は聞こえない。だが、口の動きで、何を言っているかは分かった。
翔太は、@ruins_seekerのEOS R5を震える手でベンチに戻した。最後の一枚に写っていた、グロテスクな顔が脳裏に焼き付いている。
「くそ...なんだよこれ...」
深呼吸をして、もう一度周囲を見回す。廃墟のホーム。誰もいない。
いや、待て。
ベンチの近くの地面に、何か落ちている。小さな包装紙。近づいて確認する。
「ちゅーる...?猫のおやつ?」
真新しい。ついさっき、誰かが落としたような。しかも、丁寧に開けられた形跡がある。猫に与えた後のような。
「この状況で...猫に餌やってる奴がいるのか?」
信じられない。この異常な町で、そんな呑気なことを。それとも、既に正気を失った誰かが...
ふと、空気が変わった気がした。さっきまでの重苦しい雰囲気が、一瞬だけ和らいだような。まるで、清らかな何かが通り過ぎていったような。
「気のせい...か」
翔太は、包装紙を掴んだ。かすかに、優しい香りがする。花のような、春のような。この死の町には、あまりにも不釣り合いな香り。
ここには、想像を超えた何かがいる。 そして、それは既に自分を認識している。
逃げるべきか。今ならまだ間に合う。車に戻り、来た道を引き返す。配信なんてどうでもいい。命あっての物種だ。
だが。
翔太の足は、前に進み始めていた。
ホームの端に、町へと続く小道が見える。草に覆われているが、確実に道だ。最近、何かが通った跡もある。
配信者としての性が、恐怖を上回る。ここまで来て、何も撮らずに帰るなんて。それこそ、配信者として死んだも同然。
それに、視聴者たちが待っている。5万回も再生された配信の続きを。伝説の配信を。
「...行くしかねえ」
翔太は自分に言い聞かせた。
α6400を構え直し、録画を再開する。
「ゴーストハンター、これより祢古町の中心部へ向かう」
誰もいない空間に向かって宣言する。
だが、本当に誰もいないのか。
ファインダー越しにしか見えない、あの猫たちは。
一歩、また一歩と、小道を進み始める。
背後で、何かが動く気配がした。
振り返る。
ベンチの上のEOS R5が、わずかに向きを変えていた。レンズが、翔太の背中を追うように。
まるで、それ自体が生きているかのように。