第6話 出発前の配信準備
シャワーを浴びる。熱い湯が、こびりついた汗と恐怖を洗い流していく。髪を入念にセットし、髭を剃る。カメラ映りを考慮して、少しファンデーションも塗る。プロの配信者として、見た目は重要だ。
クローゼットから、お気に入りの黒いパーカーを取り出す。「GHOST HUNTER」のロゴが背中に大きくプリントされている。2年前、登録者20万人突破記念で作ったオリジナルグッズだ。在庫は、まだ段ボール3箱分残っている。
朝食は、コンビニで買い置きしていたカロリーメイトとエナジードリンク。味わう余裕はない。機械的に口に押し込み、喉に流し込む。
撮影機材のチェックを始める。
メインカメラ:Sony α6400
予備バッテリー:4個
SDカード:64GB×3枚
サブカメラ:GoPro Hero8
ジンバル:DJI Ronin-SC
三脚:Manfrotto製の軽量型
LEDライト:2個
モバイルバッテリー:20,000mAh×3個
ノートPC:Surface Pro 7
一つ一つ、動作確認をしていく。バッテリーは全て満充電。SDカードはフォーマット済み。レンズも入念に清掃する。
最後に、配信用のスマートフォンを3台用意する。キャリアの異なるSIMカードを入れ、どこでも電波を掴めるようにする。ただし、祢古町で電波が入るかは、別問題だが。
全ての機材を、使い慣れたバックパックに詰め込む。重量は約15kg。肩に食い込む重さだが、これが「ゴーストハンター」の装備だ。
時刻は午前10時半。そろそろ出発の時間だ。
最後に、部屋を見回す。もしかしたら、これが最後になるかもしれない。いや、そんな弱気ではダメだ。必ず生きて帰ってくる。そして、伝説の配信者として復活する。
玄関のドアノブに手をかける。
深呼吸。
そして、配信開始。
[LIVE] 伝説の始まり。ゴーストハンター、本日祢古町へ出発!
カメラに向かって、決め台詞を放つ。
「おっはよー!お前らのゴーストハンターだ!」
いつもの調子。いつもの演技。だが、今日は違う。今日は、本当の恐怖に立ち向かう日だ。
「見てくれよ、この数字!朝っぱらから9,000人近く集まるとか、やっぱお前ら、本物が見たいんだよな!」
実際の視聴者数は8,975人。だが、これも久々の数字だ。コメント欄は既に盛り上がっている。
『ついに行くのか』
『マジで行くとは思わなかった』
『死亡フラグ立ちすぎ』
『遺言は?』
『彼女いないの?』
『実家には連絡した?』
「心配すんなって!俺には20万人の仲間がついてる!」
嘘だ。本当の友人など、もう何年も会っていない。家族とも疎遠だ。孤独な男が、画面の向こうの顔も知らない視聴者を「仲間」と呼ぶ。それが、配信者の現実。
「今日の相棒たちを紹介するぜ!」
カメラを反転させ、機材を一つずつ映していく。
「メインカメラは俺の魂、Sonyのα6400!」
レンズを愛おしそうに撫でる。これだけは演技ではない。
「サブにはGoPro Hero8!こいつらと一緒なら、どんな怪奇現象も丸裸にしてやるからな!」
強がりを言いながら、心の奥では別のことを考えている。最新のフルサイズ機を使う他の配信者たち。100万円を超える機材を惜しげもなく使う彼ら。それに比べて、自分の装備の貧弱なこと。
でも、言い訳はしない。限られた装備で、最高の結果を出す。それがプロだ。
「よし、じゃあそろそろ行くか。目的地は...まあ、着いてからのお楽しみってことで」
本当は、正確な場所が分からない。ネットで集めた断片的な情報では、「関東の北部」「県境の山間部」という曖昧な記述しかない。だが、そんな不安を視聴者に見せるわけにはいかない。
車のキーを手に取る。愛車は、5年落ちの国産SUV。走行距離は12万キロを超えている。最近、エンジンから異音がすることがあるが、修理に出す金はない。
「さあ、伝説の始まりだ!」
ドアを開け、外に出る。
3月下旬の東京は、春の陽気に包まれていた。桜のつぼみが、今にも開きそうなくらいに膨らんでいる。平和な日常の風景。
だが、翔太はもう、日常には戻れない場所へ向かおうとしていた。
駐車場に向かいながら、ふと空を見上げる。
雲一つない快晴。絶好の撮影日和だ。
なのに、なぜか背筋が寒い。
まるで、見えない何かに見られているような。
振り返る。
誰もいない。
ただ、電柱の上に、一羽のカラスが止まっているだけ。
カラスと目が合う。
その瞳の奥に、何か別のものが宿っているような錯覚を覚える。
首を振って、妄想を振り払う。
「行くぞ」
自分に言い聞かせるように呟き、車に乗り込む。
エンジンをかける。案の定、キュルキュルと嫌な音がする。だが、なんとかエンジンはかかった。
ナビに「祢古町」と入力してみる。
『該当する地点が見つかりません』
予想通りだ。
仕方なく、ネットで見つけた情報を頼りに、大まかな方向を設定する。北へ。ひたすら北へ。
「じゃあ、行ってきます!」
カメラに向かって手を振り、アクセルを踏む。
車は、ゆっくりと動き出した。
日常から、非日常へ。
生から、死へ。
その境界線を越えて。