第4話 静寂と予兆
配信を終了した瞬間、部屋の空気が変わった。
さっきまでPCファンの唸りと自分の声で満ちていた空間が、突如として真空のような静寂に包まれる。いや、静寂というより、音が「吸い取られた」ような感覚。耳の奥で、ジーンという耳鳴りだけが響いている。
翔太は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
モニターには、YouTubeの管理画面が表示されている。今終えたばかりの配信のアーカイブが、自動的に処理されていく。再生回数:1,523回。もう既に数字が伸び始めている。高評価:89%。珍しく高い数値だ。
しかし、翔太の意識はそこにない。
「...なんだったんだ、あれは」
独り言が、部屋の静寂に吸い込まれる。声が妙に遠く感じる。まるで、自分が自分でないような違和感。
立ち上がろうとして、膝に力が入らないことに気づく。緊張の糸が切れたのか、それとも本能的な恐怖か。両手を見ると、微かに震えている。
冷蔵庫に向かう。取っ手を掴む手が、汗で滑る。中から缶コーヒーを取り出す。プルタブを開ける音が、やけに大きく響く。
ゴクリ。
冷たい液体が喉を通る感触。ようやく、現実感が戻ってくる。
スマートフォンを手に取る。Twitterを開く。
「#祢古町」で検索。
新着ツイートが次々と表示される。だが、妙だ。3時間前、2時間前のツイートはあるのに、ここ1時間以内の投稿が一つもない。まるで、急に誰もがこの話題を避け始めたかのように。
5chに戻る。例のスレッドを再度開こうとする。
『このスレッドは見つかりませんでした』
目を疑う。Part.27、確かに存在していたはずのスレッドが消えている。dat落ちにしては早すぎる。まだ983レスで、1000にも達していなかったのに。
検索をかけ直す。すると、新しいスレッドが立っていた。
【緊急】祢古町には行くな【最後の警告】
書き込み時刻を見る。わずか5分前。自分が配信を終了した直後だ。
震える指でスレッドをタップする。
しかし。
『ページが見つかりません』
リロード。同じエラー。もう一度リロード。やはり同じ。
「...消された?」
背筋に冷たいものが走る。誰かが、意図的に情報を消している。
ふと、窓の外を見る。深夜3時過ぎの東京。いつもなら、遠くに首都高の光の帯が見え、どこかで救急車のサイレンが聞こえるはずだ。
だが、今夜は違う。
異様なまでの静けさ。まるで、世界から音が消えたかのよう。いや、よく耳を澄ますと、微かに何かが聞こえる。
カリ...カリ...
爪で何かを引っ掻くような音。どこから聞こえるのか分からない。壁の中?天井裏?それとも...
翔太は息を殺して耳を澄ます。
音は止んだ。
深呼吸をして、キッチンに立つ。流しには、3日分の食器が積み重なっている。水を出して、機械的に洗い始める。日常的な作業で、昂ぶった神経を鎮めようとする。
皿を洗いながら、窓ガラスに映る自分の姿を見る。やつれた顔。落ちくぼんだ目。28歳には見えない。35歳と言われても通用するだろう。
その時、窓ガラスに映る背景に、何かが動いた。
振り返る。
何もない。見慣れた狭い部屋があるだけ。積み上げられた機材の箱。脱ぎ散らかした服。壁のポスター。
もう一度、窓を見る。
対面のアパートの屋根に、黒い影がある。猫だ。街灯の光を受けて、シルエットだけが浮かび上がっている。
猫は、じっとこちらを見ている。正確には、翔太のいる部屋を見上げている。微動だにしない。彫刻のように。
翔太は、なぜか視線を外せなくなる。
1分。2分。3分。
お互いに、じっと見つめ合う。
猫の目が、街灯の光を反射してか、微かに光っているように見える。緑色の、リン光のような。
瞬きをした瞬間、猫の姿は消えていた。
まるで、最初からそこには何もなかったかのように。
「...疲れてんだ、俺は」
翔太は自分に言い聞かせる。頭を振って、皿洗いを再開する。
だが、手が震えて皿を取り落としそうになる。
今日の配信で得た収入を計算する。スパチャ5万円。広告収入は多めに見積もっても3,000円程度。合計53,000円。悪くない。これで来月の家賃は払える。
しかし、それも祢古町から生きて帰れたらの話だ。
ベッドに入る。スマートフォンを充電器に繋ぎ、アラームを午前7時にセット。明日は長い一日になる。
目を閉じる。
しかし、眠れない。
目を閉じると、あの『にゃ』の文字列が瞼の裏に浮かぶ。規則正しく、機械的に繰り返される二文字。常連視聴者たちの名前と共に。
彼らに、何が起きたのか。
なぜ、全員が同じタイミングで、同じ行動を取ったのか。
そして、なぜ『にゃ』なのか。
猫。
祢古町。
@ruins_seekerの最後の投稿。
『この町のネコ、やっぱりおかしい』
点と点が繋がりそうで、繋がらない。もどかしい。
時計を見る。午前4時を回っていた。外はまだ真っ暗だ。
ふと、5chをもう一度確認したくなる。スマートフォンを手に取り、ブラウザを開く。
オカルト板にアクセス。そして、目を疑った。
新しいスレッドが立っている。
【祝】ゴーストハンター、祢古町へ【餌確定】
書き込み時刻は、たった今。
恐る恐る、スレッドを開く。今度はエラーにならない。
1 名前:餌 ◆neko 投稿日:2024/03/24(日) 04:13:22.13 ID:???
ついに決まったな 上物の餌が来る
個性:強 自我:強 承認欲求:最大 完璧だ
2 名前:名無し 投稿日:2024/03/24(日) 04:13:45.99 ID:???
何年ぶりだ?ここまで上質なのは
3 名前:古参 投稿日:2024/03/24(日) 04:14:02.34 ID:???
20万人の想念を背負った餌か 月の民も喜ぶだろう
翔太の手から、スマートフォンが滑り落ちる。
ベッドの上に落ちたそれを、拾い上げる気力もない。
彼らは知っていた。
自分が行くことを。
いや、もしかしたら、仕組まれていたのかもしれない。
最初から、自分は選ばれていたのかもしれない。
「餌」として。
窓の外で、猫の鳴き声がした。
一匹ではない。
複数の、いや、無数の猫たちの声が、夜の闇に響き渡る。
まるで、歓迎の歌のように。
翔太は、布団を頭まで被った。
明日が来なければいいのに。
そう思いながら、いつの間にか意識が闇に落ちていく。
そして、夢を見た。
古い町を歩いている。建物の窓という窓から、無数の猫がこちらを見ている。いや、よく見ると、猫の顔をした人間だった。四つ足で立ち、尻尾を揺らしながら、じっとこちらを見つめている。
どこからか、囁き声が聞こえる。
猫の鳴き声のような、でも確かに人の言葉。
「ふじわら...しょうた...」
自分の名前を呼ばれて、翔太は立ち止まる。
振り返ると、そこには鏡があった。
鏡に映る自分の顔を見て、翔太は声にならない悲鳴を上げた。
瞳孔が、縦長になっていた。