第3話 帰れない道への投票
帰れない道への投票
画面上のコメントが、滝のように流れ始めた。チャット欄のスクロール速度を最速にしても、もはや個々のメッセージを読むことは不可能だ。
『本物って何?』
『詳しく!』
『は?』
『祢古町のことか?』
『まじ?』
『おいおい』
『ガチならヤバい』
『釣りだろ』
『いつもの』
『どうせ口だけだろw』
『証拠は?』
『行くの?』
『行けよ』
『行くな』
『死ぬぞ』
視聴者数のカウンターが、狂ったように数字を刻む。2,500人。3,000人。3,500人。まるで、見えない何かが人々を呼び寄せているかのように。
翔太の唇が、ゆっくりと吊り上がる。これだ。この熱狂。この注目。これこそが、彼が渇望していたものだ。
「口だけ?」
マイクに向かって、挑発的に繰り返す。声に芝居がかった響きを持たせる。かつて演劇部だった経験が、こんなところで活きている。
「面白いこと言うじゃん」
椅子にもたれかかり、カメラをじっと見据える。視聴者一人一人の目を見ているつもりで。実際には、レンズの向こうの虚無を見つめているだけだが。
「じゃあ、お前らに決めてもらうわ」
キーボードに手を伸ばす。OBSの設定画面を開き、投票機能を追加する。手慣れた動作。何度も繰り返してきたルーティン。だが、今回は違う。今回の投票結果は、本当に彼の運命を左右するかもしれない。
設定完了。投票画面が配信に表示される。
『このゴーストハンターが、消息を絶った@ruins_seekerの足跡を追って、謎の町「祢古町」に突撃すべきか!?』
選択肢は二つ。
YES - 行け!伝説を作れ!
NO - やめとけ。命あっての物種だ
「投票時間は3分間!お前らの本音を聞かせてくれ!」
翔太は両手を広げ、大げさなジェスチャーで煽る。心臓が胸郭を激しく打つ。これは演技ではない。本物の興奮と、その奥に潜む原始的な恐怖。
投票バーが動き始めた。
YES:12%
NO:88%
最初はNOが優勢。当然だ。常識的に考えれば、34人が失踪している場所に行くなど正気の沙汰ではない。
だが、10秒後。
YES:31%
NO:69%
潮目が変わり始める。コメント欄も変化していく。
『行けよ!』
『ビビってんの?』
『口だけかよ』
『昔のゴーストはもっと攻めてた』
『20万人の意地見せろ』
30秒経過。
YES:54%
NO:46%
逆転。翔太の額に、冷たい汗が浮かぶ。本当にこうなるとは。いや、心のどこかで期待していたのかもしれない。
1分経過。
YES:73%
NO:27%
もはや大勢は決した。コメント欄は熱狂に包まれている。
『伝説の始まり!』
『ガチで行くのか』
『歴史に残る配信になる』
『死ぬなよ!』
『むしろ死んでこい』
『神配信確定』
『録画開始』
翔太は、自分の作った罠に自分がはまったことを理解していた。もう後戻りはできない。20万人(実際は2万人程度だが)のチャンネル登録者の前で宣言してしまった以上、行かないという選択肢は存在しない。
2分経過。
YES:85%
NO:15%
『機材大丈夫か?』『バッテリー多めに持ってけ』『充電器も』『食料は?』『警察に連絡しとけ』『遺書書いとけw』『これでコケたら引退なw』『いや、ガチで引退どころじゃない』
最後の1分。翔太は息を殺して画面を見つめる。
そして、ある一つのコメントが目に入った。
『やめとけ、あそこは本当にヤバい』
他のコメントとは明らかに違う雰囲気。絵文字もなく、煽りでもない。純粋な警告。アカウントを確認しようとしたが、既にコメントの洪水に流されていた。
3分経過。最終結果。
YES:92%
NO:8%
「はい、決まり!」
翔太は立ち上がり、カメラに向かって両手を挙げる。
「民主主義の勝利ってやつだな!お前らが望んだんだからな、俺は行くぜ、マジで!」
視聴者数は5,000人を突破していた。久しぶりの数字だ。アドレナリンが全身を駆け巡る。これだ。この感覚だ。世界の中心にいる感覚。全ての視線が自分に注がれている陶酔感。
『行くなら明日?』
『いつ出発?』
『配信しながら行くの?』
『車?電車?』
『場所分かるの?』
『つーか生きて帰れるの?』
質問の嵐。翔太は王者のような気分で答えていく。
「明日の朝、出発する!もちろん配信しながらだ!」
本当は準備期間が欲しい。情報収集も必要だ。だが、この熱が冷めないうちに行動しなければ。鉄は熱いうちに打て。それが配信の鉄則だ。
その時、再び高額のスーパーチャット通知が画面に現れた。
『名前を教えるな - ¥50,000』
金額を見て、翔太の動きが止まる。5万円。最近では考えられない高額だ。これで当面の生活費は...いや、そんなことを考えている場合ではない。
「うおっ、5万スパチャ!太っ腹だな、サンキュー!」
だが、メッセージの内容が妙に引っかかる。
「えーと、『名前を教えるな』?」
意味が分からない。誰に?何の名前を?
「よく分かんねえけど、ありがたく調査費用に使わせてもらうぜ!」
軽く流そうとした瞬間、異変が起きた。
コメント欄が、突如として静まり返る。さっきまでの喧騒が嘘のように。まるで、全員が同時に呼吸を止めたかのような静寂。
そして、1秒後。
『にゃ』
たった二文字のコメントが表示される。
『にゃ』『にゃ』『にゃ』『にゃ』『にゃ』『にゃ』『にゃ』『にゃ』
同じコメントが、規則正しいリズムで流れ始める。機械的に。無機質に。
翔太は画面を凝視する。投稿者のアカウントを確認する。
@tanaka_ghost_fan
@yamada_anti_
@regular_viewer_01
@supporterNo1
@longtime_fan
見覚えのある名前ばかり。常連視聴者。いつも応援コメントをくれる人たち。批判的だが毎回見に来るアンチ。彼らが全員、同じタイミングで、同じ文字を打っている。
「は?なんだこれ、荒らしか?」
だが、これは荒らしとは違う。もっと不気味な何か。
『にゃ』『にゃ』『にゃ』『にゃ』『にゃ』
コメントは止まらない。むしろ加速していく。文字が画面を埋め尽くしていく。
「おい、どうしたんだよお前ら。大丈夫か?」
返事はない。ただ、『にゃ』の文字列だけが、執拗に繰り返される。
視聴者数が、急激に減り始める。5,000人から4,000人へ。3,000人へ。まるで、何かに呼ばれたかのように、一斉に配信から離脱していく。
2,000人。1,000人。500人。
そして、最後には。
視聴者数:0人
翔太一人だけが、誰もいない配信空間に取り残された。
「...なんなんだよ、一体」
震える手で、配信終了ボタンを押す。
[配信終了]
モニターが暗転する。部屋に静寂が戻る。
だが、その静寂は以前とは違っていた。何かが、根本的に変わってしまったような。まるで、見えない境界線を越えてしまったかのような。
翔太はまだ知らない。 あの『にゃ』の合唱が、既に始まりの合図だったことを。 そして、自分がもう後戻りできない場所まで来てしまったことを。