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第26話 静かなる遭遇

薬局から這うように逃げ出した翔太は、震えが止まらなかった。壁一面の爪痕。『たすけて』の文字が目に焼き付いていた。


「はぁ...はぁ...」


荒い息を整えようとした時、突然、空気が変わった。


重苦しい恐怖が支配していた空間に、一瞬だけ、清らかな風が吹いたような。まるで、誰かが浄化の祈りを捧げたかのように。


どこからか、かすかに鈴の音が聞こえた気がした。


チリン...


「なんだ...?」


一瞬だけ、心が落ち着く。恐怖が、わずかに和らぐ。


だが、それも束の間。また重い現実が押し寄せてくる。


「誰かが...いる」


この異常な町に、自分以外の人間が。だが、それは希望なのか、さらなる絶望なのか。


翔太には、判断がつかなかった。


通りの向こうから、誰かが歩いてくる。


二足歩行。人間だ。


しかも、普通に歩いている。四つ足になったり、奇妙な動きをしたりしない。


翔太の心に、一筋の希望が灯った。


正常な人間がいる。もしかしたら、助けを求められるかもしれない。


「おーい!」


翔太は、手を振りながら駆け寄った。


近づくにつれて、相手の姿がはっきりしてくる。


老人だった。70代くらいの、小柄な老人。きちんとした身なりで、竹箒を持っている。


店の前を掃除していたらしい。


「あの!すみません!」


翔太は、息を切らせながら話しかけた。


「生きてたんですね!この町で、一体何が...」


老人は、ゆっくりと掃く手を止めた。


そして、翔太の方を向く。


顔は、穏やかな笑みを浮かべている。普通の、人の良さそうな老人の顔。


だが、その目は...


完全に縦長の瞳孔。


猫の目だった。


そして、その瞳の奥に浮かぶ、言いようのない幸福感。満ち足りた、完全な満足の表情。


老人は、首をかしげた。


まるで、珍しい虫でも見つけたかのように、翔太を観察する。


そして、口を開いた。


「にゃあ...」


完全に、猫の鳴き声だった。


だが、翔太には、その意味が何となく理解できた。


『あら、まだ人間なの?』 『かわいそうに』 『でも、もうすぐよ』


老人の表情に、憐れみの色が浮かんだ。


まるで、重い病気で苦しんでいる患者を見るような目。


そして、他の住民たちも姿を現し始めた。


家の中から、路地の奥から、屋根の上から。


様々な段階の「変化」を遂げた者たち。


完全に猫になった者。 半分だけ変化した者。 変化が始まったばかりの者。


皆、翔太を取り囲むように集まってくる。


敵意はない。


むしろ、暖かい歓迎の雰囲気さえある。


だが、その視線には共通したものがあった。


『かわいそうに』 『まだ苦しんでいるのね』 『早く楽になればいいのに』


翔太は、じりじりと後退した。


その時、群衆の中から、一人の少年が前に出てきた。


10歳くらいの男の子。まだ変化の初期段階らしく、人間の姿を保っている。


少年は、翔太の服の裾を引っ張った。


「おじさん」


まだ、人間の言葉が話せた。


「どうして変わらないの?」


無邪気な質問。純粋な疑問。


「みんな、こんなに気持ちいいのに」


少年の瞳孔は縦長だが、その表情は本当に幸せそうだった。


「名前も忘れて、ただ『在る』だけでいいんだよ」


少年は、にっこりと笑った。


「ねえ、おじさんも早く仲間になりなよ」


その言葉に、周囲の住民たちも頷く。


『にゃあ』『にゃあ』『にゃあ』


歓迎の合唱。


来い、来い、こちらへ来い。


楽になれ、幸せになれ、個を捨てろ。


翔太は、答えられなかった。


なぜ、自分は変化しないのか。


なぜ、彼らのように「幸福」になれないのか。


その答えは、もう分かっている。


「藤原翔太」という名前に執着しているから。


「ゴーストハンター」という仮面にしがみついているから。


20万人の登録者という幻想を手放せないから。


だから、変化できない。


だから、「処理」される。

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