第24話 猫田薬局のカルテ
逃げるように喫茶店を後にした翔太は、昨日探索しかけた薬局の前で足を止めた。
「猫田薬局」
錆びた看板が、朝日を受けて鈍く光っている。
昨日、この中で恐怖のあまり逃げ出した場所。暗い店内で、何かが潜んでいた場所。
だが、昼間の今なら...
翔太は、意を決して店内に足を踏み入れた。
懐中電灯は必要ない。割れた窓から差し込む陽光が、店内を明るく照らしている。
昨日の恐怖が嘘のように、ただの廃墟と化した薬局がそこにあった。
棚には、埃を被った薬箱が並んでいる。床には、ガラスの破片が散乱している。典型的な廃墟の光景。
だが、翔太は気づいた。
荒らされ方に、明確なパターンがあることに。
風邪薬、胃腸薬、湿布薬...一般的な薬品の棚は、ほぼ手付かず。
対して、睡眠導入剤、精神安定剤、向精神薬の棚は、完全に空っぽ。そして、奇妙なことに、動物用医薬品の棚も同様に荒らされている。
まるで、特定の薬品だけを狙って持ち去ったかのよう。
「変化」に必要な薬品を集めたのか?
それとも、変化を抑制するため?
考えても答えは出ない。
翔太は、さらに奥へと進んだ。
レジカウンターの奥に、「調剤室」と書かれた扉がある。昨日、閉じ込められかけた場所だ。
恐る恐る、ドアノブを回す。
今日は、すんなりと開いた。
中に入ると、昨日見た光景がそのまま残っていた。
壁一面の爪痕。無数の文字。
『たすけて』 『にんげんにもどして』 『なまえをかえして』
だが、朝日の下で見ると、また違った発見があった。
文字が、時系列順に並んでいることに気づいたのだ。
最初は、しっかりとした文字。 次第に、震えるような文字に。 そして、最後は、ミミズのような判読困難な文字。
まるで、書いた者が徐々に人間性を失っていく様子が、そのまま記録されているかのよう。
そして、調剤台の上に、大量の書類が散乱していることに気づいた。
カルテだ。
患者の診察記録。
翔太は、震える手でカルテを手に取った。
患者名:鈴木 実(72歳・男性)
日付:2024年3月15日
主訴:『夜間、家族の顔が分からなくなる』
症状:妻を「飼い主」と呼ぶ
四つ足での歩行を好む
人間の食事を拒否、生魚を要求
鏡を見ると威嚇
診断:進行性人格変容症候群(仮)
処方:ビタミンB群、経過観察
備考:患者は症状を苦痛と感じていない。むしろ「楽になった」と述べる。 妻も同様の症状を呈し始めている。
「なんだこれ...」
次のカルテをめくる。
患者名:田中 美咲(9歳・女児)
日付:2024年3月17日 保護者:田中 一郎(父)、田中 花子(母)
主訴:『娘の様子がおかしい』
症状:体毛の異常増加(特に背中、四肢)
言語能力の退行(「にゃ」「にゃあ」のみ発語)
瞳孔の形状変化(縦長化)夜行性の行動パターン
診断:小児期急性変態症(仮)
処方:なし(治療法不明)
備考:両親も同様の症状。家族全員が「幸せ」と表現。 学校には「転居」として届け出済み。
翔太の手が、止まらなくなった。次々とカルテをめくる。
どれも、同じような内容だった。
人間から、猫のような存在への変化。 そして、当事者たちは皆、それを「幸福」と表現している。
さらに奥のカルテを見つける。日付が新しい。
患者名:前田 誠(35歳・男性)
日付:2024年3月22日
主訴:『変化が起きない』
症状:他の住民のような変化が見られない
72時間経過後も人間のまま極度の不安と孤独感「仲間外れ」との訴え
診断:変態不適合症
処置:月の民への引き渡し
結果:3月23日未明、処理完了。栄養価高し。
「処理...?」
嫌な予感がする。
さらにカルテを探る。そして、最後の一枚を見つけた。
日付は...明日?
患者名:藤原 翔太(28歳・男性)
日付:2024年3月26日(予定)
症状:強度の自我執着。変化の兆候なし。「個」への病的固執
診断:完全不適合者
処置:特別処理(月の民の直接介入)
備考:20万の視聴者を持つ配信者。
精神エネルギーの質が極めて高い。 最高級の供物となる見込み。
カルテが、翔太の手から滑り落ちた。
自分の運命が、既に決められている。
明日、3月26日。
「特別処理」
その意味は、考えたくもない。




